サスペンスとは何ぞや? キャスリン・シュルツによるサスペンスの考察

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 現実のサスペンスについて 1 つ厄介な事実がある。小説を読む時とは対照的に、自分自身の未来について考える時、ほとんどの者は、次に何が起こるかということに関して何らかの決定権が自分にあると思い込んでいる。実際にそれが事実なのか否かは、人類最古の未解決問題の 1 つである。神であろうとなかろうと、個々の人間の作者は存在しているのだろうか。それが人類全体を導いて動かしているのだろうか。個々の人間の人生は、自然法則や全能の神によって細部に至るまで決定されているのだろうか。それとも、ある程度は自由裁量の余地が残されており、定められていた生から死に至る道程から逸脱して、個人または集団の未来の流れを変えることは可能なのだろうか。

 経験的に、ほとんどの人が両方の可能性があると感じている。普通に考えれば、自分の人生は良きにつけ悪しきにつけ、自分自身でコントロールできるように思える。同時に、最も重要な場面の数々において、自分の人生は自分自身でコントロール不可能だと感じることも多い。唯一確かなことは、もし宇宙が真に決定論的であるとしたら、その歯車や神々は私たちから隠されているということである。私たちはラプラスの悪魔( Laplace’s demon:近世・近代の物理学分野で、因果律に基づいて未来の決定性を論じる時に仮想された超越的存在の概念)のように、存在するすべての原子の現在の状態を完璧に把握できて、その後のすべての出来事がどのように展開するかを見ることができるいるわけではない。さらに言えば、仮にそのように未来を見通せたとしても、違いは生じないかもしれない。現代の物理学者の多くは、宇宙は不確定なものであり、宇宙のすべての現象を理解できるほど巨大な知性をもってしても、その結果を正しく推測し、それによって未来を予言することはできないだろうと考えている。

 いずれにせよ、サスペンスが依然として君臨していることに変わりはない。未来が不透明であり続ける限り、未来は恐ろしくもあり、爽快でもある。最大の恐怖と最も大胆な夢の宝庫であり続けるだろう。この点が、現実のサスペンスがフィクションのサスペンスと異なる最も重要な点である。小説や映画では、待ち望んでいた結末が良いか悪いかは必ずしも気にならない。読者や鑑賞者が最も気にするのは、サスペンスが満足のいく形で解決されるかどうかである。しかし、現実の世界では、誰もが気にするのは、結果である。誰もが、不安感が杞憂であることが明らかになることや夢が実現することを望む。人生に起こりうるあらゆる破滅を免れたいと願う。それらが叶うと神の啓示とご加護に感謝するのである。これはおそらく、サスペンスの最も優しくて希望に満ちた定義である。それは、遍在する疑念や危険に直面しながらも、未来においてすべてがうまくいくことを熱烈に願うことである。

 時には願いが叶うこともある。待ち続けた末に、パートナーが急に産気づいて赤ちゃんは予定日の 2 日前、8 月の美しい夜に生まれた。彼女はあらゆる面で健康だった。私に言わせれば、あらゆる面で完璧な赤ちゃんであった。11 カ月後、彼女は初めて言葉を発した。それは 「 Book(本) 」であった。♦

以上