殺害された子供の画像を公開することの是非 報道メディアが統制しても、SNSに上がるのを防ぐことはできない!

 本日翻訳して紹介するのは、11月28日に the New Yorker の Web 版にのみ掲載された Jay Caspian Kang によるコラムです。タイトルは、” Children We Must See “(殺害された子供たちの映像は公にすべきか)となっています。

 Jay Caspian Kang はスタッフライターです。著作も多い(今のところ邦訳されているものは無い)ですし、他誌でも記事、書評等を書いています。今回邦訳したコラムのスニペットは、”It’s time for Americans to rethink their squeamishness about releasing the photos of the youngest victims of mass violence.”(アメリカは、嫌悪感を理由に銃撃事件の年少の犠牲者の画像が公開されない状況を再考すべきである。)となっています。ガザの紛争に関して、子供の遺体を抱いている父親の画像が公開されています。私は目にしていませんが、もっと生々しい写真も出回っているようです。そうした画像が出回っている背景と、それが公開されることの意義、そもそも公開すべきなのか隠すべきものかということが記されています。

 Caspian Kang は、血なまぐさい生々しい画像も公開すべきと考えています。そもそもあまりにも生々しすぎるから公開しないというのであれば、それは誰がどういった基準で決めるのかが問題となります。現状では報道メディアがそれを公にするか否かを決めているわけですが、それはすでに世論を操作する意図があることに他ならないと指摘しています。それよりも何でも公にする方が操作する意図がないという主張のようです。また、実際には報道メディアが生々しい画像を公にしなくても、SNS上に誰かがあげてしまう世の中になっているので、隠す意義がなくなってしまっています。

 ちょっと抽象的な内容のコラムでしたので誤訳が多いかもしれませんが、詳細は和訳全文をご覧ください。では、以下に和訳全文を掲載します。