5.
人々が集中力を失っているわけでも、注意散漫になっているわけでもないのなら、何を危惧する必要があるのか。集中力が奪われていることを憂えているのは、ジャーナリスト、芸術家、小説家、大学教授といった知識階級の人たちがほとんどである。こうした人たちは、長時間、誰からも指導されずに創造力を発揮しなければならないため、オンラインの中断に特に弱い。彼らはインスタグラムに悩まされている。それは、アメリカで最も従事者が多い在宅介護ヘルパーや小売店の販売員やファーストフード店の従業員たちと違うところである。
知識階級の人たちの問題の大部分は、多くの創造や創作をしていた者が、特に旧来のメディアで活躍していた者たちが、スマートフォンに観客を奪われてしまうのではないかと恐れていることにある。この点では、18 世紀の司祭が小説が女性を祈りの服従から遠ざけていると非難したこととあまり変わらないように思える。表面上は集中力の欠如や注意散漫を憂えているが、根本的には権威が低下することを憂えているだけである。「人々は何にも注目しなくなった」という懸念は「人々が私に注目しなくなった」という懸念が転じたものにすぎないのかもしれない。
これらすべてが、メディアが民主化された状況に対するエリート層の不安であるという疑念が深まっている。それはいろんなことに関心を持つことが重要と考える人物が何に注目してもらいたいかということを考えると分かりやすい。彼らが、注目してもらいたいのは美術、古書、手つかずの自然などである。まるで彼らがコネチカットの片田舎で寄宿学校を経営しているかのようである。何よりも、彼らは忍耐を重視していて、つまり、すぐには理解できない物事にこだわる傾向を好む。忍耐は確かに美徳であるが、夫が愛情深い妻を褒めるなど、コメンテーターが他人の忍耐を称賛すると、ナルシシズムの匂いが漂ってくる。それは、コミュニケーションの責任を聞き手に押し付け、話し手が長すぎたり、不明瞭だったり、自己満足的であったりすることを許す。誰かが聴衆にもっと忍耐強くなるよう呼びかけると、私は本能的に「その代わりに、もっと退屈にならないようにしてほしい」と願う。
ある意味で、なにかに関心を持つことを重視する者たちが求めているのは、負けつつある競争からの保護である。それはもっともである。市場は常に素晴らしい結果をもたらすとは限らないし、ヘイズが知的な生活の商品化を嘆くのも正しい。しかし、アイデアがオンラインの無料プラットフォームに投稿された時の方が、書籍にまとめられバーコードが付けられて店頭で販売されたときよりも、市場によって歪められることが少ないのではないかと思う者も少なくないだろう。私たちが我慢して読むことができなくなりつつある 19 世紀の長編小説が長かったのには理由があったことを思い出す必要がある。その主な理由は、営利を追求する出版社が、著者に物語を複数巻になるように話を引き延ばさせたからである。市場の力は、何世紀にもわたってアイデアを引き延ばし、押しつぶし、ねじ曲げ、抑圧してきたのである。
ヘイズにとって、アプリが酷いと感じる主因は、同意なしに動作することである。アプリはトリックを駆使して注目を集め、私たちを無力にし呆然とさせる。しかし、彼の最も説得力のあるこの議論でさえ、注意を払う必要がある。私たちのメディアは常に、私たちの欲望と奇妙なダンスをしてきた。ヘイズは私たちが現在感じている苦境が比較的新しいものであると主張しているが、彼の著書のタイトル「 The Sirens’ Call (サイレンコール。興味をそそるが潜在的に危険な誘惑的なアピールの意)」は、抵抗できないほど魅力的な歌についての古代のホメロスの物語を暗示している。これは常に歓迎されないわけではない。本に対する私たちの最高の賛辞を考えてみると、魅惑的( captivating )、威圧的( commanding )、釘付け( riveting )、夢中になる( absorbing )、心を奪われる( enthralling )などが頭に浮かぶ。それらは、魅了されて主体性が失われるという幻想を示しているのかもしれない。奇妙なことに、私たちは誰かに屈服することを嘆くわけだが、実は何かに魅了されて屈服するということを誰もが最も望んでいるのである。
人々が集中できなくなっていると警鐘を鳴らす者たちが思い描く悪夢は、TikTok に溺れたスクリーネイジャー( screen-ager:テレビやコンピューター、スマートフォン、タブレットなどのスクリーンを多く見て育った世代の若者 )の姿である。しかし、これは現在の全体像を示しているわけではないし、将来を暗示しているわけでもない。私たちが暮らす現在は、気を散らすのと同じくらい注目し集中する時代であり、短いものと同じくらい長いものが存在し、無関心と同じくらい熱意も溢れている時代である。誰もが集中することが難しくなっていると現状を憂うことは、誤った見立てをしていると言わざるを得ない。
それは残念なことである。なぜなら、私たちとスマートフォンの関係は健全とは程遠いからである。メディアの世界は、不安、嫉妬、妄想、怒りの荒波になりつつある。私たちの注目は、驚くべきことに心配な方法で他に向けさせられている。議論の過熱、陰謀論の台頭、共有された真実の空洞化の影響がある。これらすべての傾向は現実に見られるものであり、慎重に分析する必要がある。しかし、集中力の喪失に対するパニックは、気を散らすものである。♦
以上