第 2 章 ユネスコが無形文化遺産を保護するようになった経緯
「 30 年か 40 年前には、無形文化遺産(アメリカ以外の国では生活遺産と呼ばれることが多い)は国際レベルではほとんど存在しない概念だった。」と、先日、パリにあるユネスコ本部から電話をかけてきたユネスコのエルネスト・オットーネ( Ernesto Ottone )文化担当事務局長補は言った。オットーネは物静かな元俳優で、チリの文化担当大臣を務めたこともある。無形文化遺産の認知度が高まっていることを非常に誇りに思っている。モンゴルの無形遺産を紹介するボードゲームや、文化遺産に関するテレビゲーム制作に関心のある団体との最近の会合について、私に説明してくれた。彼は少し興奮気味だった。無形文化遺産に関する活動が盛り上がっていることは、無形文化遺産に関する条約が弾力的に運用されていることと、排他的でないことを証明するものである。「条約は機能しなければいけない。」とオットーネは言った。「ストーンヘンジのように動かないのでは困る」。
ユネスコの無形資産を保護する活動に力を入れ出したのは、歴史的建造物の保護にのみ注力しているという偏見を正すためである。第二次世界大戦後に設立されたユネスコは、洪水被害を受けたベネチアの宮殿からナイル川のせき止めの脅威にさらされている古代エジプトの神殿に至るまで、歴史的建造物を保存するキャンペーンに力を入れてきた。1978 年に世界遺産の登録を開始した。しかし、登録されるもののほとんどはヨーロッパと北アメリカにあった。また、構築された建造物や環境に焦点が当てられていた。そのため、巨大な構築物等があまり残っていない国や地域が疎外されているとの不満がすぐに噴出するようになった。そうした反対意見を、東カリブ海の島国セントルシアの詩人デレク・ウォルコット( Derek Walcott:ノーベル文学賞受賞)は、記憶に残るほど明確に表現していた。「立派な記念碑がなければ文化的価値が低いのか?戦争の遺構がないと重要で無いのか?殉教者をことさらに重要視すべきなのか?」と、彼は 1979 年の著書 「The Sea Is History」の中に記している。その著書の中で、巨大な城や大聖堂があることが文化的価値が高いとする概念に疑問符を投げかけている。彼が文化的価値が高いとして例示したのは、船乗りや漁師のノウハウ、アフリカの仮面舞踏会やヒンドゥー教の叙事詩に由来するカリブ海の舞踊などである。つまり無形文化遺産である。
無形文化遺産という言葉は 1980 年代初頭に生まれた。ユネスコが文化遺産をより広義に捉えるようになるにつれ、「フォークロア( folklore)」に代わって徐々に広まっていった。ユネスコは、文化には「有形と無形」の 2 つがあり、言語、生活様式、精神的信念を含むと宣言した。にもかかわらず、ユネスコは無形文化遺産を保護する仕組みを構築するのに数十年を要した。問題の 1 つは、生きた伝統はオベリスク(古代エジプトの神殿の前に建てられた記念碑)のように簡単に「保存」することができないということであった。慣習や伝統は、それを支える社会的・生態学的ネットワークと切り離せないものだからである。1990 年代から 2000 年代初頭にかけて、ユネスコは「生きた人間としての宝物」、「文化的空間」を認識し始めた。例えば、象徴的な空間(アラブ世界のマジュリスと呼ばれる座って会議する場所など)にも焦点を当て、慣習、口頭伝承の傑作などにも注目するようになった。しかし、記録や認識だけでは十分ではないというコンセンサスが生まれた。松浦晃一郎( Koichiro Matsuura )のリーダーシップの下、ユネスコは、各コミュニティに独自に無形文化遺産を制定して定義する権限を与える条約を起草した。
