燃料は水素(重水素と三重水素)だけ!原子力発電と異なり核廃棄物も出ない!核融合発電の実用化はまだ?

3.核融合発電の魅力

 太陽では核融合が行われています。他の恒星でも行われています。しかし、無限のエネルギーを持っているような恒星が水素からヘリウムへの核融合反応によってエネルギーを得ていることを人類が認識したのは、わずか1百年前のことです。1920年に英国の物理学者アーサー・エディントンが初めて示唆したのですが、彼は2つの知識を元に当時としては非常に大胆な推論をしたのでした。2つの知識とは、太陽は大量の水素と僅かなヘリウムによって構成されているということと、E=mc2という公式でした。この式、E(エネルギ)= m(質量)×c(光速度)の2乗は、アルベルト・アインシュタインによって1907年に発表されたもので、質量とエネルギーの等価性とその定量関係を表しています。この式は状況を限定せずに成り立つとされ、多くの場面で「物質とエネルギーが可換」であることを意味する式というように解説されています。

 エディントンは、4個の水素原子は1個のヘリウム原子よりもわずかに重いことに注目しました。4個の水素原子核が何らかの方法で核融合して、1個のヘリウム原子が形成された場合、その過程において僅かながら質量が減るわけです。そのことを、先ほどの有名な公式に厳密に当てはめると、その僅かな質量が膨大なエネルギーを生み出すことが分かります。その質量に光速度を掛けたものを2乗した分だけエネルギーが発生するわけです。質量に対して生み出されるエネルギーの多さがイメージするのが難しいと思いますが、おおよその計算ですが、野球のボール1個分と同じくらいの体積の水素があれば、核融合によってニューヨーク市全体が使う電気量の2週間分を生み出すことが出来ます。太陽と他の恒星が非常に明るく永遠と輝き続けているのは、そのプロセス(水素が水素に衝突してヘリウムを形成し、そのプロセスで膨大な量のエネルギーが放出される)が行われているからです。エディントンは、この推論を発表した論文において、ダイダロスと息子イカルスの物語を挿話として使いました。挿話を差し込んでエディントンが言いたかったのは、イカロスは高く飛んだで翼が溶けてしまったが、その行動は科学者として正しいということでした。高く飛び過ぎて死んでしまいましたが、高く飛んで失敗することで何で失敗したかということが学べるのです。それが科学の発展には非常に重要で、科学者が注意深くなり過ぎて空高く飛ばなくなってしまったら科学の発展は無くなってしまうでしょう。

 ほとんどの人が原子力と聞くと、核融合ではなく核分裂をイメージするようです。核分裂とは、原子(ウランかプルトニウムが使われることが多い)が2つに分裂することです。核分裂は、何万年もに渡って放射能を放出し続ける廃棄物を生成します。対照的ですが、核融合もわずかに廃棄物を生成しますが、それはほんの数十年の間だけ放射能を放出します。原子爆弾が証明しているように、核分裂はかなりのエネルギーを放出します。しかし、核融合ははるかに多くのエネルギーを放出します。1952年に、核融合を利用した爆弾、いわゆるH-bomb(水爆)の実験が行われました。幸運にも今までのところ、戦争では使われていません。水爆実験の際には、核融合に必要な高温高圧状態を作り出すために原爆が起爆装置として使われました。水爆開発者の父とされる者たちの中の1人であるエドワード・テラーは、水爆を使って地面を掘り下げて運河を作ったり、ダイヤモンドを作ったりという無謀なアイディアを真剣に検討していました。強い反対運動が起き、実行されませんでした。素人は、核融合と聞くと、何かとてつもなく危険なものだと思いがちです。でも、実際には、磁気で出来た容器の中に入った1個の太陽のようなものなのです。全く危険ではありません。マッチの火を消すよりも簡単に消すことが出来ます。

 核融合は魅力的です。ですので、優秀な多くの科学者がこの分野に惹きつけられて研究しています。しかし、惹きつけられるのは科学者以外にもいて、いかさま師、つむじ曲がり、偽救世主などが関わることもあります。1951年にアルゼンチンのフアン・ペロン大統領は、自国で核融合発電技術を実用化したと発表しました。まもなく、それによって生み出されたエネルギーが1.5リットルの牛乳瓶のような容器に入れられて供給されるということでした。ペロン大統領は自国の科学者たちを全く信用していませんでした。それが過ちの一因だったかもしれません。代わりに、彼はオーストリア移民のロナルド・リクターに信頼を置いていました。しかし、リクターの作った実験施設には、科学者たちが検査した時に判明したのですが、ガイガーカウンターさえありませんでした。その実験施設は、リクターが核融合が実用化されたと主張する唯一の証拠だったのです。

