4.
アメリカで母乳による育児が重要だと言い始めたのは、コットン・メイザー(Cotton Mather:17世紀に生まれたニューイングランドの社会的、政治的に影響力のあるピューリタンの教役者)だと思われます。彼は、ピューリタンの女性たちに安穏と怠惰な暮らしをすることなく、育児に精を出すべきだと主張していました。そうすることで、母性本能が発揮され、健康で充実した生活ができると説いていました。しかし、誰が授乳するかとか、どうして母乳で授乳すべきなのかということは、時代や場所によって異なりました。その時代、その場所を支配していた常識というか社会規範によって規定されていたのです。例えば、南北戦争前の南部諸州では、黒人の女性は自分たちの赤ちゃんを犠牲にしてでも白人の赤ちゃんを育て上げるよう仕向けられていました。200年近く経った今でも、黒人女性の母乳育児率は他の人種や集団に比べると低く、健康格差の一因となっています(健康格差とは、地域や社会経済状況の違いによる集団間の健康状態の差のこと)。また、黒人女性の妊産婦死亡率も突出して高いのですが、それらはともに、奴隷制の負の影響が未だに残っていることを示しています。
オハイオ大学の名誉教授で医学史家でもあり、”Don’t Kill Your Baby”(未邦訳:赤ちゃんを殺さないで)というタイトルの著書でアメリカにおける母乳と粉ミルクの歴史について記したジャクリーン・ウルフ(Jacqueline Wolf)は、「母乳と粉ミルクに関する論争は、中絶の是非に関する論争と同様に激しいものがあります。乳幼児への授乳ほど社会的な論争を引き起こしたものは他に無いでしょう」と言いました。彼女は、それがアメリカで論争の的になったのは1870年代のことだと言います。当時、授乳問題(feeding question)として話題になったらしいのですが、全米の母親たちが母乳の出る量について懸念を抱くようになり始めました。「急激な都市化と工業化の波によってもたらされた大きな変化によって、突然、人々は機械式の時計に注意を払うようになりました。」と、彼女は言います。それまでの育児書には、乳児が空腹を感じたら授乳すれば良いと記されていました。しかし、現在の育児書には、医学的な見地からのアドバイスが記されていて、厳格なスケジュールに則って授乳することが推奨されています。まるで鉄道の時刻表のように綿密なスケジュールが組まれています。しかし、ウルフが指摘しているのですが、母乳の出る量を増やすためには、頻繁に母乳を飲ませる必要があります。特に出産後数カ月はそうです。母乳の出る量が十分ではないと心配する女性たちは、間違った知識を得て勘違いしていたわけではないのです。むしろ、当時の最新の育児書に記されていたアドバイスに従おうとして、知らず知らずのうちに不安を抱くようになったというのが事実のようです。当時、アメリカ人が母乳の出る量を心配するようになり、母乳か粉ミルクかといった論争が巻き起こるようになったのは、専門家が権威をひけらかしてアドバイスをしたことが発端なのです。それを多くの母親たちが忠実に実践しようと試みるも、アドバイスを実践してみると母乳が十分には出なくなり、母親たちは大いに悩むこととなったのです。あくまで、発端は専門家の不適切なアドバイスだったわけですが、母乳と粉ミルクの論争が巻き起こる中で、母乳が十分に出ないのは母親に問題があるとされることさえあったのです。
19世紀末に都市化が進んで、都市近郊に乳業メーカーがいくつもできたのですが、母乳が十分でない問題の1つの解決策が現れました。乳業メーカーが中産階級の一部の人々に成分を調整したミルクを提供できるようになったのです。1人の医師が乳児の便を調べ分析しました。それで、乳児の食事として相応しい正確な成分の配合を割り出しました。乳業メーカーの研究者は、原料の牛乳を調整して求められる配合を実現しました。20世紀初頭の育児では、直感や伝統よりも科学的な厳密さが重視されるようになっていました。ですので、赤ちゃんに過剰にキスすることは、良くないことだと思われるようになっていました。ましてや、乳児に母乳を授乳することさえもそう思われることがありました。しかし、母乳で育児をすることの医学的価値は高いと主張する権威もいました。1937年に”レディース・ホーム・ジャーナル”(Ladies’ Home Journal)誌は、シカゴ保健委員会(Chicago Board of Health)会長のハーマン・N・バンデセン(Herman N. Bundesen)博士が書いた「赤ちゃんは母乳で育てるべきだ」という見出しの付いた記事を掲載しました。ブンデセンは、公衆衛生上の各種統計データを引用して次のように主張していました。「生後1年で死亡する乳児10人の内、8人は母乳ではなく粉ミルクで育てられています。」
