3.労働時間が短くならなかった様々な理由
仕事に意義を見いだすことは馬鹿げたことであるという主張は間違っています。それは、仕事の目的を理解すべきであるということを誤解しているのだと思われます。自分のしている仕事を愛する人はめったに居ないという主張も間違っています。全ての職場の全ての労働者が、仕事で他の人と交流すること、仕事のために家から出ること、何か役に立っていると感じられること、達成感を味わえることがが好きなのです。1974年、スタッド・テルケルは、著書「Working(本邦未発売)」を記しました。その本のために、彼は130人以上のアメリカ人にインタビューを実施しました。インタビューでは、1日中何をしているのか、それについてどう思うかということを聞きました。彼が明らかにしたかったのは、アメリカの労働者の仕事に対する意識がどうなっているかということでした。意義を感じているのか、それとも生活の糧のためなのか。尊敬されたいのか、それともお金が欲しいだけなのか。ただ黙々とこなすだけなのか、いろんなことを覚えていきたいのか。月曜日から金曜日までが苦痛なのか、それとも楽しいのか。そういったことを調べました。
テルケルはラジオ局に勤めていて、アナウンサーの仕事が大好きでした。彼は自分を職人だと思っていました。番組が良くなるのも悪くなるのも自分の責任だと考えていました。彼の仕事は、昔の靴屋が靴全体を作っていたのと似ています。彼はいろんな職業の人たちにインタビューをしました。自分の仕事が嫌いな人が沢山いました。フォード社の工場の組立ラインで働くある溶接工は言いました、「仕事は苦痛でしかありません。製造ラインが止まることはありません。ラインは動いて、動いて、動き続けます。私がラインを止めてしまったら、他の人の作業も止まってしまうんです。全て人に影響が出てしまうんです。ラインは永遠に動き続けるので、とにかく、永遠に追い立てられ溶接し続けなければならないんです。」と。しかし、テルケルがインタビューしたほとんどの人たちは、自分の仕事に大いに誇りを持っていました。ある石工は言いました、「石積職人というのは聖書が書かれた時代にまで遡ることが出来ます。その時代には、まだ大工職人はいませんでした。石材というのは、最も古くから使われてきた建設材料で、最も長持ちするんです。」と。また、あるホテルのフロントスタッフは言いました、「ホテルのフロントスタッフが間抜けだったら、ホテルは潰れてしまいます。フロントはホテルの中心みたいなものなんです。」と。26歳のフライトアテンダントは言いました、「仕事を始めてから2か月で、ロンドン、パリ、ローマなどに行きました。私はネブラスカ州ブロークンボウで育ちましたから、目新しいことだらけでした。」と。
おそらく、現在でも多くの人たちが自分の仕事に誇りを持っていると思われます。テルケルがインタビューを実施したのは1970年代初頭のことでしたので、当時の世相が反映されています。1970年代初頭というと、労働運動で大きな成果が生み出されたころです。1日8時間労働が実現し、健康保険制度や年金制度も整備されました。キルステン・スウィンスが著書「Feminism’s Forgotten Fight: The Unfinished Struggle for Work and Family(本邦未発売)」(ハーバード社刊)で指摘していますが、当時、「一家の収入」という概念がなくなりました。また、収入格差は拡大し始めたばかりでした。アメリカやイギリスのような国では、製造業が衰退し、労働組合も衰退しました。1987年にリチャード・ドンキンがフィナンシャルタイムズ誌で記事を書き始めた時、6人の記者が労働運動について報道する部署に配属され、ストライキ、サボタージュ、団体交渉、ベア要求などについて報道していました。2001年に、ドンキンが仕事の歴史について著書「Blood, Sweat and Tears(本邦未発売)」を上程した時、仕事について記述したページは有りませんでした。その理由は、仕事というものがもはや存在していないとドンキンが考えたからです。1957年生まれのドンキンは、労働組合の力が衰退するのを目の当たりにしてきました。かつては勤務時間が終われば、誰もが仕事のことはすっかり頭から離れました。しかし、現在は、頭から仕事のことが離れることはありません。人々の生活のそこかしこに、仕事は入り込んできています。
