実録! バイオミルク(Biomilq)社の人工母乳開発への挑戦 ー 結局、母乳と同じものは作れない?

Brave New World Dept. March 13, 2023 Issue

Biomilq and the New Science of Artificial Breast Milk
バイオミルク(Biomilq)社の 人工母乳開発への挑戦

The biotech industry takes on infant nutrition.
バイオテクノロジー産業では、乳児の栄養源の開発競争のまっ盛り

By Molly Fischer  March 6, 2023

1.

 先日、私は白衣と安全ゴーグルを身に付けて、最先端の母乳に関する研究が行われている研究室に入りました。ひげを蓄えた若いエンジニアが中を案内してくれました。いくつかのベンチが並んでいる横を抜けて大きな冷凍庫があるところまで行きました。そのエンジニアが扉を開けると霜で覆われたスチール製の引き出しが何段かあるのが見えました。彼は、青いクライオグローブ(Cryo-Gloves:オーブン用手袋をひっくり返したようなもの)をはめた手で、小瓶を取り出しました。摂氏マイナス80度を示す表示が見えました。その小瓶の底の方には、液体が凍ってアイスホッケーのパックの様な形になっているのが見えました。250ミリリットルほどの量で無色透明でした。

 私は、レイラ・ストリックランド(Leila Strickland)とミシェル・エガー(Michelle Egger)が設立した、研究室内で母乳を製造する研究をしているスタートアップ企業のバイオミルク(Biomilq)社を訪問していたのです。先ほど取り出した小瓶は部屋の暖かさで徐々に温まったのか、軋むような音を立てはじめました。それを見て、若いエンジニアは慌てて小瓶を冷凍庫に戻しました。

 その小瓶の中身は、バイオミルク(Biomilq)が入っていましいた。まあ、分かりやすくいうとミルク(milk)のようなものが入っていました。案内してくれた若いエンジニアが言ったのですが、先ほどの冷凍庫にはもっと小さな小瓶がたくさん保管されているそうです。ここまで溜め込むためには相当な努力が必要だったそうです。この冷凍されたパック状のものは、ラボで培養したヒト乳腺細胞(human mammary cells)の1系統が1週間半の間に産出する量に相当します。同社は、ヒト乳腺細胞などを用いて、生身の人間が母乳を作り出すプロセスをできるだけ忠実に再現したいと考えています。私が訪問した約3年前に当たる2020年2月にバイオミルク社は、ヒト乳腺細胞を使って、乳糖(lactose)とカゼイン(casein)の生成に成功したと発表しました。その2つは、母乳に含まれる糖とタンパク質です。「母乳で育てるということは、何ものにも代え難いメリットがあるというのが、当社の見解です。社内のほとんどの者もそう思っています。」と、食品科学者から起業家に転身したエガーは言いました。「母乳で育てられるのであれば、そうするのが一番良いのです。素晴らしいことですよね。でも、現実には、大多数の母親が母乳だけで育てることができないのです。・・・中略・・・そしてそれは、決して努力が足りないからではないのです。」

 母乳は、”Early Human Development”(人間開発を扱った学術雑誌)誌の2015年の論文に記述がある通り、エリクサー(elixir)と呼ばれることがあります。エリクサーとは、完璧な栄養を備えているという意味です。その論文では、母乳がもたらす健康上のメリットとして、喘息(asthma)、糖尿病(diabetes)、下痢(diarrhea)、耳の感染症(ear infections)、湿疹(eczema)、肥満(obesity,)、乳幼児突然死症候群(sudden infant death syndrome)の予防を挙げています。また、その論文は、母乳で育てると子供の頭をより良くするという研究結果をいくつか引用していました。しかしながら、それは立証がなかなか困難です。母乳が粉ミルク(infant formula)より優れているという科学的根拠を列挙することは簡単なことではないのです。母乳で育てることによるメリットを証明するためのデータの収集はこれまでほとんどされてきませんでした。また、そもそも構造的に統計的に有為なデータを収集することが難しいのです。例えば、母乳で育てるということは非常に時間と手間のかかるプロセスですので、それを実行できない親と実行できる親を比較することには、統計上の懸念があります(多くの研究が、母乳育児をする母親は、そうでない母親よりも学歴が高くて裕福であるため、子供に他にも多くのメリットを与えるということを示唆しています)。母乳育児のメリットの源泉がどこにあるのかということは明確には分かっていないわけですが、現実的には、母乳が乳児の栄養としては最も相応しいと広く認識され続けています。研究室でそれを作り出すということは、錬金術(alchemy)のようなものです。バイオミルク(Biomilq)社のオフィスには、「魔法を起こす(making magic)」というネオンサインがあります。それは、優雅な曲線で乳房を抽象的に表現しているオブジェの下にぶら下がっています。