条約の制定手続きを管理するユネスコ職員の大日向文子( Fumiko Ohinata )は、条約という「規範文書」が世界の人々に力強い感情を抱かせたことを賞賛し、恭しくその仕組みを説明した。条約を採択した国は隔年で推薦書を提出することができる。推薦書では、提案された案件がさまざまな前提条件を満たしていることを証明しなければならない。1 つは、伝統の「担い手 」の同意と参加である。もう 1 つは人権の遵守である(中世を起源とするベルギーの 2 つカーニバルは、人種差別的、反ユダヤ的な風潮を帯びているとして却下された)。推薦書には説明のための動画が含まれていることもあり、その内容は洗練されたドキュメンタリーから陳腐で空虚な愛国的主張まで多岐にわたる。トルクメニスタンの推薦書を補強する動画は、アカルテケ( Akhal-Teke:トルクメニスタン原種の馬)の繁殖のシーンだった。大草原で馬の群れが轟き、乗馬衣装を着た子供たちが隊列を組んで踊る中、煽情的な音楽が流れる。最も重要な基準は社会的意義である。「私たちは単にスープの名前を登録したのではない。」と大日向はボルシチの件について語った。「ウクライナの人々の間でこの食べ物を分かち合うことの意義の大きさが重要であった」。
毎年最大で 60 案件が、条約の締結国から持ち回りで選出された 24 カ国で構成される政府間委員会によって審査される。審査して問題が無い案件は、3 つのリストの内の 1 つに登録される。3 つは、「代表一覧表」、「緊急保護一覧表」、効果的な遺産保護活動を評価する「優良保護活動登録簿」である。政府間委員会はまた、過去に登録された案件に関する報告書を審査し、リスクを評価し、資金の配分を決める。「生きた遺産は素晴らしい資源である。」と大日向は言う。しかし、その特性ゆえの脆弱性も存在している。「若者たちが全く興味を示さなくなることもある。震災で途絶えてしまうこともある。政治的情勢の変化で途絶えることもある」。無形文化遺産を保存するのは、必ずしも簡単なことではないのである。ユネスコは、絶滅の危機にある伝統などの保護に取り組んでいる。同時に保護に取り組んでいる者たちを支援している。不採択になった案件に目を通したのだが、「その機能と意義の多くを失った」とされたジンバブエのポンチョ、「伝承がほとんど途絶えた」とされたエチオピアの口頭伝承には、同情を感じた。
ユネスコが復活するチャンスがあるとみなして無形文化遺産に登録した伝統の中には、その後、幸運にも盛り返したものも少なくない。素潜りで海底の貝を採る韓国の済州島( Jeju Island )の海女は、2016 年にユネスコが無形文化遺産に登録した時には、高齢者が多く、人数も減り続けていた。オットーネによれば、新たに数多くの若い女の子が加わり(若い男性も数人加わり)、今では数百人に達するという。かつては年長者の生計の糧であったが、現在ではレクリエーション的な趣きが強い形に変容しつつあるという(無形文化遺産を保護するということは、それを進化させるということでもある)。もう 1 つの幸運な例は、バンドネオン( bandoneón )というアコーディオンのような楽器である。オットーネはこれを「タンゴの魂」と表現する。ユニセフは、その保護のために介入した。と言っても、かかった費用はわずか 10 万ドルである。その時点でバンドネオンを作っているメーカーは南アメリカに数社あるだけだった。「ほとんど誰も演奏していなかった。」と彼は言った。「今では、バンドネオンを教えるアカデミーが 3 つある。奏者の 70% は女性である」。製造メーカーも数十社にまで増えた。彼が誇らしげに教えてくれたのだが、ユネスコが無形文化遺産に登録した案件の中で完全に廃れて姿を消したものは 1 つもないという。しかし、今後、完全に姿を消してしまうものが出てくる可能性が無いわけではない。
無形文化遺産の一覧表にある案件の中で私が一番好きなのは、ナイジェリア南東部のイボ族( Igbo people )の精霊を表す仮面「イジェレ( Ijele )」である。アフリカ大陸で最大の仮面の 1 つで、竹で出来た骨格( 3 段のウェディングケーキのような形状)の上に、色とりどりの織物と小さな布製の人形が配置されてそびえ立っている。イジェレは威厳があり堂々としており、最も重要な儀式でのみ使われる。言い伝えによれば、家々を破壊しようとする魔女を追い払うとされている。しかし、イジェレが一瞬でも地面に触れると、それに宿る精霊が「死ぬ」との言い伝えもある。仮面を担いで踊る者が一瞬でも仮面を地面に触れさせてしまえば、自分だけでなく一族全体の恥となるという。無形遺産が何であるかを説明するのは簡単ではない。コミュニティ全体が苦労して作り上げた常に変化する存在であり、消滅させないためには手を掛け続けなければならないものである。