ドイツの脱石炭の取り組みは成功するのか?環境先進国と思われるドイツの脱石炭の取り組みは苦境に陥っている!

2.かつてドイツは石炭から大きな恩恵を受けていた

 「神がルザティアを創り、悪魔がその下に褐炭を埋めた。」という言い伝えが、6世紀からこの地域に住んでいたスラブ系民族のソルブ族には残っています。かつて、そのあたりは湿地帯ばかりで、経済的な繁栄とは無縁でした。南端のゲルリッツとバウツェンだけが例外で、中欧の東西交易の要衝として栄えてきました。

 18世紀末に褐炭が発見されると、すべてが一変しました。褐炭(亜鉱)も瀝青炭も同じ堆積岩なのですが、褐炭は一般的には瀝青炭よりも圧縮強度が弱くなっています。褐炭は、地質学的な分析では泥炭に近く、固くありません。また、燃焼させた場合には、瀝青炭よりも環境負荷が高く、より多くの炭素を排出します。

 褐炭は瀝青炭に比べて地表近くに存在しているため、採掘のために深い坑道やトンネルを掘る必要がありません。そのため、褐炭層の上にある粘土や砂を掘り起こして採掘するオープンキャスト方式(露天掘り方式)が採用されます。オープンキャスト方式は、地下深くに作業員を送り込む必要がないので安全です。しかし、褐炭層の上の邪魔となるものをすべて取り除かなければなりません。中欧では人々が密集して暮らしていましたので、褐炭を採掘するためには村ごと取り壊す必要がありました。ドイツで褐炭炭鉱が開発された際には、何百ものコミュニティが破壊されました。炭鉱が掘り尽くされると、水を張って湖を作ったり、土を埋め戻して平地にします。その結果、農地として利用できなくなることも多く、場合によっては地盤が緩くて歩けなくなることもあります。ドイツでは、田舎の森に行くと、「立入禁止」の看板が点在していることが多々あります。

 1900年頃にルザティアで石炭の露天掘りが始まり、その後数十年間続けられました。その際に破壊の対象となった村がいくつもあったのですが、ソルブ人の住んでいる村が多かったそうです。石炭炭鉱は膨大な雇用を生み出しましたので、ドイツ人を中心とした大量の労働者がこの地域に流入しました。それで、この地域に初めて繁栄がもたらされました。ルザティアは、家庭で暖房用に使われる練炭や、ベルリンの街灯やケムニッツやドレスデンの工場の動力源となる燃料炭などを産出していました。ドイツ語で鉱夫を意味する単語には、高貴な響きがあります。それは、”Bergmann”です。直訳すると、”mountain man”(山男)です。

 褐炭はドイツの西部、ケルン近郊でも産出されます。しかし、すぐ北にあるルール地方に広大な瀝青炭を産出する炭鉱が重要視されたことで、長い間あまり注目されてきませんでした。ケルン近郊の炭鉱のおかげで、その地域一帯には沢山の石炭火力発電所が作られ、エッセン、ドルトムントなどの巨大工業都市がいくつも生まれました。その地域の瀝青炭のおかげで、ドイツは19世紀末に建国することができたのですし、2度の大戦を戦い抜くことができたのですし、1950年代に西ドイツが奇跡的な復興を果たすことができたのです。しかし、その後、その地域の瀝青炭は、国外から輸入される瀝青炭との価格競争で苦境に陥りました。2018年には、ドイツにおける瀝青炭の採掘の歴史は幕を閉じました。

 旧東ドイツの石炭産地では、ルザティア地方とそれに次ぐ規模の産出量を誇ったライプチヒ近郊ですが、雇用状況が急激に悪化しています。どちらにおいても、文化的にも経済的にも石炭の影響が根強く残っています。石油も瀝青炭もほとんど産出されない旧東ドイツでは、褐炭は唯一の主要なエネルギー源でした。そのため、第二次世界大戦後も数十年間に渡って東ドイツは数多くの露天掘りの炭鉱を開き、多くの村が破壊されました。そして、破壊された村から移転してくる者が沢山いたことと炭鉱労働者が大量に流入してきたことで、大きな都市ができて、そこに高層アパートがいくつも建設されました。東ドイツでは、炭鉱労働者には優先的に年金が支給されました。そうすることで東ドイツの指導者層が標榜していた「労働者と農夫にとっての理想の国家」を体言しようとしていたのでしょう。「炭鉱労働者であることに意味があったんです。」と、引退した掘削機オペレーターのモニカ・ミエルシュは私に言いました。また、コトブスに住む元電気技師は、幼い頃に教師から「この小さな国が、世界のどの国よりも多くの褐炭を産出している。」と、散々聞かされたそうです。ルザティア地方のヴァイスヴァッサーで育った環境保護活動家のクリスチャン・ホフマンは言いました、「昔は、炭鉱夫の歌として有名な”Steigerlied”(シュタイガーリート )が演奏されると、大いに盛り上がったもんですよ!」と。

 石炭産業は、地域の生活に根付いています。コトブスのサッカーチームの名前は”Energie”(エネルジー)です。先日、コトブスの美術館では褐炭炭鉱の回顧展が開催され、その地方の多くの芸術家が炭鉱をモチーフにした絵を描きました。東ドイツで最も有名なシンガーソングライターは、ホイエルスヴェルダ出身の掘削技師ゲルハルト・グンダーマン(東ドイツのボブ・ディラン)でした。彼は、歌手として成功した後も炭鉱で露天掘りをし続けました。

 ルザティアを初めて訪ねてみて私が思ったのは、現在も100万人強の人口を抱えるこの地方で、どこに居ても石炭産業の影響が色濃く感じられるということでした。会った人のほとんどが、石炭産業で働いているか、炭鉱開発のために村を破壊された人か、またはその両方でした。両方に該当する者が沢山いたことが、炭鉱開発で村が破壊されたことに批判的な人が少ない理由だと推測されます。そのことは、石炭産業が地域に発展をもたらしたことと、それに伴う環境破壊がトレードオフの関係であることを如実に示しています。「誰もが村が破壊されることに納得してしまうんです。それで、仕事が生まれ、世の中が発展するのなら、我慢するしか無いと考えてしまうんです。」と、ウェルツォウ町議会議員のハネロア・ヴォトケは、私に会った時に言っていました。それは2年前のことで、場所はプロシム村でした。彼女は、プロシム村がウェルツォーウ・スード炭鉱の拡張計画で破壊されそうになっていたのですが、反対運動を支援していました。結局、拡張計画は白紙となりました。彼女は言いました、「石炭のおかげで、人々は裕福になりました。この地方は石炭から非常に大きな恩恵を受けてきたのです。」と。