Are We Getting Stupider?
私たちは愚かになっているのか?
Stupidity is eternal—and more complex than we think.
愚かさは永遠であり、私たちが考えるよりも複雑である。
By Joshua Rothman December 5, 2025
1.
数週間前、ジムで運動しながら次のコラムのことを考えていたのだが、受付の若い男性が私に駆け寄ってきた。「ロッカーに鍵はかけた?」と彼は尋ねた。私はかけたと答えたが、すぐに、うっかりにきづいた。荷物を預けているロッカーの隣のロッカーに南京錠をかけてしまったのである。私たちはロッカールームまで走った。そこでは、私と同じくらいの年齢の男性が、いらだたしげに待っていた。彼の持ち物は私が鍵をかけたせいで取り出せない。「頼むから急いでくれよ」と彼は言った。恥ずかしさと後悔でぼんやりとした気分になり、南京錠をじっと見つめた。コンタクトレンズをつけていたため、南京錠の番号が読めなかった。「いかん、読めない」と、私は無意識に声が出た。コンタクトレンズを急いで外した。南京錠を開けて、ロッカーの扉を開けた。彼が荷物を取り出せるよう、私は脇にどいた。彼は荷物を掴んでロッカー室から駆け出た。
やっちまったと思った。自己嫌悪に陥り、自分はバカだと恥じた。情けない気持ちからか、その後、重いウェイトを上げていても全く集中できなかった。そのままでは、また別のバカなミスを犯してしまうところであった。しかし、数分後、私は切り替えることに成功した。ふと思いついたのは、この出来事はコラムの書き出しに使えるかもしれないということである。バカな行動とはこういうものである。問題を引き起こす一方で、往々にしてチャンスも生み出すのである。私が過去の経験上認識しているのは、バカな行為も決して無益ではないということである。言い換えれば、私は賢くて能力があり、自分のバカな行為さえもネタにして何かを生み出せる。
愚かさは驚くべきものである。これが、英国の著名な批評家スチュアート・ジェフリーズ( Stuart Jeffries )が著書” A Short History of Stupidity “(「愚かさの小史」の意)で主張していることである。ジェフリーズは、誰もが愚かさを正しく認識できていないと主張する。つまり、何が愚かであるかとか、誰が愚かな行動をしているのかを知っていると誰もが思い込んでいるが、実はそれは浅はかな考えである。愚かさは、誰にとっても馴染み深いものであるという。ちなみにジェフリーズはアーサー・ショーペンハウエル( Arthur Schopenhauer )の言葉を引用している。ショーペンハウエルは「どの時代の賢者も常に同じことを言ってきた。そして、いつの時代も圧倒的多数を占める愚者も、彼らなりに同じように行動し、あるいは正反対のことをしてきた。そして、それはこれからも続くだろう」と書いている。しかし、ジェフリーズが主張しているのだが、「愚かさは進化し、変異し、それによって絶滅を免れる」のである。愚かさの歴史を記すことができるのは、常に新しい種類の愚かさが生まれているからである。
ジェフリーズは古代の愚かさから話を始めている。ギリシャの哲学者たちは、無知( ignorant )であることと愚か( stupid )であることを区別していたという。無知であることは全く普通のことであり、それほど恥ずべきことではないという。愚かであるのは、自分の認知的・経験的限界を認識してそれを克服しようと試みようとしないことだという。だから愚かな者は、結局のところ自己の認知的限界を超えることができない。この観点からすると、愚かでない者は、無知から自覚的な無知へと至る「自虐の道( path of self-humiliation )」を歩むことを厭わない者である。それができる者は、その経験を歓迎し、より長い学びの旅の始まりと捉えるかもしれない。この前向きな姿勢を維持するには、愚かさはしばしば「分野特有( domain-specific )」であることを覚えておくと役立つ。ジェフリーズによれば、人は誰しも人生のある分野では愚かであっても、他の分野では有能である。
古代ギリシャの哲人ソクラテスは無知の自覚の欠如について論じていた。自分の知識の限界を認識せず知ったかぶりをする人があまりにも多いことを嘆き、その愚かさを痛烈に批判していた。現代に生きる我々も、自身の無知を自覚していない人物を目にして唖然とさせられることがしばしばある。たとえば、ドナルド・トランプが大統領科学顧問の意見を無視して新型コロナの治療に消毒剤の注射が有効かもしれないと示唆したことがあった。愕然とした者は少なくない。しかし、他の多くの種類の愚かさは依然として存在している。ジェフリーズは「東洋の愚かさ( Eastern stupidity )」を挙げている。それは、彼によれば、仏教徒が戒めとしていることで、無意味かつエゴに駆られた知的議論から生じる可能性のある誤った考え方のことである。また、彼は「ルネサンスの愚かさ( Renaissance stupidity )」も挙げている。彼は、シェイクスピアを例に挙げて説明しているが、この部分は難解なので説明は省きたい。さて、ジェフリーズが指摘しているのだが、「愚行( folly )、そしておそらく愚かささえもが望ましいという考え方はしばしば扇動的であった」という。しかし、真の賢さとは賢さと愚かさが混ざり合ったものであろうし、愚かさは「理性の盲目さ( blindness of reason )」に対する中和剤として機能すると考えるべきである。
ギュスターヴ・フローベール( Gustave Flaubert )のような 19 世紀の作家は、世間に流布している一般常識や定説が愚かさに満ちていることを認識するようになった。フローベールの小説の登場人物の 1 人は、「大衆社会では愚かさの病原菌が人から人へと広がり、一般大衆は盲目的にリーダーやトレンドや流行の追随者になってしまう」と述べている。この「現代の愚かさ( modern stupidity )」は、ジェフリーズの説明によると、都市化によって加速される。人口密度が高ければ高いほど、愚かさも密度が高くなるからである。そして 20 世紀と 21 世紀には愚かさのさらなる進展が見られる。私たちは今、知能テスト( intelligence tests )や愚かな官僚制度( bone-headed bureaucracies )を通して明らかになる愚かさの種類を意識している。「でたらめな仕事( bullshit jobs )」や「悪の陳腐さ( banality of evil )」、デジタルの氾濫( digital inundation )についても知っている。ジェフリーズは寝室の照明器具を考えている。凹んだデザインで、分かりにくい電球の交換方法を教えてくれそうな動画を YouTube で探す。現代のハイテクに囲まれた生活は複雑である。だから、広い意味で言えば、私たちは確かに愚かになっているのかもしれない。必ずしも私たちがより愚かになったからではなく、愚かになる方法がますます増えているからである。