実録 ウイグル族の最後! 中国の弾圧はウイグル族を根絶するまで続く

A Reporter at Large  April 12, 2021 Issue

Surviving the Crackdown in Xinjiang
(新疆の弾圧を生き延びる)

As mass detentions and surveillance dominate the lives of China’s Uyghurs and Kazakhs, a woman struggles to free herself.
(中国はウイグル人とカザフ人を大量に拘束し、監視網をめぐらした。実録、ある女性が不当に収容所に入れられてから解放されるまで。)

By Raffi Khatchadourian April 5, 2021

I.HOME(生まれ故郷)

アナー・サービトが20代でバンクーバーに住んでいた時、友達に言っていたのは、人は自分の運命をコントロールできるということでした。彼女はそう確信していましたし、自らの経験でそれを証明してきました。
 彼女は2014年にクイトゥン市からカナダに来ました。明るい性格で自信に満ち溢れた移民でした。クイトゥン市は、カザフスタン、シベリア、モンゴルの間に挟まれた、ゴビ砂漠の西にある小さな中国の都市です。「クイトゥン」はモンゴル語で「寒い」を意味します。伝説によれば、チンギスカンの部下が極寒の冬にそこに駐留して、震えながらその言葉を叫んだとされています。サービトが子供だった頃にクイトゥン市は、帰属を巡って諍いの絶えない開発の遅れた辺境の地でした。そこに住んでいた人たちはそのあたりを東トルキスタンと呼んでいました。18世紀に清によって併合されました。しかし、1940年代に毛沢東が取り戻す前に、2度中国の支配下を離れたことがありました。現在では新疆ウイグル自治区と呼ばれています。新疆は北京語で”ニュー・フロンティア”を意味します。
 サービトのようなアジアの辺鄙で育ったカザフ民族の子供は、いたるところで征服されていた痕跡を見つけることができました。新疆ウイグル自治区はほぼアラスカと同じ大きさで、国境を8か国と接しています。もともと住んでいたのは、ほとんどがウイグル人かカザフ人か先住民族のチュルク人でした。しかし、サービトが生まれる頃には、クイトゥン市は新疆ウイグル自治区北部の他の地域と同様に劇的に変化していました。何十年もの間、新疆生産建設兵団(開墾と辺境防衛を行う準軍事的政府組織)は、何百万人もの漢人の移民(その多くは元人民軍兵士)が巨大な農場で働くように導くのを助けてきました。新疆ウイグル自治区南部では、先住民が依然として人工の大半を占めていますが、クイトゥン市では先住民は限定的な存在になりつつありました。
 子供の頃サービトは、兵団が先住民に対して植民地主義的な態度で接していたにもかかわらず、中国共産党の教えを吸収し、自分は献身的な中国人であると認識していました。クイトゥン市に住む漢人は、カザフ人とウイグル人を、まとめて「民族」と呼んでいました。2つの民族の文化の違いなど認識していませんでした。サービトはそのことに違和感を感じませんでした。彼女の両親は、医者と、化学の教授でした。決して差別されていると口にすることはありませんでした。彼らはサービトを北京語で授業が行われる学校に入学させ、そこで教わることをしっかり学ぶよう彼女に命じました。サービトは小学生の時、クラスメートとともに兵団のためにトマトを摘みました。中学生の時には、綿花を摘みました。彼女はその作業が嫌いでした。というのは、何時間も腰をかがめたり、膝を土に付けて作業しなければならないからです。サービトの母親は、そういった作業が人格形成の上で重要であると彼女に言いました。
 サービトの学業成績は優秀で、高校を卒業した後、2004年に上海に移り、ロシア語を勉強しました。将来、海外で活躍することを望んでいました。彼女は、活気に満ちた上海の生活が好きでした。しかし、上海では彼女は周りから「民族」として扱われていました。彼女が誰かと知り合いになった時に出身地を伝えると、会話がぎこちなくなることがほとんどでした。上海では新疆に住んでいるのは「野蛮人」だと信じている人もいましたので、彼女が北京語を流暢に話るのを見て驚かれることもありました。彼女は大学を卒業する直前に、IT企業のファーウェイの就職説明会に何人かの友人と参加しました。彼女だけ面接を受けられませんでした。それは出自が理由であると彼女は確信していました。
 サービトはそのような偏見を掻い潜るため、彼女の出自をあまり明かさないようにしました。時にはばれないように出身地を偽りました。それで、彼女は投資会社で高給の仕事を見つけました。ロシア、ラオス、香港などへ出張することもありるやりがいのある仕事でした。そこでは良い上司や同僚に巡り合いました。
 サービトが上海に住んでいる時に、彼女の両親はカザフスタンに移住しました。両親にそこで一緒に暮らすように誘われましたが、彼女は従いませんでした。それは、中国の方がより豊かな国であり、今後も発展し続けると思っていたからです。彼女は人生のほとんどで中国の模範的市民になるために努力していました。彼女の故郷が危険な状況になった時でさえも、彼女の将来は中国にあると確信していました。
 2009年、広東省南部の玩具工場で争議が発生しました。混乱の最中に、ウイグル人の2人の工員が中国人(漢人)に襲撃され殺されました。その翌月、何百人ものウイグル人が新疆ウイグル自治区の首都ウルムチ市の街頭に集結し、中国の旗(五星紅旗)を振りながら、「ウイグル」と叫んでいました。五星紅旗が振られていたのは、北京の指導者層に窮状を認識してもらいたいという意図であり、自発的に発生した平和的なデモでした。これに警官隊が発砲し、デモ参加者が暴徒化しました。何百人もが負傷もしくは死亡しました。何百人もが逮捕されました。40人以上のウイグル人が行方不明になり、後日その内の多くが死刑を宣告されました。
 その暴動の1年後、サービトは職場の同僚たちと一緒にキルギスタンに旅行していました。ウルムチで乗り継ぎ便に乗ろうとした時、治安当局に呼び止められました。理由は、彼女が新疆ウイグル自治区出身であるためで、新疆ウイグル自治区から出るには別途許可が必要であると言われました。同僚たちは先に行ってしまいました。彼女は民族的、宗教的問題があるとして一日留め置かれて、必要な書類を手に入れなければなりませんでした。
 サービトは中国共産党の宣伝を鵜呑みにしていたので、そのような措置が必要であることに疑いを持ちませんでした。それでも、やはり深い疎外感を感じずにはいられませんでした。中国のどこへ行っても、彼女は漢人と違う部外者として扱われました。彼女は、上海に戻った後のある日、そびえ立つ高層マンション群を見上げながら自問しました。どうして、新疆ウイグル自治区出身というだけで差別されなければならないのかと思ったのです。
 その後間もなく、彼女はバンクーバーに引っ越した1人の友人と話をしました。サービトは飛行機で会いに行き、そこは差別や偏見が少なく自由な雰囲気が感じられたので気に入りました。彼女がカナダ人に自分は新疆ウイグル自治区出身だと言うと、相手の反応の中にはいつでも気づかう様子が見られました。彼女は留学生でも大学卒業資格が取れるコースの受講申込をしました。そして、夏にカナダに戻って見つけたルームメイトと2人でアパートを借りました。彼女はバンクーバーの企業で会計士補としての仕事を得ました。彼女は友達にも恵まれました。彼女は恋人もできました。彼女の人生は自らの意志で切り開いたものでした。カナダでは、それが可能でした。

