人間の身体は火星探査に耐えられるか?普通に考えたら放射線の影響と微小重力のせいで死ぬでしょ!!

3. 人間の身体は地球環境にのみ適応している

 ケリーが自身の不可解な健康問題を認識してから数カ月後、メイソンの研究チームは、この宇宙飛行士の 1 年に及ぶ宇宙飛行中および飛行後に採取した生体サンプルを再検査した。多くの心配なデータを発見し記録した。ケリーの視力は悪化していた。「眼鏡なしでは見えない」と彼は私に言った。頸動脈の壁が厚くなり、炎症を起こしていた。重力が再び戻ったことで、さらに苦痛が増していた。彼の体内の炎症マーカーのレベルは、心臓発作や敗血症性ショックを起こした人と同じくらい高かった。主に脳に存在するタンパク質が彼の血流から検出された。それは血液脳関門( blood-brain barrier )が完全性を一部失っていることを示唆していた。さまざまな種類の細胞内でエネルギーを生成するミトコンドリアが、彼の体中に危険信号を送り出していた。

 ケリーの遺伝子も変化していた。約 9,000 の遺伝子の発現が変化し、その一部はガンや免疫系の問題のリスクを高める可能性があった。そのほとんどは数カ月で正常化したが、いくつかはケリーが地球に戻ってからかなり後まで、DNA の切断や逆位などの損傷の兆候を示し続けた。ちなみにケリーはミッション中に双子の兄が地球で浴びた放射線の約 50 倍の放射線を浴びていた。不思議なことに、ケリーのテロメア( telomeres:DNA の末端にあるキャップで通常は加齢とともに縮む)は宇宙滞在中に長くなっていた。しかし、帰還するとテロメアは縮み、宇宙に飛び立った時よりも短くなった。多くの点で、宇宙は老化プロセスを加速させているようである。

 NASA の双子研究は、宇宙研究で常に課題となるサンプルサイズが小さいという問題を抱えていた。糖尿病や乳がんの研究者であれば、何十万人という患者のデータを分析できるわけだが、ケリーはたった 1 人しかいない。新型コロナウイルスの影響は個人によって大きく異なるが、宇宙旅行の影響も同様に個人ごとに大きく異なるかもしれない。それでも、ぼんやりとではあるがパターンが浮かび上がってきている。インスピレーション 4 の乗組員の研究では、免疫細胞の遺伝子改変、DNA 構成の変化、炎症の急増(ケリーほど顕著な例は少なかったが)が検出された。女性の方が男性よりも変化が軽度であるようだったが、これは以前の研究でも報告されていたことである。乗組員の体全体に、放射線がタンパク質や DNA に損傷を与えるときによく起こる酸化ストレスマーカー( markers of oxidative stress )が見られた。また、宇宙飛行中、乗組員は一時的な認知機能の低下を経験し、注意力や作業記憶( working memory )に影響が出ていた。

 これらの健康影響のほとんどは、やがて薄らいでいったと NASA の研究チームは昨年のネイチャー( Nature )誌に書いている。しかし、ごく一部の健康影響、たとえば DNA の損傷などは、乗組員が地球に帰還するまで現れなかったとも書いている。ミトコンドリアの異常を含む他の影響は、研究チームが調査した 6 カ月間持続した。「身体は異常で複雑な環境に異常で複雑な方法で適応している」とメイソンは言う。「我々は宇宙空間における人間の生物学的特徴を認識し始めている。まもなく、宇宙で 3 日間過ごすとこうなる,
3 か月間過ごすとこうなるとかなり具体的に言えるようになるだろう」。人間と共存している微生物も変化した。生検により、皮膚のウイルス数が増加し、口と腸の細菌の構成が変化したことが明らかになった。歯垢の原因となる細菌は、自身の周囲に防御バイオフィルムを形成し、増殖して生き残るのを助けた。細菌は宇宙空間ではより凶暴になり、抗生物質にも耐性を持つようになるようである。

 学ぶべきことはまだたくさんあったが、もっともらしいストーリーが浮かび上がってきた。「宇宙空間は人類にとって異質な環境である」とバスナーは語る。「我々はこの星で育った。人類の生物学・生理学特質のすべては、地球の特徴を中心に進化してきた」。我々の身体は地球の大気とマイクロバイオーム( microbiome )に合わせて調整されている。我々は特定のレベルの重力と放射線に慣れている。宇宙飛行で重力が減り放射線が増えると、多くの複雑なシステムがバランスを崩す。双子のケリー兄弟を研究した研究者たちは、人間の健康は宇宙軌道上で 1 年間は「ほぼ維持できる」と結論付けた。しかし、火星への航海のような、より長いミッションの間に、これらのリスクがどれほど増大するかは予測できないという。おそらく危険はゆっくりと着実に増大するだろうし、指数関数的に増大するだろう。「短期ミッションで得た知見から長期ミッションでの影響を単純に推定することは不可能である」とバスナーは言う。「これらは生物学的システムである。ある時点で、全く機能しなくなる可能性すらある」。短期の火星往復ミッションは、前例のない技術的・医学的な課題を伴い、安全な軌道を 2 年以上離れることになる可能性がある。宇宙飛行士は別の惑星での生活にも耐えなければならないだろう。