2.サル痘ウイルスの重症化リスクは高くない。
私たちがサル痘(monkeypox)と呼んでいるウイルスは、1958年にデンマークの科学者が実験室で霊長類を研究している際に初めてカニクイザルから分離したものです。以上の経緯からサル痘と名付けられたものの、あまり適切な名前ではありません。遺伝子解析の結果、サルは自然宿主(natural reservoir)でないことが判明しているからです。自然宿主は、ヤマネ(dormice)、ロープリス(rope squirrels)、ポーチドラット(pouched rats)などのげっ歯類であると考えられています。ヒトへの最初の感染が確認されたのは、1970年のコンゴ民主共和国の9歳の少年でした。その後数十年間、このサル痘の感染は主に中央・西アフリカに限定されていました。感染したのは、ブッシュミート(野生動物の肉)を扱った狩猟関係者、野生動物に噛まれた人、ウイルスに汚染されたものに接触した人でした。アフリカ諸国は感染爆発の可能性があると警告し、感染封じ込めのための支援を要求しましたが、国際社会はサル痘ウイルスの脅威を認識することはなく、ほとんど支援はされませんでした。
実は、アメリカでサル痘の感染が広がったのは今回が初めてではありません。2003年にテキサス州で珍獣を取り扱っていたペット販売業者がガーナから巨大なアフリカオニネズミ(giant pouched rat)など数百匹のげっ歯類を輸入しました。その一部が、イリノイ州の販売業者に送られました。それらは、プレーリードッグと一緒に飼育されました。中西部では71人がサル痘に感染しました。その大半は、一緒に飼育されていたプレーリードッグと直接接触していました。その時は、幸いにも死者は出ませんでした。しかし、それを機にアメリカではアフリカオニネズミの輸入は禁止されました。
サル痘には、どうやら2つの遺伝的系統群があるようです。中央アフリカで優勢なウイルス系統群はとても凶暴で、致命率(case-fatality rate:特定の疾病に罹患した母集団の内、その感染が死因となって死亡する割合)は11%にも上ると報告されています。しかし、近年はその率がやや低下しています。死亡者数も数百人と比較的少なくなっています。 現在世界中で流行しているのは西アフリカで優勢な系統群で、それほど重症化はしません。今回の感染拡大が始まる前には、重症化率の低い西アフリカの系統群でも致命率は、デンマークのサル痘ワクチンメーカーであるババリアン・ノルディック(Bavarian Nordic)社の調査によれば4%弱でした。
死亡者のほとんどは乳幼児や免疫力の低下した人です。1月以降、アフリカでは73人がサル痘によって死亡しています。しかし、アフリカ大陸以外では、サル痘による死亡例は1件も確認されておらず、入院例もほとんどありません。その理由は明らかになっていません。サル痘ウイルスが変異した可能性もあります。あるいは、アフリカ大陸以外で感染した人たちの年齢や健康状態が、アフリカで感染して死亡した人たちと大きく異なっていたのかもしれません。おそらく、アフリカ大陸とそれ以外で、医療インフラの充実度に大きな差があることが致命率の大きな差に繋がったのではないでしょうか。あるいは、そんなことは全く関係なく、何か他に要因がある可能性も捨てきれません。
このウイルスは、主に感染者の皮膚、寝具、タオル、衣服との密接な接触によって広がります。そのため、性交は特に効率的な感染経路となっています。今回の感染拡大では、男性と性交をする男性の感染者に占める割合が非常に高いのですが、男女の性交、女性同士の性交でも感染しないとは言い切れません。(精液などの体液でウイルスが繁殖していることがありますが、それを介して感染するか否かは現時点では不明です)。サル痘は、咳やくしゃみをしたときに出る飛沫によって空気中に放出されることもありますが、空気中にとどまったり、長距離を効率的に伝わって感染を広げることはないようです。ですので、空気感染は起こりにくいでしょう。また、症状が出る前にウイルスをばら撒いてしまうようなこともないと考えられています。
サル痘に感染して発症した人のほとんどは、発疹した皮膚の症状に対するケアを受け、あとは鎮痛剤を飲むだけです。大体は、それだけで治癒しますが、重症の場合には、2018年に食品医薬品局(FDA)が初めて天然痘の治療薬として認可した抗ウイルス薬であるテコビリマット(主成分名tecoviimat、医薬品名Tpoxx)を医師が処方します。あるいは、2021年に認可されたブリンジドフォビル(bringidofovir)が投与されます。また、2種類のワクチンが有効であると考えられています。旧来からあるワクチンは、ACAM2000です。1世紀近く前から様々な用途で使われていて、アメリカの戦略的国家備蓄の中にもそのワクチン約1億回分が含まれています。しかし、ACAM2000は皮膚に何度も穴を開けるという特殊な方法で投与されるため、特に心臓病や免疫機能の弱った人には深刻な副作用を引き起こすリスクがあります。一方、ババリアン・ノルディック社のジンネオス(Jynneos)は新しいワクチンです。2019年に承認されたもので、より安全性が高くなっています。このワクチンは28日間隔で2回投与されます。疾病予防管理センター(CDC)によると、曝露後4日以内にそのワクチンの1回目接種をすれば感染を完全に防ぐことができるそうです。また、2週間以内に接種すれば症状を軽減することができるそうです。
理想的には、ウイルスに感染してしまった可能性が高い人やそのサル痘に感染した場合にリスクが高いと思われる人が迅速に手軽に検査を受けられる体制を構築すべきです。そうした人が、かかりつけ医に相談したり、救急病院や地域保健所や臨時検査所などで、迅速で便利な検査を受けられるようにすることです。ウイルスに感染していることが確認された人、あるいは単に予防措置を取りたい人には、無料で安全性が高く効果の高いワクチンを提供できるようにすべきです。いわゆる包囲接種(ring vaccination)も有効です。それは、陽性と判明した人の身近な人に通知して、ワクチン接種をする方法です。その人の身近な人にも同様にワクチンを接種します。この方法は、非常に有効であることが知られています。実際、これで天然痘を撲滅することができました。
しかし、ジンネオス・ワクチンの供給量は限られています。先週の時点では、保健福祉省は約5万6千回分しか備蓄していませんでした。現在は、さらに10万回分備蓄を増やしたそうですが、潤沢とは言えない状況です。今のところ、公衆衛生当局はそのワクチンを勧める人を限定しているようです。サル痘に感染した人、その疑いがある人、あるいはサル痘ウイルスが蔓延している地域で直近で複数の相手と性交をした人にのみが対象のようです。そこまで限定しても、ワクチンを行き渡らせるのは容易なことではありませんでした。ニューヨーク、アトランタ、サンフランシスコの保健所で、サル痘ワクチンの接種を開始したのですが、接種希望者が殺到し、希望者全員に行き渡らせることはできませんでした。
ワクチンをメーカー1社に依存することの危険性が明確になりました。ジンネオス・ワクチンの生産量を増やせたはずのババリアン・ノルディック社の施設は現在、拡張計画のために閉鎖されています。操業再開は早くても夏の終わり頃となる見込みのようです。ワクチンの供給量は、この後大幅に増加する見通しです。2022年の末には、アメリカで約200万回分のワクチンが供給されます。しかし、世界中でサル痘の感染が広まって、数十カ国で感染防止のためにワクチンが必須になると思われます。それらの国で、わずか500万回分のワクチンを分け合わなければならない状況になりそうです。