2.論争 シカは駆除すべきか保護すべきか
現在、世界は生物多様性の危機の真っ只中にあります。国連によれば、少なくとも100万種が絶滅の危機に瀕しており、その多くは数十年以内に絶滅するとされています。地球上の自然環境にますます人間の手が入るようになりつつありますので、生物絶滅の危機はより切迫したものとなりつつあります。既に、地球の陸地の4分の3と海洋の3分の2は大幅に人間によって変更が加えられていて、数え切れないほどの野生生物が絶滅してきました。
しかしながら、決して多くはないものの、人間による環境の変化に非常に上手く適応している種があることも事実です。それらは、野生動物の中の極めて少数でしかありませんが、”synanthrop”(シナントロープ:ギリシア語の”syn”(共に)と”anthropos”(人間)を語源とする言葉で、人間社会の近くに生息し人間や人工物の恩恵を受けて共生する野生の動植物)と呼ばれています。シナントロープは、家禽やペットではなく、野生動物であるにもかかわらず人間が好んで住むような場所や人間が変化させた環境に上手く順応して繁殖しています。都市ハトはカワラバト(急な崖の斜面に巣を作る)の子孫ですが、良い例です。カワラバトは元々は野生種しかいませんでしたが、貴重なたんぱく源として飼われたり、伝書バトとして飼い慣らされるようになった後、建物や構築物の隙間に巣を作って人間が出すゴミで生き永らえる術を習得しました。都市バトの数は、人間が作るビルの高さが年々高くなるのと比例するかのように増え続けています。同じように人工的な環境に適応して数を増やしている例は他にも沢山あります。オポッサム(南北米大陸に生息する有袋類の仲間)、コヨーテ、アライグマ、ネズミ、シチメンチョウ、カナダガン、カラスなどです。カラスなんかは、本当に人間の住むエリアに上手く順応していて、クルミの殻を割るために自動車を利用することは良く知られています。カラスはタイヤの下にクルミを殻ごと滑り込ませるのですが、その際には信号機のランプが変わって自動車が止まるタイミングを見計らっています。一部の鳥類は、非常に賢くて、人間が捨てたタバコの吸い殻を巣の中に置きます。そうすることで吸い殻に残るニコチンでダニを遠ざけているのです。トカゲなども上手く環境に順応しています。都会に生息しているトカゲのつま先は野生種よりも粘度が高くなっています。それによて、都会では樹木等よりコンクリートやガラスのような滑りやすい面が多いのですが、都会のトカゲは器用に上下に移動することができます。トカゲは住む環境が人間によって変えられたにもかかわらず上手く対応して生き延びていると言えます。ニューヨークのセントラルパークに生息しているネズミは遺伝子を変化させました。それによって、脂肪分の多い食物を代謝できるようになりました。シアトルの準郊外の近辺に生息するクーガーは、有蹄動物を捕食していたのを止め、ネズミやオポッサムやアライグマを捕食するようになりました。さまざまな研究で明らかになっていますが、多くのシナントロープが、人間が変えてしまった環境に非常に上手く順応しています。それらは、都市部や郊外で、手つかずの自然環境の中に生息していた時よりも個体数を増やしつつ、且つ、各個体をより大型化させています。
20年前、環境活動家で弁護士のホリー・ドレムスは雑誌で論文を発表しました。その論文で彼女は環境保護活動の理念と現実との乖離や問題点について言及しました。彼女の主張は、アメリカでは、環境保護というと人里離れた保護区や自然公園等で動物を保護することに重点が置かれすぎているというものでした。その問題の根本にあるのは、誤った認識が蔓延っていることだとドレムスは言及していました。誤った認識というのは、自然環境は保護されたエリアの中で人間の干渉を完全に排除しない限り存続しえないという認識です。それは誤りです。また、一方で、人間は自然環境に干渉すること無しに生活できるという認識があるのですが、それも誤りです。現実の世界では、自然環境は人間の干渉から逃れることは出来ません。自然環境と人間の活動は不可分にお互いに干渉し合っているのです。ドレムスはそれを“boundary conflicts”(境界域での衝突)と呼びました。