2017年の春、サービトの父が心臓発作で突然亡くなりました。彼女の母親はサービトに電話をしましたが、サービトを動転させないようにと考え、父親が病院に入院している​​ので見舞って欲しいと言いました。サービトはその時休暇中でしたが、予定を変更してカザフスタンへ向かいました。飛行機が離陸する直前、彼女はスマホで家族のグループチャットを見ようとしました。誰かがカザフ語で「彼が天国で安らかでありますように。」というメッセージ書いていました。しかし、メッセージはアラビア文字で書かれていたので、サービトは「天国」以外の文字は判読できませんでした。それで、彼女はフライト中は少しいやな予感がして落ち着きませんでした。彼女がカザフスタンに到着した時、彼女の母親が娘に父親の死を伏せていたことを知らなかった親戚からお悔やみの言葉をかけられました。そこで、彼女は父親が亡くなったことを認識し、突然涙が流れ出ました。
 サービトは母親が悲しみに打ちひしがれているのを見て、サポートするためにしばらく留まろうと思いました。彼女は会社の上司に数か月間休職したい旨伝えたところ、上司は彼女の職位をそれほど長く空位にすることは出来ないと言いました。それで、彼女は辞職しました。彼女はバンクーバーのルームメイトに電話して、自分の荷物を保管しておいてもらうよう依頼しました。
 その夏、サービトは母親と2人でクイトゥン市に行きました。父親の死後の手続等を済ませるためでした。サービトの多くの友人たちは行くべきで無いと警告しました。というのは、新彊ウイグル自治区内の先住民族に対する弾圧が激化するという噂が広まっていたからです。カザフ人の商人たちが国外に追放されて居なくなっているという噂もありました。しかし、サービトは1カ月弱そこで平穏に過ごし、母親のそばにいました。2週間ほどで、2人は親族等と会って、先祖の墓にもお参りしました。彼女は後に、この旅行について「涙と悲しみに満ちていた」と回想しました。
 7月15日、サービトと母親の2人は、カザフスタンに戻るためウルムチ地窩国際空港に車で向かいました。到着したのは真夜中で、空港にはほとんど誰もいませんでした。税関で、母親はパスポートをチェックされてすんなり出国を許可されました。しかし、続いてサービトがパスポートを渡すと、税関職員は彼女を見て、それから彼女のパスポートを持ってバックオフィスに入って行きました。
 「心配しなくていいわよ。」とサービトは母親を安心させるために言い、こうして官僚的な手続きで時間がかかることはしばしば発生することだと説明しました。数分後、税関職員は新疆ウイグル自治区の役人を連れて戻ってきました。その役人はサービトにベンチに座るよう指示して言いました、「あなたは出国できません。2人で話し合って、お母さんだけ行くのか、留まるのか決めて下さい。」と。
 全く訳が分からいのでサービトの母親はどうなったのか教えてほしいと懇願しました。税関職員は答えました、「彼女にいくつか質問する必要があるんです。」と。
 サービトは母親に言いました、「お母さんは先に行って下さい。私は今日の便に乗れないとしても、明日の便には乗れますから。」と。
 1つのバッグに2人分の服を詰めていました。それを2つに分ける作業をしていると母親が泣き始めたので、サービトは宥めました。母親だけ出発ゲートに向かいましたが、両頬には涙が伝っていました。母親が見えなくなって税関職員がサービトに向かって冷たく言ったのは、彼女が「入出国管理」で引っ掛かったこと、彼女は要注意人物として認識されているということでした。そして次のように言いました、「さっきはあなたのお母さんがここにいたので、このことを言わなかったんですよ。あなたは新疆ウイグル自治区が今どのようになっているか認識する必要があります。さっさと済ませたいなら我々に協力するのが一番ですよ。」と。