ブンデセンが母乳育児の重要性を訴えていたわけですが、しかしながら、母乳育児に関心を持つ女性への力強い後押しとなることはほとんどありませんでした。ペンシルベニア大学の医学史家であり、第2次世界大戦戦後に母乳育児の人気が復活したことについて記した著書”Back to the Breast”(未邦訳:母乳の復権)を書いたジェシカ・マルトゥッチ(Jessica Martucci)もブンデセンの主張は無視されたと指摘しています。1940年代には、ほとんどの母親は病院で出産するようになりました。そこでは、何もかもが整然とルーティン通りに進められました。授乳は授乳室で行われますし、授乳する回数と時間も定められています。母親が母乳育児をやってみようと思っていろいろと試すなどということは許されませんでした。とにかく、整然と日課をこなすことが優先されたのです。1960年代に入ると、もっと直接的に母乳育児をしたい母親のやる気をくじく事態がしばしば発生するようになりました。病院によっては産婦にホルモン剤の”ドライアップピル”(dry-up pills:母乳が出ないようにする薬剤)を投与するところもありました。
そのような状況下でしたので、母乳育児を希望する母親たちは、自分たちで解決しなければならないことも多かったのです。コロンビア大学の心理学者で、20世紀半ばに記した育児書が人気を博したナイルズ・ポーク・ルメリー・ニュートン(Niles Polk Rumely Newton)は、自分の場合は母親の手助けがあったから母乳で子どもたちを育てることができたと言っていました。しかし、公的な指導が何もないことに悩んでいたそうです。彼女は産科医の夫とともに、牛でいろんなことを試した結果を参考にして、自分自身を実験台にしてさまざまな実験を行いました。その結果、ニュートンは、乳児に乳首を吸われることに反応して乳腺が刺激されて母乳の放出が促されるプロセスにおけるホルモンの働きを解明しました。基本的に母乳を出すためには、母親はリラックスする必要があります(ニュートン夫妻は、ビールを飲んでリラックスするのも1つの手であると示唆していました)。ニュートン夫妻が1955年のレディース・ホーム・ジャーナル誌に記しています、「酪農家はミルクの出が悪くなったら直ちに損失を被ります。それで、損失が何ドル何セントになったのか、あるいは、なるのかを具に計算するわけです。だから、1セントでも損失を減らそうとしてさまざまな研究がたくさん行われています。それに比べると人間の母乳の研究はほとんど手つかずの状況であると言えます。」と。
1950年代には、シミラック(Similac)やエンファミル(Enfamil)のような市販の粉ミルクが人気を博しました。それらは、ベティ・クロッカー(Betty Crocker:ゼネラルミルズ社のブランド)のケーキミックスやチーズウィズ(Cheez Whiz:クラフト社製のチーズディップ)と並んで、生活を便利にしてちょっとした華やかさをもたらすものでした。また、当時は女性が家庭を出て社会に進出し始めた頃でしたが、粉ミルクは彼女たちを大いに助けました。ちょうどその頃、1950年からの10年間というのは、母乳育児の重要性を訴える有力な伝道者が何人も台頭してきた時期でもありました。1956年に、ラ・レーチェ・リーグ(La Leche League:母乳育児に関する擁護、教育、トレーニングをする非営利・非政府組織)なる組織が設立されました。設立したのは、シカゴ郊外に住む7人のカトリック教徒の主婦たちで、母乳育児をする母親たちが質問したりアドバイスを共有する場を作ることが目的でした。ラ・レーチェ・リーグは、急進的な時もあれば保守的なときもあるという組織で、組織の目的を実現するため実利的に巧妙に活動をしていました。一方では、女性が自分の体をコントロールすることを奨励したり、決して権力や権威にも怯まないことを奨励していました。他方では、さまざまな主張をして活動することが重要ではあるが、あくまで母親として家庭を優先して大事にすることを求めていました。母親たちからすると、この組織は非常に頼りになる組織に見えましたし、有用な情報をたくさん提供してくれるように見えました。そのため、最初の会合が行われてから20年も経たない内に、ラ・レーチェ・リーグは3,000近い支部を持つまでに成長しました。