スタテン島には、大都会の近くにある割には自然環境がたくさん残っており、自然と人工物が入り混じっています。そこでは、人間の活動の自然への影響を完全に無視することは出来ません。そこでは、ウッドチャックが通りを横切る姿や、高速道路の上で狩りをしているタカを見かけるこは稀ではありません。多くの運転手が野生のシチメンチョウにクラクションを鳴らします。そこのシチメンチョウは自動車に映った自分の姿を見て自動車に攻撃を仕掛けようとすることで有名です。また、私が8月にスタテン島を訪れるちょっと前まで1羽の若いアメリカトキコウも住んでいました。通常はもっと熱帯に近い暖かい場所にいる大きくて美しい鳥です。そこにいた理由は、海水を含む湿地帯がその鳥にとって非常に魅力的に見えてしまったのでしょう。しかし、その湿地帯はアマゾン社の大きな倉庫の隣に位置していました。不幸にもそのアメリカトキコウは湿地帯に有った4フィート(1.2メートル)の発泡断熱材でできた廃棄物をおいしいウナギと間違えて飲み込んでしまいました。そして、窒息死してしまいました。
スタテン島の歴史を振り返ると、かつては誰も住んでいなかった所に人が住むようになり、都市化が進む中で島内からいなくなってしまった野生生物が沢山あります。シカもそうした野生動物の中の1種ですが、いつごろシカが居なくなったのかということは正確には分かっていません。また、いつ頃から、野生のシカが戻ってきたかも正確には分かっていません。ある住人が私に言ったのですが、ウェストショア高速道路で車がシカに衝突したというニュースを初めて聞いた時にはとても信じられなかったので、その車の運転手を探し出して、その話が本当か嘘かを確認するために電話をかけたそうです。(その運転手は、事故で少し動転していた上にいきなり電話を貰って驚いていたそうですが、本物のシカを見て興奮したと言っていたそうです。)スタテン島区の副区長のエド・バークは、スタテン島に野生のシカが居ることが初めてニュースになったのは1990年代のことだと言っていました。時々、シカがニュージャージーから泳いでスタテン島に渡って来ているようでした。シカは特別に泳ぎが上手いわけではありませんが、狭いアーサー・キル(ニュージャージー州とスタテン島を分かつ潮汐海峡)を渡るくらい余裕で泳げるのです。シカがスタテン島に来る際に潜り抜けてくる最大の難関は、アーサー・キルを挟んでスタテン島の対岸となるニュージャージー州のユニオン郡とミドルセックス郡の辺りの海岸線を走る運行本数が少なくない何本もの貨物列車の線路(通称ケミカルコースト線)を渡ることです。かつて野生のシカがスタテン島に戻ってきた時、歓迎されニュースで報道されました。そうしたニュースで、シカがあたかも高貴な者が到着したかのように扱われることがありました。また、色物扱いされることもありましたが、どこの馬の骨だか分からないものの、目新しさと物珍しさゆえに非常に歓迎されました。バークはシカについて冗談を言いました、「奴らは通行量をきちんと払っているんでしょうか?」と。
21世紀に入ると、スタテン島の人々は野生のシカを珍しがることはなくなり、親しみを持つ人が多くなりました。シカはスタテン島の自然公園で沢山繁殖しましたが、高速道路を横切ったり、人家の庭で餌を漁ったり、方々の商店で店頭のガラスの割って店内に侵入して商品を台無しにしたりする事例が増えてしまいました。2014年に、低空飛行する飛行機と赤外線カメラを使って調査を行ったのですが、スタテン島内の18.7平方マイルの緑地に763頭のシカが居ることが判明しました。1平方マイル当たりに約41頭のシカが居る計算になります。多くの生態学者が、その数は実際より過少であると指摘していました。コーネル大学の野生生物研究の権威であるポール・カーティスが私に言ったのは、都市近郊でシカの管理をする際の基本中の基本ですが、シカの頭数は目に見えている以上に沢山居ると疑うべきであるということでした。
