第 3 章 ユネスコの無形文化遺産保護活動の意義
書道、吹きガラス、ドラゴンボート、そろばん、マリアッチ(メキシコの伝統的楽団形式)などが無形文化遺産に登録されることに反対する者はほとんどいなかった。無形でない、物理的な遺産の登録に関しては、しばしば紛争が起こった。アフガニスタンのバーミヤン大仏( Bamiyan Buddhas )やエルサレム旧市街( the Old City of Jerusalem )などである。その特異性ゆえに関係国間で論争となってしまうからである。考古学者のリン・メスケル( Lynn Meskell )が著書「廃墟の中の未来( A Future in Ruins )」の中で論じているのだが、ユネスコがそれらを文化遺産に登録すると、象徴的な攻撃対象とされる可能性があり、破壊されるリスクが高まるという。一方、無形文化遺産は複数の国に跨るものである場合があり、どこの国がユニセフに推薦書を提出しても良いわけだが、国によって意義や解釈が異なることが少なくない。であるから、実は各国の意見の対立が激しい国際社会においては、無形文化遺産についても紛争は少なくない。
無形文化遺産に関しては、定期的に紛争が発生している。1 つの慣習について、どこの国が推薦書を提出するかが問題となることが多い。イランとアゼルバイジャンの間にも確執があった。ポロ競技の登録に関するものであった。ロシアは、ウクライナがボルシチを自国だけに固有のものと主張したことを、文化的 「ナチズム 」の一形態であり、「すべての地域のすべての主婦」の料理の自由を脅かすものであると非難している。昨年、モロッコは、アルジェリアが花嫁衣装を盗もうとしていると訴えた。アルジェリアの推薦書にカフタン(アラブ人の民族衣装)が載っていることが判明したからである。モロッコは、その起源は自国にあると主張している。なお、アルジェリアは「確実な証拠」を用意して反論すると宣言している。ユネスコの登録は排他的ではない。つまり、既に登録されている案件についても、各国が独自のバージョンで自由に推薦することが可能である。無形文化資産の代表一覧表には、重複して登録されている案件がいくつもある。近隣のいくつかの国が推薦書に載せたものが重複した結果である。多くの場合、綴りが微妙に異なっていたりする。しかし、その区別を一種の商標のように扱っている国も少なくない。このことはしばしば報道されている。
さらに厄介な問題は、少数民族の無形文化遺産である。中国は無形文化遺産の登録件数が最も多い国であるが、モンゴル人、朝鮮人、キルギス人、チベット人、ウイグル人に関連する慣習を登録し、物議を醸している。中国がチベット人、ウイグル人らが独自の文化を継承することを厳しく制限していることは、もっと非難されるべきである。中国が登録を試みた内の 1 つは、スーフィズム(イスラム神秘主義)と密接に結びついたウイグルの音楽伝統であるムーカムである。ユネスコが最初に登録した 12 の無形文化遺産の内の 1 つでもある。中国は、過去 10 年間、ウイグルの伝統的な本物のムーカムを抑圧してきた。その代わりに、観光客にとって魅力的で宗教色が薄く自国を礼賛する曲の普及を目指しているのである(中国はウイグル人の文化を破壊していることを一切認めていない)。ユネスコがムーカムを中国の無形文化遺産と認めたことは、ウイグルで行われている文化破壊を覆い隠している可能性がある。先日、新疆ウイグル自治区を訪問した習近平( Xi Jinping )は、伝統的な民族衣装を身にまとったウイグル人の音楽家たちと一緒に写真を撮った。多くのウイグル人音楽家やウイグル人学者を拘留しておいて、何食わぬ顔をしてそんなことをできるところに、彼の残忍な性格を見て取ることができる。その写真に収まった音楽家の中には、再教育収容所から連れてこられた者も数人いた。彼らは、中国が推進する民族融和を象徴する人物を無理やり演じさせられた。これが中国共産党の裏の顔である。 ウイグル人権プロジェクト( The Uyghur Human Rights Project:ワシントン DC に本拠を置く人権擁護団体)は、ユニセフ加盟各国の政府に対し、中国がムーカムをはじめとするウイグル人の慣習を無形文化遺産に登録したことに異議を唱えるよう呼びかけている。
