ウソでしょ?心肺蘇生法(CPR)はあまり効果が無い!病身者や高齢者にCPRをするのは苦痛が増すだけ!

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 緊急事態になると、人間の危険に対する感覚は研ぎ澄まされる傾向があります。新型コロナが猛威を振るった時、入院患者のほとんどは酸素吸入と投薬で回復しました。しかし、中には、このウイルスによって極度の炎症反応を引き起こされ、肺がセメントで固められたように硬くなる者もいました。人工呼吸器によって肺が回復するまでの時間を稼ぐことはできても、取り返しのつかないダメージを受けた場合は、どんな生命維持装置も役に立たず、心停止は避けられませんでした。新型コロナウイルスには残酷な側面があって、回復しているように見える人の病状が突然悪化することも少なくありませんでした。

 このような不確実性は、医学的な意思決定をする際に最も心を痛める部分です。医師はデータと最善の判断に基づいて予後を判断しますが、医師も所詮ただの人間ですので、常に完璧で誤らないということはありません。医師も患者も、ありえないような極端な成功例を耳にしたことがあります。なぜだかわからないが超重篤な病人が心肺蘇生後(CPR)によって回復した例を知っていたりします。ですので、ICUに入っている患者がいるとすると、その患者が次の滅多に無い例外となってもおかしくないと考えたりします。あり得ないことではないと思うわけです。このような状況ですから、できるだけ医師と患者が話し合うことが重要となるのです。心肺蘇生法(CPR)の詳細についてとか、回復する可能性とかについて説明し、理解してもらうことが重要です。また、患者が生活の質についてどう考えているかを知ることも重要です。脳を損傷するリスクは決して負わないという人もいるでしょうし、心臓が動いていれば生きているわけだから延命治療をする意味があると信じる人もいるでしょう。それぞれ、選択が異なることは当たり前のことです。

 新型コロナのパンデミック下では、心肺蘇生法(CPR)をするか否か検討する医師は、新型コロナウイルスの未解明な点と強い感染力を考慮した上で、心肺蘇生法(CPR)が成功する確率の低さを考慮して、判断を下さなければなりませんでした。すべての新型コロナ感染者にDNR指示(蘇生処置拒否指示)を出す医療機関もありました。また、心肺蘇生法(CPR)を1度だけ試みたところもあります。また、2人の医師が協力して判断し心肺蘇生法をしないという決定を下した場合には、患者の同意を求めることなくその旨を伝えることを許可したところもありました。ニューヨークの医療機関では、DNR指示を出したところは多くなかったようです。アルバート・アインシュタイン医科大学(Albert Einstein College of Medicine)の生命倫理学部長ティア・パウエル(Tia Powell)と同医科大の緩和ケア医エリザベス・チュアン(Elizabeth Chuang)は、「医学的に無益(medically futile)」な処置にこだわることは、医師と患者の双方にとって益が無い主張します。「それは悲劇をさらに悪化させる方法でしかなかった。」と、彼らは書いています。

 問題は、心肺蘇生法(CPR)には益がそれほど無いということだけではありません。新型コロナのパンデミックによって、心肺蘇生法(CPR)の本質的な問題、より深く厄介な問題が明らかになりました。生命倫理学者のナンシー・ジェッカー(Nancy Jecker)が言っていたのですが、死にかけの患者がいると何でもかんでも心肺蘇生法(CPR)をする状況は、医師が失敗を恐れる心理が根底にあります。また、それをしないと何故だか疾病と真剣に向き合っていないような気がするという心理もあります。長年にわたって、私が多くの患者やその家族から聞かされてきたのは、心肺蘇生法(CPR)は人間の権利であり、疾病と戦うという決断であり、愛する者を守るという意思表示であり、可能なことはすべて試したという証であるということです。医師にとっても、心肺蘇生法(CPR)は儀式であり、ふと頼りたくなる心の拠り所のようなものです。私は何度も目にしたのですが、私の同僚は手術が不可能なほど病状が進んでいる患者に手術を勧めませんでした。腎臓専門医が心臓が副作用に耐えられない患者に透析を中止したところも見ました。そういう判断をした医師たちが、苦悩している姿も沢山見てきました。彼らは、確実に患者の死が近いことを認識していたのですが、それでも延命治療を勧めないことに心を痛めていたのです。