野生のシカが戻ってきて、スタテン島の住民の中には喜んでいる人たちもいます。バークが言うには、そうした人たちは、昔この島に居た美しい野生生物が復活したと捉えているようです。Facebook等のSNS上では、野生のシカの居場所を明かさないように促す内容がしばしば投稿されています。そうすることで、シカが密猟されたり人間から嫌がらせを受けたりするのを防ごうとしているのでしょう。しかし、多くの人々がシカに餌を与えるようになりました。夏にはスイカ、秋にはカボチャ、冬にはベーグルやパンや朝食用シリアルを与える人がいます。スティーブンスは私に言いました、「私はシカがパンケーキを食べているのを見たことがありますよ。」と。スタテン島出身でニューヨーク市公園緑地部野生生物保護課の課長代理をしているカトリーナ・トールは、野生のシカに餌付けする行為は野生生物への愛情が出発点であることは理解できるが、不適切な愛情表現であると認識しています。彼女は言いました、「多くの人たちがニューヨーク市の野生生物は生き伸びるために人間の手助けが必要だと考えているようです。」と。
野生のシカは、スタテン島の住民からいろんな目で見られています。車にぶつかる厄介もの見なす人もいますし、自然環境に彩りを加える優雅な存在と見なす人もいますし、厄介な疫病(ライム病等)の媒介者と見なす人もいます。実際、ライム病を媒介する黒足ダニは、宿主となるシカがいなかったらスタテン島内では繁殖しなかったと推測されています。現在、ニューヨーク市でのライム病の感染者の発生はスタテン島のみに集中しています。1頭のシカが数百匹の黒足ダニの宿主となっていることがあります。一部の人たちは、当局に野生のシカを捕まえて、ニューヨーク州北部のもっと広々とした田舎に放すよう要望しています。しかし、その要望は理にかなっていません。というのは、既にそうした田舎ではシカが増えすぎて問題になっているからです。また、当局にシカを間引くよう要望する人も少なからずいます。つまり、市が責任を持って野生のシカを駆除しろということのようです。当局が対応するのを待ちきれず野生のシカを猟銃を使って自らの手で駆除するつわものも3人ほど現れました。勝手にそんなことをしたらどうなるかは誰でも分かると思います。当然ながら、その人たちは逮捕拘留されました。
2015年、ニューヨーク市はコニーアイランドの建設現場で2頭のシカを捕獲しました、その内の1頭をスタテン島に移しました(もう1頭は逃げてしまいました)。そのことが引き金となって、スタテン島の住民は以前から市に対して不満を持っていたのですが、怒りが頂点に達しました。トールはかつて何十年間も市の廃棄物がスタテン島に押し付けられてきたことに言及して言いました、「また?って感じですね。スタテン島の住民の意見などお構い無しですね。市は困ったら何でもスタテン島に押し付けたら良いと考えているんですよ。」と。スタテン島区長のジェームズ・オッドは、市の公園緑地部に公開の書簡を送りました。そこには、「シカが1頭でも100頭でも、廃棄物が1オンス(28グラム)でも100トンでも、持ち込まれることは断固として拒否します。スタテン島区には他の区の問題を一切持ち込まないでいただきたい。」と記されていました。
野生のシカを巡ってとんだ混乱が引き起こされたわけですが、スタテン島の住民の中には諦観していて、野生のシカに対しては何もせず放置すべきだと主張する者も少なからずいます。ある住民は私に言いました、「ネズミの問題を思い出すべきです。ネズミもシカ同様に厄介ものです。でも、誰かが市に対して地区全体のネズミの駆除を要請したり、何らかの対応を要請したりしますかね?そんなこと、誰もしませんよね。ネズミに対するのと同様にシカでも市に要望することなんて何も無いのです。ネズミと違って、どうしてシカの問題だけは市が対応しなくてはいけないんですか?私には理解できませんね。」と。