アメリカでは母乳育児率は1970年代前半に底を打ち、1972年には母乳育児をしようとする母親はわずか22%でした。しかし、当時、既に変化が起こっていました。フェミニストたちは、働く母親に対する姿勢をめぐってラ・レーチェと対立していました。しかし、フェミニストたちもまた、医療専門家に背を向けた女性たちに力を与えようとしていました。カウンターカルチャーが流行していた影響もあるのでしょうが、自然な方法で赤ちゃんに栄養を与えることを望む世代が登場して、その世代が母親になりつつありました。当時の”セサミストリート”(Sesame Street)では、歌手であり先住民の活動家でもあったバフィー・サント=マリー(Buffy Sainte-Marie)が、ビッグバードが見守る中、乳児に母乳を与えていました。「自分の子供に母乳を与えることは、暖かくて、甘くて、自然で、いい感じがするわ。そして、授乳をする時には、私は坊やを抱きしめることができるのよ。良いでしょ?」とサント=マリーは言っていました。また、とりわけブルジョワ階級は、母乳育児に関心が高いようでした。1973年に、タイムズ(Times)誌は、”公衆の面前での授乳がトレンドになった”(Breast Feeding in Public a Growing Trend)」というタイトルの記事を掲載しました。記事中で、ある女性の意見が記されていました。「私も夫も、食事に出かけて誰かが乳房を曝け出しているのを目の当たりにするのは嫌です。一度だけ、そうした場面に遭遇してしまったことがあります。本当にうんざりです。もう十分です。あの時は、夫はびっくりしてマティーニの入ったグラスを落としそうになりました。」
一方、母乳の代替品である粉ミルクには、受難の時代が待ち受けていました。20世紀中頃には、乳業メーカーのマーケティングが奏功したこともあり、アメリカの母親たちは粉ミルクで非常に助かっていました。しかし、アメリカ以外では、乳業メーカーは苦戦していました。ネスレ(Nestlé)が粉ミルクを積極的に販売したことが、南半球で多数の乳幼児の死亡につながったという新たな報告がいくつもなされました。それらの報告では、ネスレは安全に粉ミルクを作る体制(清潔な水を確保できる等)を整えられない母親たちにも粉ミルクを売りつけたとして非難されていました。南半球のほとんどで、粉ミルクは科学のおかげでもたらされた現代の利器とはみなされなかったのです。それどころか、粉ミルクは”赤ん坊殺し”(The Baby Killer)の汚名を着せられていました(ある人気雑誌が、実際に”The Baby Killer”という語を使って非難していました)。数年にわたって、ネスレ商品のボイコット運動が世界中で展開されました。1981年に、世界保健機関(WHO)は母乳の代用品を推奨することを禁止する決議を採択しました。採決の際に反対票を投じたのは、アメリカだけでした(ネスレは現在もWHOのその決議を遵守していることを強調しています)。
20世紀の最後の数十年間も、乳児の栄養素として何がベストなのかという論争は続いていました。最初の内は、母親と医療専門家の対立の構図であったのですが、徐々に母親たち同士の対立に変わっていきました。対立していた当事者の1つはラ・レーチェ・リーグでした。ラ・レーチェがかつて作ったガイドブックでは、母親が働かざるを得ない事情があることを認めていました。しかし、あくまでラ・レーチェは「赤ちゃんにはあなたが必要、あなたには赤ちゃんが必要(your baby needs you and you need your baby)」という基本的な信念は捨てていませんでした。さて、対立していた当事者のもう1つは、育児以外のことも重視する母親たちでした。彼女たちは、家庭の外に出て活躍して自己実現したり、家計を支えるためにお金を稼ぐことも重要だと考えていました。時代とともに懸命に子育てする母親のイメージも変わったのかもしれません。今や理想の母親として、綺麗な専業主婦をイメージする人は少なくなっています。多くの人がイメージするのは、2009年に公開された映画“Away We Go”(邦題:お家をさがそう)でマギー・ジレンホール(Maggie Gyllenhaal)が演じたような人物です。その人物は、気取り屋のヒッピーの教授でした。母乳で自分の子を育て、ベビーカーを使うのを拒んでいました(理由は、ベビーカーに子供を乗せると胸に抱くことができないから)。働く母親が母乳で育てられない場合には、妥協して粉ミルクを使えば良いし、搾乳ポンプを使うのも良いかもしれません。搾乳ポンプは、1990年代に広く普及し始め、アメリカでは重宝がられています。しかし、なぜか他の国では普及していません。
米国小児科学会(American Academy of Pediatrics)を始めとして多くの医療・公衆衛生関連の団体は、母乳の価値を支持し続け、母乳育児をする者の比率を高めるとして野心的な目標を提案し始めました。では、そうした目標を達成するために母親たちに何か支援が行われているでしょうか?全く何の支援もない状態です。ウィスコンシン大学教授の臨床医で母乳育児の専門家でもあるアン・エグラッシュ(Anne Eglash)は、1人の母親の例を教えてくれました。乳首の痛みに悩む母乳育児中の母親の話でした。何度も小児科医と産婦人科医の間でたらい回しにされて、何の答えも得られなかったそうです。1980年代には、授乳ンサルタントという専門職が誕生しましたが、授乳で悩む母親への支援が不足している状況が完全に無くなったわけではありません。政府の政策が母乳育児をする者の比率を押し下げた可能性もあります。福祉改革がなされたことによって、出産後の母親が仕事に復帰する時期が以前より早まりました。そんな御時世ですので、母乳育児をする者の比率は著しく低下しました。
