実録! バイオミルク(Biomilq)社の人工母乳開発への挑戦 ー 結局、母乳と同じものは作れない?

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 バイオミルク(Biomilq)社は、研究室内で母乳の栄養素を生成することを目指していますが、いくつか競合企業が存在しています。その1つであるヘライナ(Helaina)社の本社に着いた時、私は母乳保存袋210枚を入れたトートバッグを手にしていました。気前の良い1人の同僚から譲り受けたものでした。私を中に案内しながら、「母乳保存袋は保険適用で入手できるんですよ。」と、ヘライナ(Helaina)社の創設者のローラ・カッツ(Laura Katz)は言いました。「そんなに安くはならないけど、助かるわよね。」

 カッツは、本社をマンハッタンのフラットアイアン地区(Flatiron district)にある現在の場所に移した1カ月後の昨年7月に長男を出産しました。私が彼女と会った時、彼女は子供が生まれる前にいろいろと準備したことなどを話してくれました。彼女は最近、自分が気に入ったベビー用品のデータベースを作っているのだと教えてくれました。私は、Googleのスプレッドシートのファイルを共有してもらったのですが、さまざまなおむつ用ゴミ箱の長所と短所が詳細に説明してありました。私がそれを見て思ったのは。十分な調査研究と準備をすれば、乳児の育児に関することは全て正しく理解することができるかもしれないということでした。そう信じたいと思いました。

 食品科学者であるカッツは、自分の息子を母乳で育てることを選びました。授乳クッションを使ったり、出張先では搾乳器を使ったりしています。しかし、会社の目標は、あくまで粉ミルクを使う親に奉仕することです。2019年に設立されたヘライナ(Helaina)社は、酵母菌の菌株を遺伝子工学を適用して改良しています。それで、発酵する際に人間の母乳に含まれるタンパク質を生成するようにしました。そうして生成されるタンパク質とそれに付着する微小な糖が、乳児の免疫システムを発達させることも期待できます。それらが、乳児の有益な腸内細菌の餌となる可能性があるからです。オフィスの中央には、何人もの白衣を着た研究者が働いているメインの研究室があります。その壁はすべて透明なガラスです。その近くの部屋では、パンとクロロックスの(Clorox:漂白剤)のような香りが漏れていましたが、酵母菌の菌株がフラスコの中でタンパク質と混ぜられていました。フラスコの中身は、泡の多い発酵したような液体に見えました。その液体が次の工程で精製されて純度が高められ、噴霧乾燥(スプレードライ)して粉末状にされます。カッツが言うには、同社はすでに商業規模での生産が可能なのだそうです。ヘライナ社が製造を委託しているパートナー企業が運営する施設では、非常に大きなザイズの機械の中で噴霧乾燥作業が行われています。大穀物倉庫(grain elevator)1個分の大きさだそうです。その日の午後、そこで生み出された最終製品のサンプルがメインの研究室内に置かれていました。深さ1メートルほどの容器に入れられた粉ミルクがカッツに試食されるのを待っていました。

 ヘライナ(Helaina)社が行っているのは精密発酵(precision fermentation:バクテリアや酵母などの微生物宿主を培養して、特定の生体分子を生産させること)という工程なのですが、インスリンやレンネット(rennet:チーズを作るための酵素)の製造工程と同じでした。あちこちで研究されており、既にプロセスも深く解明されており、多くの既知の理論を活用することができました。そのおかげでヘライナ(Helaina)社は、バイオミルク(Biomilq)社に数歩先んずることができました。しかし、政府の承認を得るためには、両社とも非常に手間のかかるプロセスを経なければなりません。食品の安全性と規制について企業にアドバイスするコンサルタント会社フードウィット(Foodwit)社の創設者であるベッキー・ホームズ(Becki Holmes)は、乳児の完全栄養補給を目的とした製品(要するに粉ミルク)は、他の食品よりも多くのハードルをクリアしなければならないと言います。とりわけ、新製品となると、臨床試験を実施することが必須となります。何百人もの乳児を募って参加させることが必要となることもあります。「いずれにしても非常に膨大な費用がかかります。」と、ホームズは言いました。「斬新なテクノロジーを武器とする新進気鋭のスタートアップ企業の多くは、既存の巨大企業に挑もうとか自らが巨大企業になろうとするわけですが、大体はここで躓いて躊躇することとなります。バイオミルク(Biomilq)社がやろうとしていることは、最新のバイオテクノロジーを駆使し、資本力を必要とし、巨額の投資を必要とするタイプのイノベーションです。成果を刈り取れるのは、まだ何年も先のことでしょう。」

 カッツとエガーが同じことを言っていたのですが、承認プロセスは2段階あるそうです。まず最初に、規制が2社のより緩い分野の製品が承認されると思います。その後に、2社はより規制の厳しい乳児用栄養製品の承認を目指すこととなるでしょう。ヘライナ(Helaina)社は、自社が生成したプロテインのパウダーをシリアルバーや飲料に入れて、提携先企業のブランドを使って販売することを望んでいます。一方、バイオミルク(Biomilq)社は、サプリメントや幼児用食品の販売を検討しており、2025年に発売する予定です。同社の幼児用栄養製品(粉ミルク)について、エガーは2028年の発売を目標にしていると言っていました。しかし、この見通しは、その頃には商業ベースの生産ができるようになるだろうという科学的な見地からの予測に基づいています。同時に、その頃まで発売できないとビジネス的に問題があるという事情が反映したものでもあります。エガーは言いました、「2020年の時点でバイオミルク(biomilq)社に投資した投資家は、おそらく製品が市場に出回るのは5〜7年後になると予想しているでしょう。25年後も待つつもりはないはずです。」と。

