どれだけ働けば良いのか?長時間労働がアメリカでも問題に!アメリカでは低所得者で過労死する者が多い。

A Critic at Large January 18, 2021 Issue

What’s Wrong with the Way We Work
こんな働き方をいつまで続けるのか?

Americans are told to give their all—time, labor, and passion—to their jobs. But do their jobs give enough back?
アメリカの労働者は仕事に全てを捧げることを求められます。仕事に時間も労力も熱意も捧げなければならないのです。しかし、そうしたからといって、報われることがあるのでしょうか?

By Jill Lepore January 11, 2021

1.マリア・フェウルナンデスの悲惨な死 – アメリカの労働者は働き過ぎている

 マリア・フェルナンデスは、ニュージャージー州の道路脇のパーキングロットに停めた車の中で寝ている最中に亡くなりました。32歳でした。2014年夏のことでした。彼女は、ダンキンドーナツの3店舗で掛け持ちで勤務している低賃金労働者でした。次の勤務に行く途中、ボロい車の中でエンジンを掛けたまま仮眠したのです。ガス欠に備え、後部座席に補充用のガソリンをいれたガソリン容器がありました。彼女は、ロックした車の中で、白と茶色のダンキンドーナツのユニフォーム姿でした。死因は、揮発したガソリンと排気ガスによる中毒でした。ラトガース大学のある教授は、彼女の死の遠因は不況にあると評しました。フェルナンデスは勤務と勤務の合間に眠ろうとしていました。現在、アメリカ中に勤務と勤務の合間に車中で時間をつぶしている人が沢山います。さまざまな職種の人たちが、何時間も時間をつぶしています。フェルナンデスの死後1年以内に、エリザベス・ウォーレンは上下院の多くの民主党員と協力して、労働時間に関する法案を再提出しました。その法案は、飲食業、小売業、卸売業などで、雇用者が少なくとも2週間前にスケジュールの変更を従業員に明示することを求める一方で、解雇をちらつかせて勤務時間帯の変更を迫ることなどを禁じています。ウォーレンはこの法案に関して言いました、「仕事がキャンセルされて無くなったということは、家を出る前に知らされるべきです。また、学校に行って教育を受けたいと思っている人は、勤務時間を明確にするよう要求する権利が担保されるべきです。要求することで不当な扱いをされるようなことがあってはなりません。また、何時間も電話で連絡が来るのを待つように言われた労働者は、たとえ仕事がなかったとしても待っていた時間に対して対価が支払われるべきです。」と。しかし、その法案が可決されたことは一度もありませんでした。2017年と2019年に再提案されましたが、採決まで進むことなく廃案となりました。

 アメリカの労働者は、他の西側諸国(ドイツやフランスを含む)の労働者より長時間働いています。アメリカでは週50時間以上働いている人も少なくありません。1970年代に一般社員の実質賃金が減少しました。当時は脱工業化の影響があって組合に加入する労働者の割合が減っていました。脱工業化の進展によって、産業革命前のような状態が生み出されたと指摘する者もいます。ギグワーカー(単発で仕事を請け負う人)の働き方は、中世の家臣の働き方のようです。UberやTaskRabbitはギグワーカーを沢山使っています。現在は、そういった企業に雇われていない人でさえもギグワーカーと同じような働き方をしています。2005年から2015年の間に生み出された仕事のほとんどは正規雇用ではありませんでした。アメリカの小売業に従事するパートタイマー5人の内の4人は、2週間後の勤務シフトは未定です。そういった労働者の勤務シフトは、アルゴリズムによって決められることが多くなっています。アルゴリズムを使うのは、手待ち時間を減らしサービスの中断を減らすことで利益を最大化することが目的です。アルゴリズムを使うことによって、ジャストインタイム製造方式がサービス業にも導入されたのです。ジャストインタイム製造方式というのは、1970年代に日本の製造業で構築された仕組みです。日本といえば「過労死(death by overwork)」という言葉が生み出された国です。しかし、今では日本の平均的な労働者の労働時間はアメリカより少ないのです。社会学者ジェイミー・K・マッカラムが指摘していますが、アメリカ人は他国の労働者よりも有給休暇が少ないのです。世界中でアメリカだけが産休制度が不十分で、病欠に対する補償も心もとないものです。そんな状態であるのに、アメリカの労働者は、仕事を愛し、「仕事の意義」を見い出せなどと言われているのです。

 「仕事の意義」なんていう語は、マッカラムが言うように、1970年代より前には無かった表現です。社会学者サラ・ジャッフェも、大昔から仕事は生活の糧であり、そこに意義を見出すことなど無かったと言います。そうした状況は1970年代に変化し始めました。マッカラムとジャッフェによると、労働者に対して仕事に人生の目的を見いだすことを期待すると語る企業経営者が現れたのはその頃のことのです。当時、ニューヨーク証券取引所会長は次のように言いました、「仕事に対するモチベーションを高く維持するためには、かつては高い報酬を払えば良かったが、もはやそれだけでは十分では無くなった。経営幹部は、仕事の満足度を上げるためにはどうすべきかを理解しなければならない。」と。その後は誰もが仕事を愛するようになるという楽観的な推測をする人が少なからずいました。1980~90年代には、「好きなことをしよう。あくせく働く必要などないのです。」という掲示があちこちに掲げられました。また、無給のインターンシップ制度が増え、労働組合が無力化されました。そうした風潮はすぐに、シリコンバレーとウォール街に拡がりました。「素晴らしい仕事をする唯一の方法は、自分の仕事を愛することです」とスティーブ・ジョブズは2005年にスタンフォード大学の卒業式の式辞で述べています。「自分がしていることを愛しているなら、仕事とは思わないはずです。」とデビッド・M・ルーベンスタイン(カーライルグループCEO)は、2014年にテレビのインタビューで語っていました。Googleのあるエンジニアは、そうした説教めいたスピーチには辟易しています。それでマッカラムに言いました、「社内ではどこへ行っても、”意義”について語り出す人ばかりです。”意義”について語っている人たちは、そもそも哲学者でも心理学者でも無いんです。彼らの専門はバナー広告を売ることなんですよ。」と。私は、意義を語ることが無意味だとは言いません。しかし、仕事に意義を見い出すことって、本当に必要なことなのでしょうか。それは、非常に疑問に思います。