近年、母乳育児を推奨するような宣伝が多くなっていて、それを見た消費者に影響を与えようとしているようです。2004年には、保健福祉省(Department of Health and Human Services)と広告評議会(Ad Council)が共同でキャンペーンを行って、妊婦が乗馬マシン(mechanical bull)にまたがっているシーンがあるCMがオンエアされました。妊婦が激しく揺れる乗馬マシンから振り落とされるのですが、「赤ちゃんがお腹の中にいる時に危険な行動は慎むべきです。」という音声が被せられています。続いて「赤ちゃんが生まれた後も危険な行動を慎むべきです。生後6カ月間は母乳だけで育てましょう。」という音声が流れます。粉ミルクメーカーの業界団体は、そのCMがオンエアされる前にこのキャンペーンに反対する書簡を送り付けました。とんでもない内容であり、CMの内容は政府が母親に罪悪感を与えるものであると訴えていました。母乳育児を推奨したがる者と粉ミルクの便利さを享受したい母親たちは激しく対立していたわけですが、実際には明らかに粉ミルク業界と粉ミルクを信奉する者たちが圧倒的に優勢でした。オーガニックの粉ミルクを製造するスタートアップ企業ボビー(Bobbie)社が出した最近の広告には「アメリカでは、75%弱の母親が、生後6カ月間に粉ミルクに頼っています。それなのに、どうして粉ミルクを使うことを恥じなければならないの?」と、書かれています。2018年にトランプ政権は母乳育児を奨励する国連決議に反対しました。これは、粉ミルク業界への配慮と見られる動きでした。保健福祉省の幹部の1人が言ったのは、決して業界に配慮したわけではなく、母乳育児を誰しもができるわけではなく、できない母親に汚名を着せられないようにしたいだけということでした。しかし、やはり、まだ世間には母乳育児をしないと罪悪感や羞恥心を感じなければならないような雰囲気が僅かながらも残っているというのが現実です。ペンシルベニア大学の医学史家マルトゥッチは主張しました、「母性という概念は非常に神聖なものと受け取られています。それで、母親と乳児の絆を深めるべく母乳育児をすべきであるという考えが普及しました。母親が乳児を育てる際には、母乳で育てるか否かということ以外にも、たくさん選択しなければならないことがあるわけですし、それぞれに議論があって然るべきです。しかし、なぜか母乳育児のことだけが論争の的となっています。そのために母親だけが重荷を背負わされているのです。」と。
バイオミルク(Biomilq)社の製品を使っているのは、保健福祉省等が流した母乳育児をしないと乳児が危険に晒されるというCMを根拠が無いものと認識している母親です。彼女たちは、生後6カ月に多くの母親が粉ミルクを使っているとする統計を見ていささかほっとしているに違いありません。彼女たちの多くが、経済学者のエミリー・オスター(Emily Oster)が書いた育児書を読んでいます。その育児書では、妊娠と育児に関してデータに基づいた分析と提案がなされています。巷の多くの育児書が母乳育児を推奨しているのとは一線を画しています。オスターは子育てに関して一部では教祖的な人気となっています。彼女は異例の数の研究を参考としています。ちなみに、その育児書には「魔法の母乳の国から現実に戻ることから始めましょう。」という書き出しで始まる章もあります。その育児書では、子供の能力を伸ばすことに主眼をおいています。子供を成功に導くべきであるという信念が語られていて、定量化可能な基準も記されています。ところで、育児に関してはいろんな基準があるわけですが、近年、いくつかのものが以前とは変わりつつあります。AAP(アメリカ小児科学会)は、昨年夏に母乳育児に関する基準を変更していました。6カ月間推奨するとしていたものが、2年間以上に変更されました。
バイオミルク(Biomilq)社は、変更されてより厳しくなった基準を満たすことができない母親たちを支援したいと願っています。バイオミルク(Biomilq)社のホームページには、「母乳を与えることに罪悪感を感じるのはもうたくさんです。」と書かれています。その表現の根底にあるのは、初めて子供が生まれて不安だらけの母親たちをサポートしていきたいという決意です。「世の中には、2つの派閥があります。”母乳が一番”派と、”ミルクが一番”派の2つです。」と、エガーは言います。「多くの母親がどちらの派閥を選ぶべきなのか悩んでいます。」バイオミルク(Biomilq)社は、そうした二者択一の状態から脱する代替案を提案しています。テクノロジーを駆使して第三の選択肢を提供しています。母乳であり粉ミルクであるもので育児するという中道的な政策(Third Way politics)です。