話はそれだけではありません。当時、家庭での仕事が、つまり家事が問題になっていました。女性だけが家庭で無給で働いていることが問題視され始めました。1970年代以降、女性解放運動が盛んになりました。当時、急進的なフェミニストであったパット・マイナルディは、男性が家庭で女性に家事を任せきりにしていることを非難していました。彼女は言いました、「誰でも1日1時間は、自分の身の回りのことに費やさないと生活を維持できません。現在、アメリカの家庭では、男の人はその作業を担わず女性に押し付けています。男の人はそうして得た1週間で7時間に、ちょうど1日働いたと同じくらいの時間ですが、遊び惚けています。」と。より多くの女性が家庭を出て働くようになっていました。しかし、男性が家で無給の仕事、つまり家事を喜んでするようなことはありませんでした。あるボストン在住のフェミニストの計算によると、女性の家事の大変さは控えめに見て週60時間労働に匹敵しました(厳しく見積もると週80時間労働)。当時、女性が抗議の声を上げるために、女性のための労働運動が為されました。1970年には男女平等を要求するストライキにおいて「抑圧された女性を解放しよう!もう夕食は作らないぞ!」というプラカードが掲げられていました。また、「主婦は無給の奴隷ではない!男も掃除をしろ!」というものもありました。
多くのフェミニストが経済学者たちに訴えました。それは、家事を仕事と認識すべきであるということでした。フェミニストたちの計算によれば、1976年に全家庭で行われた家事に支払うべき賃金を計算すると、GNPの44%を占めていました。さまざまな団体(ニューヨーク家事賃金委員会、黒人女性家事賃金同盟、レズビアン家事賃金連合など)が家事に賃金を払うべきであるという主張を掲げ闘争していました。それらの闘争では、女性に無給で家事を行わせて搾取することは重大な犯罪であるとの主張が為されました。
そうしたフェミニストたちは、当時の福祉権活動家と協力して活動しました。共に女性の賃金アップを目指していたので、協力するのは自然なことでした。1967年には、福祉権活動の象徴として全国福祉権協会(昨今話題となっている「ベーシックインカム」に近いものを今から50年も前に提唱していた)が設立されています。「女性ができる最大の貢献は自分の子供を育てることです。それはとても重要な仕事であると認識されるべきです。子育てをした女性には十分な賃金が支払われるべきです。」と、福祉権利協会ミルウォーキー支部会長は1972年に主張しました。フェミニストや福祉権活動家は、ニクソン大統領が提案していた家事支援法案には賛同しませんでした。なぜなら、その施策による恩恵は不十分であると思われたからです。また、家事が義務化される懸念もあったからです。それで、結局のところ法案は廃案となりました。1976年には、急進的なフェミニストが家事に賃金を払う法案を提出しました。しかし、アメリカ人の4分の1しかそれに賛成しませんでした。
当時は、日曜大工や手芸をする人が増えていました。多くの女性が趣味にいそしみました。1980年代には大型手芸用品店が出来て、盛況でした。マーサ・スチュワートの本が売れに売れていて、彼女に触発されて編み物や刺繍やタペストリー作りのための商品を買い求める人が溢れていました。家事の対価として賃金を払えと主張し闘争している女性たちがいる一方で、喜んでお金を払って趣味で針仕事をしている女性も沢山いました。
1970年代は重要なターニングポイントでした。当時は、産業別労働組合の組合員数が急減し、逆に、フェミニストの活動家の数が増え発言力が増大しました。非農業部門では、1950年代にはアメリカの労働者の3人に1人以上が組合に加入していました。それが、1983年には5人に1人になり、2019年には10人に1人だけになりました。組合加入者が減少し、同時に所得の不平等は拡大しました。1980年代のそうした状況を示す語として、スズマンは、「グレート・デカップリング」という言葉を使っていました。かつては、経済の成長と賃金上昇は一緒にやってきました。しかし、1980年頃から、アメリカではGDPの成長が続いているにも関わらず、実質賃金の伸びは停滞していました。増えない賃金を補うために、多くのアメリカ人が長時間働き、副業もこなさなければなりませんでした。特にサービス業には、そうした人が沢山見られました(現在、アメリカの全雇用者の80%以上がサービス業で働いています)。
