2.一口に免疫と言っても色々ある。獲得免疫、自然免疫、訓練免疫、交差免疫・・・
オランダのラドバウド大学の免疫学者ミハイ・ネテア(53歳)は、重度の感染症に対する生体の反応を研究しています。彼の研究チームには20人ほどのメンバーがいます。2010年にネテアの研究チームは、BCGワクチンの接種がトル様受容体(細胞表面にある受容体タンパク質で、種々の病原体を感知して自然免疫を作動させる機能がある)に与える影響を評価する実験を行いました。実験をする前は、1つのワクチンは、対象となる感染症の免疫反応のみを強化すると考えていました。実験では、被験者にBCGワクチンを接種しました。当然のことながら、結核の原因菌である結核菌に反応するサイトカインという免疫細胞を活性化する物資の産生が増加しました。接種した後も、他の感染症を引き起こす細菌やウイルスに対する免疫反応は何の影響も受けないだろうと推測していました。その実験では、ある真菌に対する免疫反応に変化があるか否かを調べました。その結果、その真菌に対して免疫細胞が反応を示すようになったことが分かったのです。ネテアは、そんなことがあるはずはないと思い、学生が実験で何かミスをしたのではないかと推測しました。
そこで、ネテアの研究チームは同じ実験を何度も繰り返してみたのですが、何度やっても結果は同じでした。ネテアは、BCGワクチンが結核以外の感染症にも有効であることを証明した論文があるかどうかを調べてみることにしました。すると、すぐにアーベイや他の者による疫学的な研究論文を見つけることができました。マウスを使った実験を行った論文もありました。1960年代から70年代にかけて、多くの動物実験が行われており、BCGワクチンがインフルエンザやリステリアやマラリアなどあらゆる感染症に対する免疫力を高めることが証明されていたのです。ネテアは、そうした論文があることを、それまでは認識していなかったので、驚きました。ネテアは、2011年に論文を発表し、そのようにして得られる免疫を”trained Immunity”(訓練免疫)と名付けました。。
ほとんどのワクチンは、”adaptive immune”(獲得免疫)を得ることを目的として接種されています。抗体やT細胞に特定の病原体を覚えさせることで効果が発揮されます。また、人間は生来備わっている” innate immune”(自然免疫)も持っています。自然免疫は、病原体の侵入からからだを守る第1の防衛ラインです。皮膚が病原体の侵入を防ぎ、粘膜は粘液を分泌して病原体の侵入を防ぎ、からだ中の皮膚や粘膜からウイルスの複製を防ぐタンパク質を放出し病原体の侵入を防いでいるのです。この自然免疫が機能する際には、スカベンジャー細胞が体外からの侵入者(たとえ未知のものであっても)を攻撃し、キラー細胞がウイルス等に感染した細胞を攻撃します。そうした反応は、体内に侵入してくる全ての病原体に対して為されます。炎症と発熱は、サイトカインによって引き起こされるのですが、それは自然免疫が機能していることの証しでもあります。ネテアは、獲得免疫と自然免疫の違いは、専門家と肉体労働者の違いに似ていると言いました。専門家(獲得免疫)の仕事は準備に何週間もかかりますが、肉体労働者(自然免疫)はいつでもすぐに仕事を始められます。
BCGワクチンの接種によって結核以外の感染症に対する免疫も高まることについて、獲得免疫に着目した説明も為されています。いわゆる”cross-reactivity”(交差免疫)です。おそらく、BCGワクチンと特徴が似ている真菌類があると、BCGワクチンによって備わった獲得免疫が、真菌類に対して反応して攻撃するのだと考えられています。しかし、ネテアは別の可能性があるかもしれないと思っていました。というのは、獲得免疫がない場合でも、一度感染すると、将来感染した際に備えて免疫が強まることがあるからです。1933年、同様の現象が植物で確認されていました。それは、現在では”systemic acquired resistance”(全身性獲得抵抗性:植物が局所的に病原体に曝された後に起こる、植物体全体の抵抗性反応)と呼ばれています。獲得免疫の進化は5億年前に始まったばかりで、生命が地球上に誕生してから約30億年後のことです。多くの生物(植物やすべての無脊椎動物を含む)は、自然免疫しか持っていません。しかし、そうした生物の自然免疫にも一種の記憶機能があることが分かっています。それで、ウイルス等に曝露することで免疫は研ぎ澄まされていくのです。