 「粉ミルク業界では、開発競争が繰り広げられており、息つく間もない状況が続いています。」と、ベンチャーキャピタル企業SOSVの幹部で、ライフサイエンスに特化したスタートアップ企業を支援する企業のインディーバイオ(IndieBio)社の管理担当責任者のポー・ブロンソン(Po Bronson)は教えてくれました。ストリックランドは2019年に(インディーバイオ(IndieBio)社と短期契約を締結しました。それ以来、ブロンソンはこの分野に(まだ投資はしていませんが)関心を持ち続けています。「この分野に携わる人は誰もが知っていると思うのですが、この分野は本当に競争が激しく、まだまだやるべきことや、詰めなければいけないことが沢山あるのです。」と、彼は言いました。彼は、世界全体で中所得者層が増加することで、この業界に利益がもたらされるようになる可能性があると見ています。彼は「潜在的な需要は大きい。」と言います。価格がもっと下がれば需要は爆発するでしょう。この分野には、シンガポールのスタートアップ企業タートルツリー(TurtleTree)社と、最近Biomilkからウィルク(Wilk)社に社名を変更したイスラエル企業も参入しています。

 乳幼児用粉ミルクの市場は新規参入者を惹きつけてやまないわけですが、それはちっとも不思議なことではありません。世界規模で見ると、市場規模が300億ドルを超えるからです。しかし、バイオミルク(Biomilq)社のように自らを「社会的企業(social enterprise:社会問題の解決を目的として収益事業に取り組む事業体)と位置づけている企業にとって、成功の定義は簡単には言い表せません。エガーが私に言ったのですが、彼女は同社の成功は投資した資金に見合った影響を社会に与えることだと考えています。社会的利益を優先しすぎると非営利組織となってしまうし、ビジネスとして利益を優先しすぎると、普通の一般的な営利企業と何ら違わなくなってしまいます。

 人間の母乳の流通は伝統的に非営利組織である母乳バンク(milk banks)が行ってきましたが、最近この取引に民間企業を参入させようとする試みが論争を巻き起こしています。2014年に保存可能な人乳を販売するメドラック(Medolac)社という企業がデトロイトの黒人が多く住む地区で母乳バンクを運営すると発表しました。しかし、この計画は頓挫しました。というのは、地域団体や活動家たちから反発を受けてちょっとした騒動となったからです。問題となったのは、同社の買取価格が他と比較すると低かったことです。それが、黒人に対する差別を助長するものであるとして指弾されていました。(なお、当時、同社は買取価格は適正であり、このプログラムで利益は全く出ないと反論していました)。バイオミルク(Biomilq)社は、この騒動を見て傍観しているだけでなく、認識を新たにする機会と捉えました。エガーが教えてくれたのですが、同社は従業員に粉ミルク業界が過去に人種的不公平を助長した事実を記録したアンドレア・フリーマン(Andrea Freeman)の著書”Skimmed”(未邦訳)を読むように奨励していました。また、バイオミルク(Biomilq)社は自社のことを「女性が経営する(women-owned)」とか「母親重視(mother-centered)」と謳っています。また、「粉ミルクは子を持つシスジェンダーの母親のためだけのものではない。」とも謳っています(シスジェンダー(Cisgender)とは、性自認(自分の性をどのように認識するか)と生まれ持った性別が一致している人のこと)。同社は、あらゆる局面で環境負荷を減らすことを重視しています。乳児に与える粉ミルクの原料として牛乳を使わないようにすることで、使用する資源や排出物の多い産業が環境に与える影響を理論的には緩和することができます。(ちなみにビル・ゲイツが設立した投資会社”ブレークスルー・エナジー・ベンチャーズ”(Breakthrough Energy Ventures)は、気候変動に対処しようとする多くの企業を支援しています。)

 もう1つ問題があります。それは、人工的に生成した母乳を買いたいと思う人が多いか否かということです。カリフォルニア大学デービス校の名誉教授で栄養学が専門のボー・レナーダル(Bo Lönnerdal)が私に教えてくれたのが、既に1990年代に彼の研究室ではヘライナ(Helaina)社が作っているようなタンパク質を作れていたそうです。ヘライナ社と異なる点は、酵母菌ではなく米を使っていたことです。彼がよく覚えているのは、多くの粉ミルクメーカーが接触してきたことで、各社がそのタンパク質に非常に興味を持っていました。しかし、当時はGMO (Genetically Modified Organism:遺伝子組換え作物)に対する警戒心が高まっていました。それで、マーケティングの観点から商品化してもビジネス的な成功の見込みは無いと判断されてしまったのです。しかし、近年では、母乳に対する好意的な報道が増えています。道徳的な視点や宗教的な視点によるものではなく、科学的な視点で母乳の良さを伝える報道が増えています。しかし、それでも、巷には母乳で育てることが育児においてはもっと重要であるという盲信が根強く残っているため、バイオテクノロジーを駆使して生成された母乳には、疑問符を投げかける者も少なからずいます。バイオミルク(Biomilq)社は消費者に同社が生成した母乳への理解を深めてもらおうと、啓蒙教育を行いました。多くの母親から10時間以上も話を聞いたりしました。エガーが私に言ったのですが、多くの母親が懸念を抱いていることに驚かされたそうです。生成された母乳の安全性については特に心配していなかったそうです。では、何を心配していたかというと、バイオミルク(Biomilq)社が供給能力を増やせるか否かという点でした。何とかしてそれができなければ、多くの母親が使うことはできません。♦

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