4.西部開拓時代には、信仰がキャビン・フィーバーになるのを防いだ
私の4代前の祖母であるサリー・デフォレスト・ベネディクトの書いた手紙が、代々受け継がれていて私のところに残っています。彼女の夫であるプラット・ベネディクトは、オハイオ州ノーウォークの町に居を構えました。その手紙の中に、ある晩、彼女は子供たちと家にいた時に、インディアンに襲われるのではないかと心配になって怯えていたいたということが記されていました。手紙の中には、「私たちの家はポツンと建っていて、一番近い隣家でも2マイル離れている・・・」との記述があり、とても心細く思っているということが綴られていました。しかし、実際にはインディアンの襲撃はありませんでした。私は思うのですが、彼女はそれほど心配する必要はなかったのです。1人のインディアンがその家に立ち寄ったことがあったのですが、酔っぱらってはいたものの、とても友好的な態度で、彼女の夫を捜していただけでした。そして、そのインディアンは、家の中に入って暖炉の前でしばらく眠った後、素面で目を覚まし去っていったそうです。4代前の祖母は、そのインディアンが仲間を連れて戻って来て、家族全員が殺されると思ったそうです。「ここは広々として暮らしやすいのだけれども、夜な夜な激しい不安に襲われるのが耐えられないわ。」と4代前の祖母は記していました。孤立して暮らしていると、恐ろしい不安に襲われるものなのです。そこに住んでいる限り、その不安が頭の隅から消えることは無いのです。
4代前の祖母とその夫はエピスコパル教会(米国聖公会)の信徒でした。コネチカット州ダンベリー出身でした。家族で小さな小屋のきれいとは言えない床に寝ていたのですが、信仰心は厚かったようです。私には彼らに関する情報が沢山あるわけではないのですが、認識している限りでは、一家はテント集会(伝道のために特別に建てられたテントにキリスト教の崇拝者が集まる)には参加しなかったようです。エピスコパル教会の信徒はテント集会には参加しない人が多かったようです。当時、いわゆるフロンティアで暮らしていた人たちの多くは、メソジスト教会、バプティスト教会、ディサイプル教会など活発に不況活動をする教会の信徒になることが多かったようです。当時は、第二次大覚醒(1800年代から1830年代の米国のプロテスタント史における2番目の大きなリバイバル)と呼ばれる時代でした。特にフロンティアでは、プロテスタントの信仰心が非常に高まっていました。信仰の波が、野球のスタジアムで観客が起こすウェーブのようにフロンティアに押し寄せていたのです。森の中の小さな農場を切り盛りして何ヶ月も他の家庭と接しない家庭も多かったのですが、そんな家庭も年に1回か2回、プロテスタントの伝道のためのテント集会やキャンプ集会に参加していました。そうした集会は、森の奥で行われることが多いにもかかわらず、時には何千人もの人たちが参加していました。キャンプ集会に参加することで、普段人と接しないことによるうっぷんを晴らし、キャビン・フィーバーで病み気味であった精神を開放することができたのです。
時には、テント集会で参加者全員が恍惚として正気を失うようなこともあったようです。訳の分からないことを口走るようになるのは、ほんの始まりにすぎませんでした。伝道者(複数の場合が多い)が霊を呼び起こすと、たくさんの人が一斉に地面に身を伏して、叫び、泣き、祈りました。女性たちは神聖な気持ちになって頭を前後に振り回して長い髪を振り乱しました。伝道者たちは説教の最後に、「私たちは、ああ、賛美する、ああ、主よ、ああ。」と叫んでいました。キャンプ集会での説教は、盛り上げるために非常に大げさなスタイルで行われました。説教によってイエスの存在を再び実感できるようになった人たちの顔には、時に”聖なる笑い”(holy laugh:聖霊の喜びで満たされた結果、抑えきれないで笑う現象)が見られました。また、叫び声を発する者もいました。休憩時には、おいしい料理がたくさん食べられました。ハムや焼き菓子などおいしいものが事前にふんだんに準備されていたのです。盛況だったキャンプ集会に参加した者は、不安が吹き飛んで赤ん坊のようにぐっすりと眠れるようになったそうです。