6.自然と人間は複雑に絡み合っている
私がスタテン島で最初にシカを見た場所は、グリーンベルト(スタテン島の中心を走る28エーカーの公園保護区)でした。雌シカが草を食んでいた近くには、ゴム長靴を履いてゴム手袋をはめたメレディス・ヴァンアッカーがいました。彼女のまわりには木が生い茂り地面には枯れ葉が積もっていました。彼女は木の一部を引きずっていました。しばらくして、ヴァンアッカーはその木をひっくり返して、それを上から覗き込むようにして調べていました。彼女は「いたいた、1匹小さい奴を見つけたわよ。」と言いました。指さした先にはダニの幼虫がいました。大きさは非常に小さく、食卓塩の粒ほどで黒っぽい色でした。彼女はさらにつぶさに調べ、黒い粒がまとまって存在しているのを見つけたようです。彼女は言いました、「大量の幼虫がいるわ。たぶん、メスのダニが産卵したのよ。一度に数千個も産卵するのよ。それが全部孵ったんだわ。」と。
ヴァンアッカーはコロンビア大学大学院(博士課程)に在学しています。ダニの生態とダニが媒介する感染症の研究を5年間続けています。それで、ニューヨーク市のあちこちの公園のダニの生息状況を調査しています。彼女の時間のほとんどはスタテン島での調査に費やされています。スタテン島のダニの4分の1はライム病の原因となる細菌に感染していました。彼女は、ダニの調査にかなりの時間をかけていますが、ネズミの捕獲にも時間をかけています。ネズミもダニの宿主となることがあるので、ネズミもライム病の感染と無関係ではないだろうと彼女は推測しています。
ヴァンアッカーはホワイトバッファローと交渉して契約を締結し、スタテン島の耳タグを付けた雄シカや雌シカのデータを活用させてもらえるようになりました。そうしたデータを活用して研究を続けた結果、ヴァンアッカーが気付いたことは、ダニは水平移動(地面の上を)はしないで、上にしか移動しないということでした。ダニは、人間のふくらはぎの位置ほどの高さのポイントに飛び移ることを目指していて、宿主となるものが近付くと脚を伸ばして飛び移るのです。スタテン島の公園では、シカはダニの理想的な宿主でした。その上、人間の居住エリアも近くにひろがっていましたので、ダニが人間をシカの次の宿主とすることが多々ありました。
シカの個体数管理では、シカが1匹1匹認識し識別されることはほとんどありません。単に沢山のシカとして、集団として扱われることがほとんどです。しかし、ヴァンアッカーがスタテン島でシカの動きを追跡していて思ったのは、シカは個体ごとに微妙に異なっているし、それぞれ個性があるということでした。体表の模様も千差万別ですし、出現する場所も個体ごとに違います。2匹の雌シカは島内の大学のキャンパスから決して離れず、2匹で毎日のように同じ場所の草を食んでいました。また、ある雄シカは島の大西洋岸にあるグレートキルズ公園と島中心部の近くの住宅地郊外にある草地の間を定期的に移動していました。ヴァンアッカー以外にもシカの個体を見分けることが出来る人はいました。スタテン島の住民の中には雄シカの耳タグを参考にしている人もいて、近所で良く目にするシカについては1頭1頭識別出来まるようです。
ヴァンアッカーがシカの行動を研究している内に思うようになったのは、スタテン島は自然と人工的な構築物が複雑に入り混じっているということでした。スタテン島の開発が進んで人口の多いエリアでは、シカは人々が寝静まる頃の時間帯の活動は控えています。ですが、深夜になると活発に活動します。ヴァンアッカーが追跡用の首輪から発信される情報を読み取って気付いたのですが、沢山のシカが通るルートが1箇所ありました。シカが沢山通過するルートでしたので、彼女はそこは緑の草地だろうと推測していました。しかし、それはとあるスーパーマーケットの駐車場の端でした。そこには草など全く無く、コンクリートしかありませんでした。彼女の博士号論文の評価委員の1人は、彼女にシカが道路を横切る行動について調査するよう提案しました。それで、彼女はそれを研究してみました。すると、1日に50回も道路を横断するシカがいることが分かりました。スタテン島のような場所は、自然と都市部が入り混じりすぎているので、シカの移動を研究するのには適していないと思われました。