1980年代初頭に、ダンキンドーナツは、アメリカの歴史上で最も印象的なテレビCMシリーズを展開しました。あるCMでは、フレッド・ザ・ベイカーという名の男が、夜中にベッドから起き出して、ダンキンドーナツの制服を着て「ドーナツを作る時間だ」とつぶやき、寝ぼけたまま、ベッドでカーラーを付けたまま寝息を立てている妻を起こさぬように小声で「おはよう」と言いながら寝室を出ていきます。別のCMでは、フレッド・ザ・ベイカーはくたくたに疲れていたため、ディナーパーティーで眠りに落ち、マッシュポテトが盛られた皿の中に顔を落としました。また別のCMは、毎日毎日フレッド・ザ・ベイカーが玄関のドアから出かけ、「今日もドーナツを作ったぞ」と言いながら玄関のドアを入ってくる映像が繰り返し映って、最後は出かけていくフレッド・ザ・ベイカーが帰ってきた自分自身と鉢合わせしてぶつかるというものでした。このテレビCMシリーズは非常に人気があったため、ダンキンドーナツは100以上の異なるバージョンを作成しました。マリア・フェルナンデスが生まれてから15歳になるまで、ダンキンドーナツのCMはテレビで四六時中流れていました。1997年、フレッド・ザ・ベイカーを演じていた俳優ジョン・ロヴィッツがこの役を辞めた時には、人気テレビ番組「サタデーナイトライブ」は彼をゲストに招いて長く続いたCMシリーズのことを振り返りました。ジョン・ロヴィッツはその時に言いました。「私がフレッド・ザ・ベイカーを演じていた時期、アメリカは非常に困難に陥っていました。湾岸戦争がありましたし、ロサンジェルスでロドニー・キングが撲殺されて暴動が起きたりしました。そんな世相の中で、明るくドーナツを作るキャラクターが求められていたのだと思います。」と。
アメリカではGDPが上昇しているのに、賃金が増えない人たちが沢山いました。増えた富はどこに消えてしまったのでしょうか?そのほとんどを手にしたのは企業の重役などでした。1965年の企業のCEOの報酬は、平均的な労働者の20倍ほどでした。2015年には、200倍以上になりました。その年のダンキンドーナツのCEOのナイジェル・トラビスの報酬は540万ドルでした(その前年の報酬は1,020万ドル)。彼は、最低賃金を15ドルに引き上げる法案に反対していました。「信じられないほど高額な時給だ」との感想をもらしていました。
企業の幹部がそれほど多くの報酬を得られていたのは、連邦政府がそうした状況に何も手を打たず放置していたことも要因の1つです。バイデンは大統領選の際に、労働者の賃金引上げを目指し、労働組合の活動を支持すると表明していました。それは共和党とは全く逆のスタンスでした。バイデン氏は、トランプ政権時に制定された労働組合の活動を阻害する法案を無効化する法案の提出も検討していました。その法案が可決される可能性はほとんど無いでしょう。たとえ可決されたとしても、所得の格差の是正には何の役にも立たないでしょう。マリア・フェルナンデスが亡くなった数日後、「マリア・フェルナンデスの死を無駄にするな。いまこそ行動すべき時だ!」というフレーズを、アメリカのあちこちの州や郡や市の職員組合がさまざまな媒体で掲げました。伝えられるところによると、彼女は週に80時間以上働いていましたが、年収は4万ドル未満でした。ダンキンドーナツはコメントを求められ次のことを明らかにしました。フェルナンデスを雇っていた店のオーナーたちは彼女にもっと良い時給で責任のある職位になるよう提案していました。しかし、彼女は現場でドーナツを売ることが好きなので、それの申し出を断ったのだそうです。しかし、ダンキンドーナツ側がそういう提案をしていたのだから、全く問題がないというわけではありません。そもそもの時給の低さこそが問題なのですから。