山火事発生件数急増!個々の山火事の規模も年々巨大化している!自然現象?いや、これは人災です! アメリカ

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 2018年、ウエストは消防士ではなくなりました。彼はスーザンビル郡の消防署の配車係になりました。山火事が発生した際に消防士を派遣し、必要な物資や機器等を手配するのが任務でした。そこでは長時間労働が当たり前で、非常にストレスのたまる仕事でした。子供が2人いましたが子育てにもあまり関与できないような状況でした。彼は私に言いました、「私は現実の世界では居場所が無いように感じられたんです。どう言ったら良いのでしょうか、山火事に関する仕事から逃れたいと願っていたのですが、そうした仕事をしていない時には自分が何者でも無いように感じられたんです。」と。ウエストは消防署に手配してもらったセラピストのカウンセリングを受けました。しかし、そのセラピストはPTSDを負った患者を診た経験が皆無でした。彼の妻のキャシーは必死になってファーストレスポンダー(急病や事故や火事が起こった場合に、救急車などが到着するまでに職務上で救急の措置が求められる消防職員や警察官、海上保安官、自衛官など)の治療を専門とするセラピストを見つけ出しました。そのセラピストはウエストに仕事を変えることを検討するよう促しました。ウエストは私に言いました、「山火事と関係ある仕事をしている限り私の病気は治らないようです。」と。

 2020年8月、ウエストは18時間勤務の仕事を終えて、辞表を森林局に提出しました。辞めるに当たっては7ページに及ぶ惜別の手紙を書きました。それを同僚たちにも家族にも見てもらいました。ファイルサーバーに投稿して共有しました。それには次のように綴られていました、「私は消防士のキャリアの中で、4回ほど焼け死にそうになりました。でも、私にとってはそうした経験よりもPTSDの症状の方が怖いんです。」と。ウエストが手紙の中で強調して訴えたかったことは、山火事の消防士に対するメンタルヘルス教育が不足していることと、消防士に対するメンタル面のフォローが不足しているということでした。彼は書いています、「私はPTSDを患っていますが、私はおかしくなったわけでも狂ったわけでもないと思っています。おかしいのは山火事の消防士という仕事です。人を狂わせます。誰でも山火事の消防士を続けていたらPTSDになっても不思議ではないのです。」と。彼が退職した時、森林局で17年間勤続していましたので、基本時給は1時間あたり22.80ドルでした。退職して1カ月後、中学校で社会科と数学を教え始めました。しかし、教え始めた最初の週に”Sheep Fire”(シープ山火事)がスーザンビル郡を脅かしましたので、中学校は一時休校となりました。今年は、”Dixie Fire”(ディキシー山火事)が発生したので再び休校になることがありました。ウエストの家は街中にあるので、山火事は近くまでは来ないだろうと安心しきっていました。実際にそのとおりでした。ウエストは山火事に関与する仕事を離れたわけですが、何の因果なのか分かりませんが、中学校の先生になったにもかかわらず山火事の影響を受けていました。

 2021年8月、ウエストが辞職してから1年後のことですが、私は消防士の多くが持っているFFT2という資格を保持するジャーナリストとして、ファーストレスポンダーの資格を持つ者20人で構成される山火事の消防隊に加わりました。それで、ディキシー山火事の消火に向かうことになりました。当時、既に延焼は50万エーカーに広がっており、防火できた面積はその31%のみでした。6千5百人以上が消火活動に携わっていました。その2週間前に、森林局長官のランディ・ムーアから年度ごとに出す通達が方々に送られていました。そこには記してありました、「山火事は米国で最も差し迫ったリスクである。」と。また、ムーアは、予防的火災は縮小すべきで、また、山火事発生の際には可能な限り早期に消火するとの方針も記されていました。

