ドイツの脱石炭の取り組みは成功するのか?環境先進国と思われるドイツの脱石炭の取り組みは苦境に陥っている!

6.ドイツの炭鉱は露天掘りであるため、開発の際には集落全部が破壊される

 ドイツで脱石炭に賛成する者の多くは、石炭産業が衰退して他に移住することを余儀なくされる人がいることは仕方がないことだと考えているようです。というのは、石炭産業は何十年にも渡って、炭鉱を開く度に、地域の環境を破壊して住民を立ち退かせてきたからです。米国と違って、ドイツで炭鉱が開発される際には、村が丸ごと破壊されて無くなってしまうことが多かったのです。また、ドイツでは先祖代々の土地に住み続けるという文化が根付いていましたので、炭鉱開発で立ち退きを余儀なくされるということは、そこに住んでいた人にとっては大きな苦痛だったのです。米国のアパラチアの炭鉱では、山頂から露天掘りされて山体が変わってしまったり、泥漿が漏出して甚大な環境破壊が引き起こされましたが、ドイツのように町全体が地図上から消し去られるようなことはありませんでした。

 私は、選挙が終わった翌週に、ドイツ西部に位置し褐炭の炭鉱が多いライン川流域に行きました。その地域では、石炭の採掘を止めるべきであると主張する環境保護活動家の活動が盛んでした。彼らは、過去にハンバッハの森で、褐炭露天掘り用地に存在している原生林の伐採を中止させることに成功したことがありました。現在は、リュッツェラートという小さな集落に新たな野営地を構え、ガルツヴァイラー褐炭炭鉱を封鎖させるべく活動を展開していました。リュッツェラートという小さな集落の一部は、既にRWE社(エル・ヴェー・エー社:ドイツ最大の電力・エネルギー会社)によって取り壊されていました。リュッツェラートで暮らす村人は56歳の農夫1人でした。彼は、RWE社と裁判で係争中で、100人以上の環境保護活動家を所有地に迎えて野営地として使わせていました。RWE社の広報担当者は私に言いました、「今後も地主と円満な解決を図っていく。」と。また、RWE社は、炭鉱開発の影響を受ける人々と密接に協力し、必要な補償も行っており、真摯に対応していると付け加えました。

 10月1日にRWE社はリュッツェラートの森の伐採を許可されました。その日、私は、エルケレンツから収穫の終わったサトウキビ畑の中を自転車で走ってリュッツェラートまで行きました。現地では、野営していた者たちに新たに数十人の賛同者が加わって抗議活動を展開していました。抗議をする側と会社側が対峙していました。集落の周りには木々が残っていて、その木々には、活動家が上っていたり、脱石炭を訴えるバナーが張られていました。その木々に沿うように抗議活動をする者たちが、一列になってシュプレヒコールをしていました。彼らの傍らには巨大な穴がありました。すぐそこで、巨大な掘削機が轟音を響かせながら露天掘りしているのが見えました。「リュッツェラート炭鉱を閉山しなければ、気温上昇を1.5度以内に抑えることは不可能だ!1.5度以内に抑えることは必須で交渉の余地はない。リュッツェーラトの森を死守するぞ!」と、パウリン・ブリュンガーは主張していました。彼は”Fridays for Future”(未来のための金曜日:政策立案者に気候変動対策を求める活動を行っている)の活動家でした。

 私は、活動家たちが野営しているあたりまで行きました。そこでは、活動家たちがパレットを壊して小屋を建てたり、ツリーハウスを建てたりしていた。また、新しくやってきた人たちに対して抗議活動の説明をしたりしていました。多くの者は身元を隠すために目出し帽を被っていました。それを被っていない者は、マスクを着用していました。私が写真を撮っていると、若い女性が寄って来て止めさせられました。

 その時、突然、多くの者が野営地の入り口あたりで叫び声を上げました。2台の掘削機が集落に近づいていたのです。20人ほどの活動家が道路に並んで、2台を阻止しました。運転手の1人が降りてきて、自分たちは炭鉱を埋め戻して平地にする作業をしているだけで、週末の休みのために機材を停めに来ただけだと言っていました。しかし、活動家たちは掘削機を通過させませんでした。運転手は怒鳴って、「そこで、ずっと座ってな!」と、言いながら引き返しました。

 その直後、反対側から2台の巨大なトラックが近づいてきました。荷台には、コンクリートブロックと金属製のフェンスが積まれていました。活動家たちが集まっている中心で止まりました。それらのトラックは、活動家の侵入を阻止する防護壁を作る資材を運んでいたのですが、道を間違えて活動家の野営地に辿り着いてしまったのです。活動家たちは、荷台に飛び乗って、ブロックとフェンスを降ろして自分たちを守るためのバリケードを構築しました。それで集落へ通じる道路の1つを封鎖しました。運転手たちは、多勢に無勢で抵抗することもできず、運転席に座って成り行きを見守ることしかできませんでした。しばらくして、数人の警察官が到着しました。活動家たちは警察官の説得に応じて、資材は返却され、トラックも走り去りました。

 その付近の5つの大きな村もRWE社による破壊の脅威にさらされていました。ほとんどの住民は、既に家をRWE社に売却して、引っ越していました。その多くは、エルケレンツ市郊外に立ち退き者用に新たに開発された住宅地に移り住みました。新たな住宅地は、かつて住んでいた地にちなんで、”Kuckum-Neu”(クックム・ノウ)、” Keyenberg-Neu”(キーエンベルク・ノウ)などと名付けられていました(訳者注:”Neu”は英語の”New”)。21歳のティナ・ドレセンとその家族は、現在もクックムに残って暮らしています。彼女は、ツヴァイラー炭鉱のために沢山の人が移転を余儀なくされたのを見ながら育ったと言っていました。付近の村は、ブルドーザーによって次々と無くなってしまったそうです。彼女は言いました、「私の家の右側には大きな穴が開いていました。褐炭が露天掘りされていました。そこに住んでいた人たちは追い出されたのです。私の家の右側にあった村は無くなってしまったんです。」と。

 彼女は、クックムで空き家となっていた住宅を、先日の洪水で家を失った人たちが使っていることを教えてくれました。皮肉なことなのですが、気候変動によって引き起こされた災害によって家を失った人たちが、気候変動の原因である炭鉱のために立ち退かされた空き家に住んでいるのです

 その日の夕方、私は自転車でクックムに行って、一時的に避難している家族に会いました。アンニャ・カッセンペッハーは、アールヴァイラーの町にあった木造住宅が洪水で倒壊したため、息子1人を連れてこの村に移ってきたそうです。猫4匹と犬2匹も連れてきました。彼女は言いました、「洪水は自然現象ですから、防ぎようがありません。運が悪かったと思うしかありません。でも、ここで起きている炭鉱関連の自然破壊は防げると思います。」と。