 それから数十年後、ユタ大学の2人の化学者、スタンレー・ポンズとマーティン・フライシュマンは、小さな掻き回し棒が入った瓶のようのものの中で常温下で核融合を起こしたと発表しました。2人はそれなりに有名でしたので、多くの国民はそれを信じ込みました。2人は論文を発表してデータ等を発表する前に、記者会見を行って成果を公表していました。ポンズとフライシュマンは華々しくタイムズ誌の表紙を飾りました。一方、ブリガムヤング大学の有名な物理学者スティーブン・ジョーンズの研究も一時期はマスコミの注目を集めました。彼も低温下での核融合を研究していました。彼の研究は有望なように見えましたが、最終的には日の目を見ませんで。ポンズとフレイシュマンはついには論文を発表しましたが、データを捏造したと疑念を抱かれました。というのは、多くの研究者が検証しようとしたのですが、2人のデータは再現性が無かったからです。また、ジョーンズの方はというと、後にイエス・キリストがメソアメリカを訪れたことを証明し、さらにその後には、ワールドトレードセンタービルの破壊は内部の者の仕業であったことを証明することに没頭するようになりました。ザック・ハートウィグは、現在はMITで教授として核関連技術の研究をしており、ARCやSPARCの研究にも少し関与していますが、言いました、「核融合の最大の問題は、世間に正しく認識されていないということです。核融合は何かの冗談だと思われてしまっています。」と。

 4年間で原子爆弾の製造に成功したマンハッタン計画の費用がどれ位だったかということについては、諸説あります。そこの研究者は白紙の小切手を渡されていて経費は使い放題だっとというのが通説のようです。今年、米国政府は核融合に約6億7千万ドルの資金を投資します。非常に大きな額ですが、IMFの計算によれば、その額は昨年度に米国の納税者が燃料税の形で化石燃料関連で負担した額とほぼ同額か、少し多いくらいだそうです。

 1970年代の石油危機の頃、国防費が一部削減されて、その分が核融合研究の助成金に上乗せされました。MITのプラズマ科学・核融合センターは1976年に設立されました。英国のカルハム核融合エネルギーセンターにある欧州トーラス共同研究施設は、水素を太陽の内部よりも高温まで加熱できるのですが、1983年に操業を開始しました。1997年までにいくつもの偉大な記録を打ち立てました。その内のいくつかは今でもやぶられていません。「当時はとてもエキサイティングな時代でしたよ。私はMITで研究していましたが、どんな問題も解決できて核融合発電の実用化は遠くないと確信していました」と、マイケル・マウエル教授は言っていました。マウエルは現在はコロンビア大学応用学部教授ですが、かつてはMITの学部と大学院で核融合を研究していました。

 英国原子力公社の元社長であり、現在はプリンストン大学プラズマ物理学研究所の所長のスティーブン・カウリーは、プリンストン大学で大学院生として研究に明け暮れた1980年代のことを思い出して言いました、「朝起きてから、大学院の地下の研究施設で夜遅くにビールを飲んで寝落ちするまで、とにかく核融合のことだけに没頭していました。TFTR(プリンストン大学の核融合実験装置)で1千万ワットの核融合による電力を発生させたことは鮮明に覚えています。私はその時の写真は今でも保管してあります。」と。それは途方もなく画期的な出来事でしたが、とはいえ1千万ワットでは1つの電球を24時間点灯させることしかできないのです。当時、国の補助金が沢山あった時代に、核融合の実用化のため研究がもっと進んでいれば、現在とは違う状況になったのかもしれません。

 しかし、1990年代になると原油は再び値下がりしました。その結果、核融合研究への助成金は減少しました。カウリーは言います、「人類ははあらゆる場所から原油や天然ガスを抽出することが出来るようになりました。現在、私たちが地球を救うためや人類を救うためにやらなければならないことは、原油やガスを掘り出さない方法を構築することです。それは、とても簡単です。核融合技術を確立することです。」と。