GTD(Getting Things Done)の盛衰!知識労働者の生産性を上げるのが難しいのは何故?

2.生産性といえばドラッガー

 「個人の生産性」という語は昔はありませんでした。「生産性」という語だけがあって、それは、単位時間内で労働者がいくら分の製品を生産できるかを示す尺度でした。20世紀初頭に、フレデリック・テイラーと助手たちは、工場労働者の動作を分析して、時間と経費をどこで節約できるかを研究していました。工場の製造ラインの生産性を上げる取組みと同じことを、どのようにすれば事務仕事でも出来るのかということは、すぐには明らかになりませんでした。この分野で特に有名なのはピーター・ドラッカーです。現代経営学の父として広く認められ、非常に影響力がありました。

 ドラッカーは1909年にオーストリアで生まれました。彼の両親アドルフとキャロラインは、たびたに夜会を開催していました。そこには、フリードリヒ・ハイエクやヨーゼフ・シュンペーター等の著名な経済学者が参加していました。そうした人たちと接したことで、ドラッカーは刺激をうけて自身の生産性向上に繋げたのかもしれません。彼は、95歳で生涯を終えましたが、死ぬ直前まで執筆を続け、生涯で39冊の著書を残しました。彼は2冊目の著書「The Future of Industrial Man(邦題:産業人の未来)」の出版後から、生産性改善の研究を始めました。それは33歳の時(1942年)のことで、ベニントン大学の教授をしていました。この本は、ジェームズ・ワットが蒸気機関を発明して以降激変した社会、産業化社会において、人間の自由と尊厳をどのようにして維持すべきかということが書かれています。世界中で大企業が競争する時代に書かれたこの本は、幅広い読者に読まれました。この本の出版後、ゼネラルモーターズの経営陣はドラッカーを招聘して、当時の世界最大企業のオペレーションを2年間に渡って分析してもらいました。その分析から生まれた1946年の著作、「Concept of the Corporation(邦題:会社という概念)」は、大規模な組織をどのように運営すべきかということが初めて記された本でした。その本は、経営というものを科学的に分析する手法を確立する基礎を築きました。

 1950年代に、米国経済の中心は肉体労働から知識労働へと移行し始めました。ドラッカーは、企業経営者がそうした社会の変換を理解するのを支援しました。彼は1959年の著書「Landmarks of Tomorrow(邦題:明日のための思想)」で、「ナレッジワーク(知識労働)」という語を作り出し、自律性が企業運営に求められることになると主張しました。ドラッカーは、企業の利益は従業員のやる気に左右されるようになると予測しました。また、知識労働者個々人は自らのスキルを高め、専門性を深め、どのようにすれば自分の生産性が高められるか常に分析するようになると主張しました。「知識労働者は事細かに指示されることはありません。自ら行動を起こさなければなりません。」とドラッカーは1967年の著書「The Effective Executive(邦題:想像する経営者)」に記しています。

 知識労働者の自律性をドラッカーが強調した背景には、かつて工場の生産ラインで取り入れた作業の最適化の手法が、研究開発や宣伝企画などの業務には適用できないということがありました。しかし、ドラッカーの思考は、米ソ冷戦の影響も受けていました。彼は、米国がソ連に負けないために重要なのは、創造性と革新を維持することだと信じていました。彼は、巨大で複雑で未知なものの研究では、ソ連式の硬直した手間のかかる技術や組織では不可能であると論じていました。例えば、原爆の開発がそうでした。彼は、将来、企業の経営において、「ローカル」および「分散」が重要になると示唆していました。

 知識労働者が自律性を発揮できるようにするため、ドラッカーは目標による管理という概念を提唱しました。そのプロセスでは、マネージャーは明確な目標を設定することに集中し、その達成方法は個々人に任せます。この方法は今では非常に重要なものになっていて、是非を議論されることはめったにありません。そのため、現代の知識労働者は、目標とかミッションステートメントを作ったり見返したりといったことに追いまくられます。かといって、実際にどのように取り組んで達成するかは上司の誰もが教えてくれません。したがって、2004年にマーリン・マンが仕事に押しつぶされそうになった時、彼はドラッカーの著書に影響を非常に受けていたので、解決策は自分の仕事の進め方を最適化するしかないと思いました。