そのような免疫の仕組みの背景には、どのようなメカニズムが働いているのでしょうか?ネテアは、感染症のウイルスがエピジェネティック(DNAの塩基配列の変化なしに起こる)な再プログラミング(epigenetic reprogramming )と呼ばれるプロセスを通じて、自然免疫細胞を変化させているのではないかと考えました。細胞がタンパク質を産生する時(自然免疫が反応する際にもタンパク質が産生されますが)、DNAの中にある特定の指令を使って行っています。しかし、ウイルス等の病原体に晒されることによって、細胞がどの指令をどの程度の頻度で実行するかということが、影響を受けることがあるのです。2012年、ネテアは、以前に行った実験でBCGワクチンが結核以外の感染症に対する免疫力を高めた背景には、エピジェネティックな変化があったことを突き止めました。ある種のシグナル伝達に関与するタンパク質の産生が増加したことで、細胞が結核を引き起こす細菌に対して自然免疫反応を始めると同時に、結核を引き起こす細菌以外の細菌や真菌やウイルスに対しても同様に反応することが確認されたのです。テネアは論文を発表しその詳細を明らかにしました。その論文には、アーベイとその同僚のクリスティン・スタベル・ベンがコメントを寄せていて、「私たちが気付いたBCGワクチン接種が他の感染症に対する免疫力を高めるという感染症学的な事象が、テネアの免疫学的な研究によって裏付けられ、仕組みが解明されました。こうしたことは非常に稀なことです。」と記していました。ネテアの研究では、獲得免疫の効果が持続するのは数日しかないようにしか見えませんでした。しかし、その研究に、アーベイらによる感染症学的な考察が加えられたことによって、獲得免疫は数ヶ月あるいは数年間も持続することが明らかになりました。ネテアは、エピジェネティックな変化が他の場所でも起こっているのではないかと推測しました。おそらく、自然免疫細胞に分裂・分化する骨髄の細胞でも起こっていると推測されます。エピジェネティックな変化は、自然免疫細胞が死滅し、再生産されても、ずっと続くものと推測されています。
2020年にマルセイユ・ルミニー免疫学研究所のサンドリーヌ・サラザン、マイケル・H・シーウェイクを中心とする多国籍研究チームが、その研究をさらに深堀りし、再プログラムがどのようにして行われるかを推論しました。体内のすべてのDNA鎖を1本に繋ぎ合わせると、その長さは、地球の赤道およそ200万周分に該当します。DNA鎖は、ヒストンと呼ばれるタンパク質に巻き付き、クロマチンと呼ばれる固く巻かれた複合体を形成して細胞核の中に収まっています。ネテアから私は聞いたのですが、クロマチン線維は、体の動きを指示する1冊の本のようなものだそうです。彼は、言いました、「通常、クロマチン線維の大部分は閉じているのですが、細胞がその指示を読んでタンパク質を産生しようとする際には、ページが開いて指示が見えるようになるのです。炎症が起きると、ヒストンの化学構造が変化して、本に栞(しおり)が挟まれます。本を閉じても、栞が残っていて、その栞には『感染症と戦う時はこのページを見ろ!』と書かれています。ですので、次に感染症と戦う時には、簡単に本を開くことができて、素早く対応できるのです。」と。訓練によって、自然免疫細胞の機能はより強化されるのです。それで、感染細胞を殺したり、シグナル伝達分子を産生したり、獲得免疫を引き起こすタンパク質の設計図をより速く、より上手に見つけることができるようになるのです。
人間の免疫力を鍛えるのは、ワクチンだけではありません。人間は、しばしば風邪やインフルエンザに感染しますし、ひどく疲れたりします。しかし、それが重症でなければ、治った時には体はより丈夫になりますし、感染症に対する免疫力も強化されることが多いようです。ネテアは、自分の子供たちが学校に通い始めた頃には、しばしば熱を出したり鼻水が出たりして、しょっちゅう風邪をひいていたと言っていました。しかし、徐々に風邪を引くことが少なくなっていったそうです。彼は言いました、「まあ、抗体が作られたというのもあるのでしょうが、自然免疫も成熟したのだと推測します。つまり、栞がたくさん付けられたのです。それで、素早くページを開いて必要な指示を見つけ出すことができるようになったのです。」と。ある種のワクチンは、対象となる感染症の感染を防ぐだけでなく、自然免疫を高めるのに役立っていることが判明しています。