AI時代に「あえて自分で考える」価値とは?人生の主導権を握るパイロットになる方法

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 一方、自分のために精神的に負荷の高いタスクをこなす、あるいはこなさないという決断は、内なる側面に起点がある。肉体的な努力が私たちの身体を形作るように、精神的な努力は私たちの精神を、ひいては私たちのアイデンティティと自己をも形作る。2 人の料理人を例に出して説明したい。1 人は伝統的な方法で料理を学ぶとする。長年の実践を通して個々のレシピを習得し、食材と調理法の組み合わせに対するより幅広く直感的な感覚へと昇華させていく。もう 1 人は、AI に頼って一つ一つレシピを生成し、多くの場合、セール中や冷蔵庫にあるものに基づいてレシピを生成するとする。実は、AI はこういうことが得意である。というのは、1 人めの料理人と同じように、数え切れないほどのレシピに触れ、それらを通して料理に関する直感を養っているからである。AI は訓練プロセスを経て、具体的なものから一般的なものへと成長していくのである。対照的であるが、2 人めの料理人は、そのような直感を養う必要がない。だから、たくさんのレシピを習得するかもしれないが、個々のレシピのレベルにとどまる。応用はきかない。3 人の料理人、つまり 1 人めの料理人、2 人めの料理人、そして AI のことであるが、この中では実は 2 人めの料理人が最も訓練されていないことになる。

 これは、2 人めの料理人が 1 人目の料理人より人格的に劣っているということになるのだろうか?たしかに、彼の能力、そして経歴は 1 人めの料理人とは異なる。さまざまな選択の仕方も異なる。熟練した料理人が生涯かけて大切にしてきたレシピに基づいて料理を作るのと、AI が選んだレシピを使うのとでは違う。そして、ある程度、彼の性格も違うと言えるかもしれない。2 人めの料理人は美味しい夕食を作れるかもしれない。しかし、料理を学ぼうとして何度も失敗し、最終的に成功した人ではない。彼は本当に料理人として人生を生きてきたわけではないと言える。ただ形だけこなしているだけである。

 この 2 人の料理人の違いが、知的労働の多くの領域で繰り返されると仮定する。極端な例として、2 人の個人がいると想像する。極端な例のように思えるかもしれないが、1 人は自分で問題を解決しようとし、もう 1 人は知的労働が必要なときに AI の助けを借りることが多いとする。2 人は全く異なる。1 人は考える人、もう 1 人はただこなすだけの人である。1 人は学習によって形作られた心を持ち、もう 1 人は好みによって形作られた心を持つ。1 人は進化し続ける。適応性があり、内面化された幅広い能力を持つ。もう 1 人は何を求めるべきかという感覚を持ち合わせている。現実の世界では、これらは別々の 2 人の人間として存在するのではなく、1 人の生身の人間の中に 2 つの異なる人格が共存するような形で存在することが多いのかもしれない。人によってその割合が異なると推測するのだが、個々人の頭の中の思考回路の中に、自ら考えて行動する分野とただこなすだけの分野があるのだろう。

 理論上は、3 つめの可能性もある。AI の研究者の中には長年、「ケンタウロス( centaurs:ギリシャ神話の半人半馬の怪物)」、つまりコンピューターの助けを借りて努力をさらに推し進める研究者が多数存在していることに注目してきた。例えば、よく訓練された料理人は AI を使ってさらに独創的なレシピを考え出してきた。しかし、この楽観的なシナリオは、よく訓練された料理人が継続的に存在することを前提としている。AI が急増するにつれて、コンピューターがすでに十分に訓練されている中で、自分の脳を訓練することの価値に多くの人が疑問を抱き始めるのではないか。また、ある領域における知的な受動性が、他の領域でのパフォーマンスにどう影響するかも不明確である。私はこれまでに 2 回ほど花婿介添人としてスピーチしたことがあるが、その時は非常に緊張した(緊張しない者がいるだろうか?)。もし当時 AI が存在していたなら、私は AI に助けを求めることを考えたかもしれない。しかし、それでもその誘惑に抵抗するような気もする。もし私がすでに執筆などの業務で AI を多用し、メールの作成やプレゼンテーションの作成でも AI を駆使していたと仮定する。そうだとしたら、私は自分で最終的にスピーチ原稿を仕上げられただろうか?おそらく、執筆家としての自分の能力は停滞し低レベルになっていたのではないだろうか?
 近い将来、私たちが考えることを思い出す必要があるかもしれないと考えるのは奇妙なことに思える。しかし、AI はまさにそれを行っている。それは、思考を巡らせている。そして、多くの状況において、人間の代わりに考えてくれると約束している。現在、世の中にはさまざまなテクノロジーが溢れている状況である。私たちはすでに意識してスマホを置くようにしなければならない状況になっている。意識して外に出て、意識して友人に直接会い、意識して画面で見るのではなくどこかへ出掛けるようにしないといけない。退屈かもしれないがテクノロジーに頼らないで活動することが重要になっている。コンピューターがより多くのことを行うようになっていくが、注意しないといけないことがある。そうしないと私たちの脳の活動分野がより少なくなってしまう。結果として人類は衰退してしまうだろう。♦


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