ホワイトバッファローが精管切除で個体数を減らす取り組みを進めてきたことにより、今年のスタテン島での子シカの出生数は60%減少し、シカの個体数は21%減少しました。一方、経費は660万ドルかかり、当初予算を大幅に超過しました。シカの個体数管理の取組みは、芝生の手入れと同じだと言われることがあります。それは、どちらも決して終わることが無いからです。永遠と続けなければならないのです。
シカの個体数管理についてニューヨーク市当局の関連部署とやり取りをする時、彼らが必ず口にするのは、個体数管理の成否を見極める際には単純に個体数を数えるのではなく、シカの衝突事故件数や感染症発生数などの指標を見るべきだということです。実際に、衝突件数は43%、感染症例数は60%減少しており成果が大きいと強調していました。ニューヨーク市公園緑地部野生生物保護課の課長リチャード・サイモンは、精管切除の取組みが市民から最も注目されているが、それは市のシカに関する取り組みの一部分でしかないと言っていました。それ以外にも沢山の施策を実施しているそうです。シカに関する啓蒙活動も実施していてます(特にシカに餌付けしないよう注意を呼び掛けている)。若年層に対する教育も実施していて、今の子供たちは都市部に野生の動物がいることは異常なことではないことを認識しているそうです。また、ダニやライム病に関する啓発も行っています。また、ニューヨーク市は啓蒙の一環としてシカや他の野生生物の図柄をラッピングしたバスやタクシーを走らせています。その図柄をよく見ると、シカには「通勤者」とか「ニューヨーク在住者」とラベルが付いており、都市部にシカがいても異常ではないということを強調しているようです。(ちなみにその図柄でダニには「ヒッチハイカー」というラベルが付いていました。)サイモンは言っていました、「市当局が人々に認識してもらいたいのは、人間が自然環境に手を加えて生み出した環境の中でも野生動物は生息できるということです。ですので、野生動物が都市部や郊外に居ても何ら不思議ではないのです。」と。
私がスタテン島を離れる少し前に、大雨で8インチ(200ミリ)以上の降水がありました。その次の日の夜、私はホワイトバッファローのデータが4頭の雄シカがいることを示している地点まで向かい、シカを探しました。その辺りは、住宅街と大きな公園の間に広がる草地でした。4頭の雄シカは直ぐ見つかりました。耳に付けられた識別票から、4頭とも精管切除済みであることが分かりました。そこに、毎日夕方に散歩しているという1人の女性が通りかかりました。その女性は私に話しかけてきて、シカが可哀そうに思うので、いつも餌を与えていると言っていました。その女性は「シカに会うのが私の楽しみなのよ!」と言いました。そう言い終える間もなく次の瞬間に彼女は道の向こうに集まっていた野生のシチメンチョウに汚い言葉を浴びせて追い払おうとしていました。
雄シカ4頭は公園の中に戻っていきました。私はそれを追いかけました。深い水溜りが出来ていましたが、シカはバシャバシャと音をたてながら超えていきました。私には水溜りを越すことは不可能に思えましたので追跡を止めました。水溜りの向こうとこちらで、私とシカは長い間お互いに向き合った状態でした。私はシカを観察していましたが、シカも私を観察しているようでした。そうこうしている内に暗くなり始めたので私は向き直り、帰ることにしました。足元の悪いぬかるんだ中を進みました。4頭のシカと私の足跡がくっきりと出来ていました。足跡は複雑に入り組んでいました。♦
以上