無形文化遺産の登録のためにユネスコに推薦書を出すことに消極的な国がいくつかある。中国等とは対極的である。アメリカはそうした国の 1 つである。そのため、ニューヨークのベーグルも、ナバホ族の砂絵も、ジャズ(ハービー・ハンコックのロビー活動にもかかわらず)も無形文化遺産の代表一覧表には載っていない。スミソニアン協会にある民俗文化遺産センター元所長のリチャード・キューリン( Richard Kurin )によれば、この理由の一部は国家が文化に干渉することに多くの国民が不信感を抱いていることにあるという(アメリカはユネスコ創設以来、2 度の脱退と再加盟を繰り返している。2011 年にユネスコがパレスチナを加盟国として承認した際には分担金の拠出を停止した)。 分担金の拠出を停止している国はたくさんある。主な国は、イスラエル、ロシア、カナダ、ニュージーランド、オーストラリアなどである。いずれも先住民族や少数民族との間で問題を抱えている。ある民族の慣習を無形文化遺産と認めることは、その民族との間に存在している問題を改めて認識することとなるわけで、心地よいものではないのかもしれない。
オットーネはそれでも、無形文化遺産の登録を活発化させることが国内および国家間の紛争の緩和に繋がると信じている。それを実現するための仕組みの 1 つは、無形文化遺産を複数の国が共同で推薦することを奨励することである。スイスとオーストリアは共同で「雪崩リスクマネジメント」を無形文化遺産に推薦した。北西アフリカの 3 国(モロッコ、アルジェリア、チュニジア)は、伝統料理「クスクス」を共同でユネスコに推薦した(モロッコとアルジェリアがカフタンの件で反目していたのにもかかわらず)。ユネスコから最も多様な支援を受けている案件は助産術である。昨年は 8 カ国が推薦書を提出した。しかし、オットーネが最も誇りに思っている複数国が連名で推薦した案件は、2018 年の北朝鮮と韓国によるものだという。レスリングの一種であるシルムが推薦された。「『何も変わっていない。両国は未だに分断されているし、国境も無くなっていないし、価値観や体制も違う』と指摘する者もいるだろう。」と彼は言った。「しかし、一瞬とはいえ、シルムという慣習は切り分けることができないという認識を両国で共有することができた。また、共同で作業することもできた」。彼が言ったのだが、無形文化遺産について、一覧表を作成することが最重要と考えるのは誤りであるという。また、保護だけが目的ではないという。「私たちは無形文化遺産に関する作業で協力することを通じて、分断された国々の間の溝を埋めようとしているのである」。
12 月に登録された案件の 1 つは、レヴァント地方(地中海東岸から小アジア一帯)のテンポの早いダンスのダブケ( dabkeh )である。ダブケは、男女の区別なく列を作って踊るもので、列の先頭になった者が順番にリーダーになる。リーダーは、見物人たちや他のダンサーたちと向き合ったりし、棒やハンカチ、ビーズをリズミカルに振り回す。レバノン、シリア、ヨルダンでポピュラーな踊りである。だが、推薦したのはパレスチナであった。その代表団の 1 人は、ユネスコ総会で他のメンバー数人がガザ地区( Gaza Strip )に閉じ込められていると報告した。イスラエル軍がガザ地区を攻撃し、3 万人以上の死者を出し、半数以上の建造物(数百の古代遺跡も含まれる)を破壊もしくは損壊させた。その最中に、その人物は、自国の生きた遺産と言うべき慣習や伝統は「空爆によって消し去ることはできない」と断言した。総会ではパレスチナ人ダンサーが集団で登壇してダブケを披露する予定だった。それは実現しなかったが、代わりに、推薦書を補足するための資料の 1 つの動画が投影された。陽光が降り注ぐ中庭で踊りが繰り広げられていた。カフィーヤ(アラブ半島の男性が頭に被る装身具)を被ったダンサーたちの衣服にはカラフルな刺繍が施されている(カフィーヤもパレスチナが推薦して無形文化遺産に登録された案件である)。ダンサーたちは見事なステップを披露し、年老いた者たちはリズミカルに杖を持ち上げている。「私は子供たちを連れて、しばしばアル=アクサー・モスク( al-Aqsa Mosque:エルサレム旧市街にある)を歩き回ったものである。」と、動画の中で誰かが歌っている。「子供たちと、またあそこに行ってみたい」。♦
以上