2.ライティングツール”iA Writer”(2010年リリース)は結構使えた
書くためのアプリやツール等は、物書きが使うことを前提として設計されることはほとんどありません。大昔に楔形文字が発明されたわけですが、それは詩や小説を書くためではなく、計算のためのものでした。それから数千年後にタイプライターが発明されたのですが、主に事務作業で使われました。そうは言っても、タイプライター等の発明は数々の文学作品に影響を与えました。フリードリヒ・ニーチェは、半球形のタイプライターを使っていました。しかし、非常に苦戦していたようで、「この半球形のタイプライターは鉄で出来ていて堅牢に見えるが、旅先に持ち出すと直ぐに調子が悪くなる。」と述べていました。その後、ワープロが発明されましたが、それによって物書きの仕事の効率が上がったようには思えません。マシュー・キルシェンバウムは2016年の著書「Track Changes(本邦未発売)」でワープロの発明について論じているのですが、世界で初めて発売された消費者向けのワープロソフトは、文字を書く際の不便な点を排除できると謳っていました。それによって、ハサミを使っての切り貼り作業、タイプミスを修正するための打ち直し作業をしなくて済むようになることがメリットでした。1970年代後半から80年代中頃まではタイプライターは非常に広く使われました。実際、80年代にはビジネス文書はタイプライターで起こすというのが標準になっていました。しかし、それもパソコンが普及し始めるようになると変わりました。その変遷をドラマチックに表現しているスティーブン・キングの小説があるとキルシェンバウムは指摘しています。キングの1977年の小説”The Shining”(シャイニング)では、主人公の殺人事件を起こす物書きは、タイプライターとの格闘のせいで気が狂っていました。また、1983年の小説“Word Processor of the Gods”(神々のワード・プロセッサ)も物書きが主人公で、書いたことが実現するという不思議なワープロを手にした物書きが、ビンゴ中毒の妻を抹殺しようとします。
ワープロを使うとイライラさせられて気が狂うという迷信は、やがて下火になっていきました。1990年代前半には、米国ではワープロソフトの激しいシェア争いがあったのですが、マイクロソフト社の”Word”が”WordStar”や”WordPerfect”を駆逐し90%の市場シェアを獲得しました。その頃には、ワープロソフトはなくてはならないものになりました。キルシェンバウムが記しているのですが、マイクロソフト社の”Word”は「デジタル時代の鉛筆の代替品として完全に定着した」のです。その後、”Google Docs”が”Word”の牙城を崩そうと挑戦し続けていますが、”Word”が市場をほぼ独占している状況は変わっていません。最近では、執筆、修正、レイアウトの調整を1つのプログラムで行うだけでなく、その気になれば、ブラウザから離れることなく、情報収集からメールの受信状況の確認までを行うことができるようです(ライティングアプリの”Medium”を使えば、情報発信だけでなく、そうしたことが可能です)。
私は集中して執筆するために、スイスと日本の企業による合弁企業のInformation Architects社が開発した必要最小限の機能のみを搭載したワープロアプリ”iA Writer”を試しに使ってみました。それは、集中して書くことができるテキストエディタです。私は2014年にそれを購入しました。ちょうど、大学で卒論研究を始めた頃でした。完璧と言って良いほどきれいな手書きの文字を書くカリスマ的な大学院生の指導を受けていたのですが、推敲に時間をかけすぎていると注意されたことがきっかけで購入したのです。彼は、毎日、書き始める際には前日に書いた部分を見ずに書き進めるべきだと指導してくれました。しかし、私はその指導に素直に従うことができませんでした。どうしても、前の日までに書いた部分が気になってしまって、見直さずにはいられなかったのです。
”iA Writer”の最大の特徴は、多機能でないことでした。そのアプリでは、基本的に用紙は白い長方形しか選べませんでした。また、文字のフォントも1種類しかありません。ヘッダーもフッターもありませんし、描画ツールもありません。操作が分からず困った時にチャットボット機能でヘルプの吹き出しが現れるような機能もありません。インターフェースも非常にシンプルで、Markdown記法が採用されていました。それは、テキストを構造的に記述する「マークアップ言語」の一つで、 特定の記号を使って、段落や見出し、装飾などを自動的に表示できます。 内容と構造を分けて扱えばいいので、見出しや本文、箇条書きといったレイアウトを気にせず、素早く文章を入力していくことができました。
”iA Writer”アプリの最大の特徴は「フォーカスモード」と呼ばれるモードを選択できる点です。友人にこの機能を説明した時には、馬鹿げた機能で、臆病な競走馬にブリンカー(馬の視野を制限するための馬具)を着けさせるようなものだと言われました。しかし、私はそのアプリをインストールしたところ、直ぐに効果を実感できました。それで、直ぐに、多くの人にこのアプリの機能を伝える伝道者になりたいと思いました。何かを執筆している時には、もっと書かなければならないとか、削除しなくてはならないとか、修正しなくてはならないとか、構成を見直さないといけないとか、いろいろと不安な気持ちになるものなのですが、このアプリでは、画面に表示されている文章以外は何も表示されないので、そこだけに集中して考えることができます。スマホにそのアプリを入れると、クラウド上でファイルを同期することになるのですが、風呂場でも、混雑した地下鉄車両内でも、執筆することに集中することが可能です。小さな書斎をポケットに忍ばせているのと実質的に同じ状態になります。非常に機能的です。また、心理的にもメリットがあります。”iA Writer”は、非常にシンプルで余分な情報が視野内に入って来ないので、気が散ってしまうことがなくなるのです。その結果、執筆という行為に集中できるのです。