3.シカは復活した(絶滅の危機をくぐり抜けて)
シカはネズミとは違うだろう、同じ対応では駄目だろうと主張する人もいるでしょう。たしかに、シカを「ネズミがひづめを付けただけのもの」としてネズミと同様に扱うのはけしからんという御仁もいます。おそらく、シカは米国では昔から野生の象徴として親しまれてきたので、そういう意見が出るのでしょう。思い起こせば、デイヴィッド・クロケット(テキサス独立を支持しアラモの戦いで戦死した米国の国民的英雄)もシカ革のパンツを穿いていました。ディズニーアニメのバンビ(間違いなくシカです!)は今でも大人気ですし、シカが登場する民謡”Home on the Range”(邦題:峠の我が家)は今でも誰もが口ずさんでいます。シカは大自然の象徴であり、米国人の郷愁を呼び覚ますと考えられているようです。しかし、本当にそうでしょうか?
新大陸に初期に入植してきた白人たちは、そこに広がっている森林を手つかずの原生林であると見なしたのですが、それは認識違いでした。実際には、彼らが追い出そうとした先住民が慎重に手を入れ管理していたものでした。先住民はさまざまな影響を考慮した上で狩猟対象となる動物にとって住みやすい生息地となることを意図して森林を管理していたのです。入植者たちは、他の動物と同じように、オジロジカも無尽蔵に生息している考えました。かつて、東テネシー州という短命に終わった独立分離派の州がありましたが、そこではにシカの皮が通貨として使用されました。知事は年俸としてシカの皮を千枚貰っていました。入植者たちは、森林伐採の際に捕まえたシカや大規模な商業的狩猟で得たシカの毛皮を大量に輸出していました。しかし、やがてシカは無尽蔵にいるわけではないことが分かりました。
20世紀初頭には、シカはバーモント州からペンシルベニア州やイリノイ州までの多くの州でほとんど居なくなってしまいました。例えば、ニュージャージー州のシカの個体数はわずか200頭と推定されていました。当時、多くの人たちが、シカは絶滅してしまうだろうと思っていました。というのは、都市化が進展中だったからで、絶滅しないまでも個体数は限定的なレベルまで減るだろうと思われていました。ミネソタ州で1896年に新聞にシカ肉が食べられるシーズンの到来を祝った記事が掲載されました。「シカ肉を食することは開拓の最前線の西部諸州における最大の楽しみである。しかしながら、このまま開拓が進めば、シカは居なくなり、いずれ口にすることが出来なくなるだろう。」と記されていました。
実際には、開拓が進んでもシカの個体数は減るどころか増えました。当局によってシカを保護するためシカの狩猟は制限されるようになりましたし、1900年にはレイシー法が施行され、シカや他の野生生物を売買することは禁止され違法となりました。また、当時は米国人の多くが都市部や郊外に移り住むようになりつつあったので、米国の自然環境も大きな変化を見せていました。森林で樹木が材木を供給するためと農業利用のために伐採されて裸にされた場所には、再び植生が戻りましたが、深い森にはなりませんでした。深い森はシカにとって理想的な生息地ではありません。そのかわり、何マイルにも渡って、森、低い草が茂る草地、人間の手が入った畑地の3つが入り混じった場所(境界域)がスプロール状(虫食い状)に生み出され拡がっていました。環境問題に詳しいジャーナリストのジム・スターバはそうした場所を「オジロジカの繁殖にとって最適な環境である」と評していました。通常、雌シカは毎年春に双子を出産するのですが、そうした環境に生息する雌シカは行動範囲が狭くなり、十分に脂肪が体内に蓄積されるので、三つ子を出産する確率が高まるのです。そうなると、その環境に生息するシカの個体数は2~3年で2倍になります。
ペンシルベニア州やニューイングランド(米国北東部の6州)はシカの個体数を増やす取り組みを始めました。それで、シカが増えている他の州からシカを移入しました。シカが移入されると急速に個体数を増やしました。というのは、シカの捕食者となる動物が狩猟によって少なくなるか、ほとんどいなくなっていたからです。それで、しばらくするとあまりにも沢山のシカがいるので、人々は苦情を言い始めました。シカが森林や公園を破壊し、農作物を食い荒らすといったことが問題となりました。1956年には既に“The Deer of North America”(北米のシカ)なるガイド本が刊行されたのですが、それには「シカが引き起こす問題は、個体数が少ないことではなく、多いことに起因している。」との記述がありました。草地や畑地から食料となるものが無くなってしまって、冬にシカが大量に死ぬことが多々ありました。その現象は生態学者のアルド・レオポルドは個体数が多過ぎることが原因だと指摘しています。環境が良くて個体数が増えすぎて必要となる食料を確保できなくなり餓死したと考えられます。現在、米国には推定3千万頭のオジロジカがいます。それはレイシー法が施行された時(1900年)の100倍です。
個体数が増えて密集度が高まるにつれて、シカは新しい生息地を求めて遠方を目指さなければなりませんでした。それで、生息に適した場所を探すため、人間が沢山住んでいる都市を抜けて、人の気配がより希薄な部分を伝って進みました。