 ”スキム”(skim)という表示の出ていた会議室で、私はストリックランドと会いました。2児の母親でした。上の子は天然パーマの髪の毛が短く刈られていて、下の子は片言で喋り始めていました。その部屋の壁には、写真家のソフィー・ハリス・テイラー(Sophie Harris-Taylor)が撮影した写真がたくさん飾られていました。写真はたくさんの母親を写したもので、すべて授乳中の様子を写したものでした。家庭で疲れた様子とか寛いでいる様子など、さまざまな様子が撮られていました。エガーはバイオミル(Biomilq)社の社内に飾るためたくさんの写真を購入していたのですが、これらの写真は最も初期に購入したものでした。ママ向けのブランド(mom-forward brand)を構築しようとする同社の姿勢を表現するに相応しい、素晴らしい写真です。ストリックランドが人工的な母乳の研究開発をするようになったきっかけは、自分自身が母乳で育児した経験でした。彼女は、14年前に、スタンフォード大学で細胞生物学の博士号を取得すべく研究を続けている時に妊娠しました。当時、彼女は北カリフォルニアのビーチタウンであるサンタクルーズ(Santa Cruz)近郊に住んでいました。その辺りでは、妊娠や出産や育児に関する伝統的な価値観を重視する雰囲気が漂っていました。伝統的と言えば聞こえが良いわけですが、前近代的とか懐古的と言い換えた方が正しいかもしれません。彼女が言っていたのですが、その辺りでは、「自然分娩推奨。硬膜外麻酔は使いません。神は子供を産むために母親の体を作りました。」というような宣伝をしばしば目にしたそうです。ストリックランドは、そうした価値観にそれほど違和感を抱いていたわけではありません。ですので、彼女も母乳で自分の子供を育てるつもりでした。しかし、赤ちゃんが生まれて数週間後には、その期待に疑問符がつくこととなりました。「私は、赤ちゃんのために十分な母乳を作れていないことに気づきました。あれ、何で十分な量が出ないの?と思いました」と、彼女は言いました、「神は子供を産むために私の体を作ったのではなかったのです。」

 ストリックランド以外にも母乳が十分に出なくて悩む母親は少なくないでしょう。彼女は、その悩みを自らの手で科学的に解決しようと思い立ちました。その頃、2013年のことですが、マーストリヒト大学の教授で血管生理学が専門のマーク・ポスト(Mark Psot)が、研究室で育てた牛肉でハンバーガーを作ったと発表しました。1つ作るのに約325ドルのコストがかかったのですが、その味は、ポストが言うには「そこそこおいしい」ものでした。この発表は、従来からの農産物の代替物を研究室で生産するバイオテクノロジー関連分野の細胞農業(cellular agriculture)に投資家の関心を惹きつけるきっかけとなりました。多くのスタートアップ企業が競い合うようにして、人工酵母を使って動物性タンパク質を生成したり、動物細胞を直接培養したりしていました。ストリックランドと夫は、細胞農業には非常に可能性があると感じていました。夫はソフトウェア開発者でした。2人は、研究室で細胞から母乳を作る方法が構築できたらメリットは計り知れないだろうと感じていました。数年前に、2人はノースカロライナ州に引っ越しました。そこで、ストリックランドは牛の乳房から採取した細胞と中古の実験器具類を使って実験を開始しました。2019年に2人の共通の友人がストリックランドにエガーを紹介しました。エガーは社会起業(social entrepreneurship)家の育成に力を入れているデューク大学でMBAプログラムを学んでいました。(ストリックランドと夫は現在別居中です。現在、2人の間で製品、名称、所有権、起源、技術等を巡って対立があり係争中です。夫は2人で設立した108LabsというLLC(Limited Liability Company:合同会社)の運営を続けています。彼はその会社で独自に研究を続けていて、研究室で作り出す(lab-grown)乳製品の研究開発をしています。)

 エガーはオフィスに “WAKE ME WHEN I’M CEO”(CEOは中に居るから、起こして!)と書いた看板を掲げています。エガーは、ゼネラル・ミルズ(General Mills)社でキャリアを積み、ララバー(Lärabar:ビーガンのフルーツバー)、ゴーグルト(Go-Gurt:チューブタイプのヨーグルト)、学校給食用の低糖質バルクヨーグルト(low-sugar bulk yogurt)などの製品開発に携わりました。彼女は食品科学者としての見識が十分に備わっているのですが、乳製品の研究にはそれほど興味はありませんでした。というか、むしろ避けていました。彼女は嗅覚過敏(hyperosmia)だったので、酪農品の匂いが苦手だったからです。「酪農の研究は、芸術と科学(art and science)が融合したようなものです。」と、彼女は言いました。「人工母乳をどうやって作るのかとか、そもそも作れるのかどうかも分かっていません。でも、どういったものが欲しいのかということは明確に分かっていたのです。それで、会社を設立することにしたんです。」そうして、エガーは、バイオミルク(Biomilq)社のCEOとなったのです。

 バイオミルク(Biomilq)社は、2020年にビル・ゲイツが設立した投資会社”ブレークスルー・エナジー・ベンチャーズ”(Breakthrough Energy Ventures)から350万ドルの資金を調達しました。バイオミルク(Biomilq)社が創業したのは、ちょうど新型コロナパンデミックが発生し始めた頃でした。非常に大きな影響を受けたわけで、さまざまな困難に直面しました。同社の研究室の責任者によれば、サプライチェーンが混乱して物品の調達で苦労したそうです。近隣のいくつかのスタートアップ企業と手袋やピペットなどを融通し合ったこともあるそうです。しかし、思わぬ恩恵もありました。当時、新型コロナの影響でリモートワークをしている者が多かったのですが、ストリックランドとエガーが投資家から電話をもらって話をしていると、バックにセサミストリート(Sesame Street)の音声が流れていることがしばしばありました。それで、2人は電話をしてきた相手の多くが子供のいる親であることに気づきました。そうした状況だったので、2人は人工母乳の有用性を訴求することで2021年に2,100万ドルをシリーズA資金調達ラウンド(series-A funding round:企業が最初の重要なベンチャーキャピタル出資を受ける段階)で調達できました。そして、2022年には、全米で粉ミルクが不足する状況になり、にわかに赤ちゃんの栄養補給の問題に対する関心が高まりました。期せずしてバイオミルク(Biomilq)社のような小さなスタートアップ企業が代替案を提案するチャンスが訪れたわけです。当時、人間の生命の根本的な問題をテクノロジーで解決しようとするスタートアップ企業がたくさん生み出されました。不妊や長寿をバイオテクノロジーで解決してやろうという企業が無数に現れたのです。そんな中で、乳幼児の栄養の問題もバイオテクノロジーで解決してやろうとする企業も現れたのです。