 新型コロナは、こうした空気の一部を払拭してくれました。ニールが私に言ったのですが、新型コロナ感染者の数があまりにも多かったことが、DNR指示(蘇生処置拒否指示)の提案の仕方を学ぶのに役立ったそうです。彼は言いました、「新型コロナの感染が増える前は、心肺蘇生法(CPR)を患者に説明する機会は週に2〜3回のみでした。それで、するかしないかの決断は、患者本人に委ねていました。しかし、それが、突然、1日に何度も話さなければならなくなったんです。長い間人工呼吸器をつけている患者には心肺蘇生法(CPR)はあまり役に立たないんですが、私はそのことを上手く伝えられるようになりました。何度も伝えなければならなかったんで、自然とそうなってしまったたんです。」と。

 新型コロナの影響で素早い対応を余儀なくされたわけですが、その結果として、大きな教訓が得られました。新しいケアの形がモデル化されました。カイザー・パーマネンテ病院(オレンジ郡)で生命倫理部長をしているフェリシア・コーン(Felicia Cohn)が言っていました、「多くの患者の家族が心肺蘇生法(CPR)をしなくても問題無いと言っているのを現場で目にしました。どうしてかと言うと、彼らは新型コロナで重篤になったら心肺蘇生法(CPR)をしても効果が無いことを認識していたからです。問題は、心不全(heart failure)や癌(cancer)や老人性痴呆症症(dementia)についても同じ論理を適用するのが難しいということです。それは、医師にとっても患者にとっても難しい気がします。しかし、もしこれらの病気について新型コロナの時と同じように重篤な際には効果が無いということを広く認識してもらえるようになれば、その上で、死がどのようなものなのか、なぜ苦痛を長引かせるようなことをしてはいけないのか、ということも理解してもらえれば、もっと人道的な医療システムが確立されるかもしれません。」と。

 病気と同じように、死にもいろいろな顔があります。死にかけている人すべてが人工呼吸器につながれ、目も開けられないわけではありません。肺がんに冒されながらもコーヒーを飲み、ホスピスで朝刊を読むような紳士もいますし、ルー・ゲーリッグ病(Lou Gehrig’s disease)で嚥下機能を失った女性もいます。万人が自身に死が迫るということを正しくイメージできていないわけですが、医師は、できるだけ患者と話をして、患者自身が死と向き合うのを助けなければならないのかもしれません。しかし、現実的にはそれは容易なことではありません。

 医師にそうしたことをできるようにする教育や研修が必要でしょう。私が医学部に入学した最初の週の解剖学の実習では、心臓のスポンジ状の弁や緻密な筋肉組織を生で見て驚嘆しました。同時に、献体してくれた人たちに感謝の意を表す追悼式も行いました。その後の研修のカリキュラムでは、死体に触れることは一切ありませんでした。また、誰も、治療がうまくいかなかった時に患者をどのようにケアすべきかを教えてくれませんでした。教授たちは思いやりや共感の大切さを強調しましたが、正直で明確なコミュニケーションが思いやりであるということは教えてくれませんでした。研修医時代のことですが、私はアンドリューの妻に、彼が多臓器不全(multisystem organ failure)で予後不良(poor prognosis)であることを伝えました。また、彼の気道が確保できなければ、人工呼吸器が必要になるかもしれないことも伝えました。私は、アンドリューの腎臓の機能が停止していて悲惨な兆候だと認識していました。それでも、私は、”死に瀕している (dying)”という表現は使えませんでした。代わりに”衰えている(declining)”という表現を使いました。私は曖昧な表現をせずにはいられなかったのです。

 その後、私は医師としての経験を重ねました。ですので、現在は、このような会話は必要な手順であることを認識していますし、医療現場における他の処置と同様に厳格な正確さが要求されることも知っています。医師は、本当のことを言わなければならないということを学ばなければならないのです。