 私たちは、カリフォルニア州クインシーに向かいました。そこには消火活動の前哨基地が設置されていいました。フォード社製のスーパーデューティーというピックアップトラックで隊列を組んで向かいました。私はその中の1台に5人の消防士と同乗しました。5人の年齢は様々で21歳~51歳でした。その内の何人かは刑務所で消防士になる訓練を受け資格を取得していました。カリフォルニア州では刑務所の受刑者が消火活動に駆り出されることは珍しいことではありません。もちろん給料は支払われます。私の入った隊がディキシー山火事の消火で出動するのは3回目でした。隊員は全員がグリーンの難燃性のズボンをはいていました。ノーメックス(米デュポン社が開発した芳香族ナイロン繊維)が素材として使われていました。革のブーツをはいて、シャツにはロゴが付いていました。ロゴは消防士の派遣元の民間企業を示すもので人によって異なりました。移動中は寝ている者がほとんどでした。起きるのはガソリンスタンドに立ち寄った時だけで、そこで朝食やタバコやサングラスを買ったりしていました。一番若い消防士はちょっとハイでした。「消防士軍団ただいま参上!」などとジョークを言っていました。

 ピックアップトラックの隊列は、2018年のキャンプ山火事で燃えた地区を通り抜けていきました。私と同じピックアップトラックに乗っていた男性の1人は、カリフォルニア州のパラダイスという町に住んでいました。彼の家はキャンプ山火事で全焼しました。この隊列の中には、キャンプ山火事で家が全焼した者が他にも沢山いたようです。家が全焼した男性は後に消火作業中に私に言いました、「あれは人生で最も悲惨な体験でした。気が狂いそうになりました。」と。彼は母親と妻と子供たちを安全な場所に車を4時間半運転して連れ出したそうです。彼は道路のアスファルトの路面が熱い空気によって燃えるように熱くなっているのを見ました。その2日後、山火事の最前線に戻り仲間と一緒に消火活動をしました。ハンドラインを引いたりしました。また、街が燃えた残骸の中に取り残された者がいないか捜索しました。

 私たちは最初の日はインディアン・バレー(カリフォルニア州)のプラマス国立森林公園で活動しました。山火事が襲って来ても対処できるようさまざまな準備をした上で、瓦礫の中に死者が居ないか、生きている残存者が居ないかを調べました。その地域は煙が充満していました。上方の暖かい空気が下の方の冷たい空気を蓋するように封じ込めるので、煙は地表付近を彷徨っていました。私たちを囲んでいる山々は、煙でほとんど見れませんでした。気温は華氏1百度(摂氏38度)で、大気汚染の程度を示す空気質指数は368で、危険である評価されたました。蓋を開けたが飲まれていないバドワイザーの缶が廃屋のパティオに置かれていました。道路脇の白い乳液を出す草はピンク色の遅延剤で濡れていました。休憩する際には、煙を吸い込みたくはないが故に、エアコンが稼働しているピックアップトラックの中で休みました。

 その日の夜は、私たちは避難用防火テントの中で寝ました。翌朝は朝早くに起きて、まだ暗い内に出発して森林の中を徒歩で進みました。アップダウンがあり、ブルドーザーラインが引かれたところもありました。すでに山火事で燃えた場所では、白い灰をスコップや手ですくい上げてみました。その灰の温度をチェックして火が完全に消えていることが確認できました。既に炎がそのあたりを通り過ぎてから数日が経っていましたが、地表を手で掘り出していると、まだ少し熱が残っていて私の指は感覚が無くなりました。自然現象は予測がつかないので気が休まる時がありません。突風が吹いて私の顔に浮かんだ汗を冷やしましたが、それが地表あたりの残り火を再び燃え上らせるのではないかと心配しました。太陽光が一筋だけ煙を通過していました。天気が変わる予兆では無いかと思われました。天候が変わってしまうと山火事の進む方向を予想することは難しくなります。私たちは、グリーンビルの街を車で通過しました。(グリーンビルといえば、2017年にウエストがオフィスでテイラーの動画を見た時に居た街です。)ちょうど一週間前に、この街は山火事で全焼したようです。何もかも焼失してしまったようです。その時は私の隊はこのあたりに居たらしいのですが、森林が燃えて、樹冠火が勢いよく下方に走ったそうです。隊はグリーンビル高校まで退避し、そこを消火活動の拠点にしようと思いました。しかし、ガソリンスタンドが火に包まれてしまったので、消火活動をすることも出来ず街を出て退却しました。隊長のジーン・ロペスはその日のグリーンビルについて言いました、「街は完全に孤立していました。山火事で死人が出なかっかったのは本当に奇跡です。神のおぼし召しです。」と。