3.
心肺停止からの蘇生が初めて確認されたのは、1732年12月3日のことでした。スコットランドの炭鉱夫ジェームズ・ブレア(James Blair)が採掘作業時に倒れました。何人かの同僚が彼を救出した後、近所の開業医ウィリアム・トサック(William Tossach)は、ブレアに触ったところ、冷たいこと、脈がないこと、呼吸をしていないことに気づきました。トサックはブレアの鼻孔を押さえ、口から息を吹き込みました。その時のことを彼は記録していました、「即座に6、7回の非常に速い心臓の鼓動を感じた。」と。約1時間後にブレアは目を覚まし、水を一口飲みました。さらにその4時間後、彼は歩いて家に帰りました。その後、溺死溺水者救命学会(The Society for the Recovery of Persons Apparently Drowned)は、様々な蘇生法を提案し推奨するようになりました。体を温めるとか、瀉血(bloodlettig:血液を体外に排出させること)するとか、腹骨を圧迫するとか、ふいごを使ってタバコの煙を口や肛門に送り込むとかでした。ちなみにタバコの煙を肛門に送り込む方法は、”blowing smoke up your ass(機嫌をとるという意味のスラング)”という成句の語源となっています。
すべての死んだ人が蘇生処置を受けたわけではありません。1792年、イギリスの医師ジェームス・カリー(James Curry)は、回復可能(recoverable)な死と、絶対的(absolute)な死を区別しました。前者は主に事故によるもので、後者は慢性疾患や衰弱によるものです。蘇生法は前者のためのものであるとされてきました。1960年に正式に医療現場に導入された心肺蘇生法(CPR)も同様でした。この年、除細動器の発明者であるウィリアム・クーベンホーフェン(William Kouwenhoven)が研究論文を1本発表していました。心停止状態にある20人の患者を対象に、心肺蘇生法(CPR)の効果を研究したものでした。その内の70%が生き返っていました。というのも、そこでの被験者たちは、若く、そうでなければ健康で、感電や手術や麻酔の副作用など、治療可能な理由で心臓が止まっていたからです。
しかし、心肺蘇生法(CPR)は簡単なものでしたので、すぐに多くの病院が患者の状態に関係なく、何の見境も無く誰にでもこの処置を施すようになりました。(クーベンホーフェンが「必要なのは両手だけだ」と書いているように、心肺蘇生法(CPR)は実に簡単なのです。)死地から回復しても、回復後の生活は予想以上に厳しくなる可能性もあります。ジャン=ドミニク・ボービー(Jean-Dominique Bauby:フランスの雑誌編集者)が回顧録”The Diving Bell and the Butterfly”(邦題:潜水服は蝶の夢を見る)に記しているのですが、彼は脳卒中(stroke)で死にかけてから蘇ったのですが、麻痺が残りました。そのため、意思の疎通は左のまぶたの動きでしかできなくなりました。彼は記しています、「 かつては、脳卒中は本当に恐れられていました。脳卒中になれば、後は死ぬしかありませんでした。しかし、蘇生技術が向上したことで、必ずしも死に直結するものではなくなりました。しかし、その結果、苦痛がもっと大きいものになり、長引くようになっただけです。」と。生存できるが苦しむ期間が長くなるという状況が生み出されるわけで、新たな疑問が浮かび上がってきました。医学の目的は人を生かすことなのか、それとも一定の生活の質(quality of life)を保証することなのか?患者は、延命治療を法的に拒否することはできるのか?そのような患者の決定を尊重した場合、医師は罪に問われるのだろうか?
1970年代から80年代にかけて、この議論は法廷に持ち込まれました。発端となったのは、カレン・アン・クインラン(Karen Ann Quinlan)とナンシー・クルーザン(Nancy Cruzan)という20代前半の女性2人の訴訟です。彼女たちは心停止に陥り、救急救命士(paramedics)によって蘇生されたのですが、永続的な植物状態(permanent vegetative states)に陥りました。彼女たちの親は延命治療を止めるように懇願したのですが、医師団は拒否していました。殺人罪に問われることを恐れたからです。クインランの訴訟はニュージャージー州最高裁判所で、クルーザンの方は連邦最高裁判所で判定が確定したのですが、患者にはいわゆる「死ぬ権利(right to die)」があり、つまり、書面または指定された代理人によって希望が伝えられた場合に限り、医療行為を拒否する自由があるとされました。彼女たちは、最終的に自然死を許されました。
それでもなお、治療を拒否する権利は、すぐに治療を主張する権利と認識されるように変化する可能性があります。医師は、しばしば無益な延命措置を望む患者の要求と、医師としての判断基準から導き出される感覚との折り合いをつけるのに苦労しています。1989年、キャサリン・ギルガン(Catherine Gilgunn)という72歳の女性患者が、股関節の骨折のためマサチューセッツ総合病院(Massachusetts General Hospital)に入院しました。もともと健康面で様々な問題を抱えていました。手術後、彼女は発作を起こし、昏睡状態に陥り、人工呼吸器に繋がれました。以前からギルガンは娘のジョーン(Joan)に、もし自分が重篤な状況になったら医学的に可能なことはすべて試みてほしいと伝えていました。しかし、彼女を診ていた医師たちは、状況からして心肺蘇生法(CPR)は無益で非人道的なものでしかないとみなしました。そして、病院の倫理委員会の支持を得てDNR指示(蘇生処置拒否指示)を出しました。ジョーンは訴訟を起こしましたが、陪審は彼女に不利な判決を下しました。この訴訟で医師が延命治療をすることを強制されることはないことが確認されたとして、新聞等の見出しには次のような文言が並んでいました。「医師は患者の延命治療に対する意思表示を無視できる」、「患者の権利を制限する裁判所の判決」などです。報道各社が深く懸念していたのは、患者の自由意思が医師の権威によって侵食される可能性があるということです。
こうして不穏な歴史が残り、不信感が残ったわけですが、いまだに患者と医師の対立というものは残っています。私がしばしば医療現場で一緒に働く同僚から聞かれるのは、不治の病に冒された患者に心肺蘇生法(CPR)を施さなかったら訴えられるか否かということです。しかし、これは法的な問題ではなく、言語的な問題でもあります。生命倫理学者のミルドレッド・ソロモン(Mildred Solomon)が書いているように、医師のジレンマは「単に患者の身体に負担のかかる治療を提供しなければならないというプレッシャーから来るのではなく、問題を語るための適切な言葉や概念的枠組みを見つけられないことから来る」のです。言葉は常に医師と患者の関係の基礎となるものです。もし、延命治療に関して医師が語る言葉が、十分に機能していないのであれば、それは医師がそれに関して十分なトレーニングをされないことに起因しています。