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RU-486を市場に送り出すための戦いは、結構大変で一筋縄では行きませんでした。1988年9月、フランスの薬事規制当局は、中絶薬の解禁を待つ意見が大勢を占めつつあった中で、RU-486の販売を許可しました。翌月、カトリック過激派のメンバー数名が、マーティン・スコセッシ監督の作品を上映していたパリの映画館に火を放ちました。映画の題名は、”The Last Temptation of Christ”(邦題:最後の誘惑)でした。また、同じくパリで、クロード・シャブロル監督の映画”Une Affaire de Femmes”(邦題:主婦マリーがしたこと)を上映していた映画館では、催涙ガスが撒かれました。その映画は、ナチ支配の北フランス、ノルマンディーが舞台で主婦マリー=ルイーズ・ジローの生涯を描いたものでした。彼女は違法であった堕胎を27回も手伝ったとして1943年7月30日にヴィシー政権によってギロチン刑に処されました。カトリック教会から強烈に批判されていましたし、不買運動を起こすと脅迫されていたので、ルーセル・ユクラフ社はRU-486を販売すべきか否か判断に迷っていました。同社が株主総会をしていた際に、会場外で1人の抗議者は「子宮内で胎児を殺すな!」と書かれたボードを掲げていました。同社は既にRU-486を多くの国で発売すると明言していたにもかかわらず、それから1ヶ月もしない内に、RU-486を市場に投入しないという決定を下しました。
ボリューは、研究施設に急いで飛び込んで来た部下から、その決定のことを伝え聞きました。それで、すぐにリオデジャネイロで開催されていた世界産婦人科学会に参加するために出発しました。彼がリオデジャネイロに到着すると、すぐにその学会の趣きが一変してしまいました。ニューヨーク・タイムズ紙は、「RU-486の新製品発表会」の様だったと報じました。ところが、その数日後にルーセル・ユクラフ社の株式の36%を保有していたフランス政府が介入してきました。同社にRU-486の特許を他社に譲渡するようにとの提案をしてきました。しかし、ルーセル・ユクラフ社は、その提案に従いませんでした。RU-486を市場に投入し、全世界で販売するという決定を下しました。フランスの厚生大臣は、「政府の認可が下りた瞬間から、RU-486はルーセル・ユクラフ社だけのものではなくなりました。全女性の道徳的財産になったのです。」と宣言しました。
アメリカは、RU-486にとって大変魅力的な市場でした。巨大で開かれた市場だからです。しかし、販売するに当たっては、神経質にならざるを得ない部分もありました。アメリカ家族計画連盟の会長を1978年から1992年まで務めたフェイ・ワットルトンが私に言ったのですが、RU-486を臨床試験で使えるようにするために、彼女は3回もパリに足を運んだそうです。彼女は、ルーセル・ユクラフ社の幹部が集まっているところで説得したそうです。彼女は言いました、「ルーセル・ユクラフ社は当連盟に製品を提供することを嫌がっていたようでした。とはいえ、幹部の中には、製品を提供することに前向きな者も少しだけいました。」と。製品を提供することに前向きだった者たちは、その薬を避妊薬として売り込むべきだと提案しました。彼らは、望まない妊娠を防ぐために生理の最後の数日間に服用することを推奨すべきであると考えていました。しかし、この薬が発売されるというニュースが伝わると、蜂の巣をつついたような騒ぎとなり、反対運動が巻き起こりました。反対運動を沈静化すべく、ボリューは様々な場所で講演したりしました。食品医薬品局(FDA)の専門家に説明をしたり、中絶反対活動家にも説得を試みました。彼の行動は報酬目当てではありませんでした。ボリューは、ルーセル・ユクラフ社との間で顧問契約を結んでいただけでした。もし、この薬が売れることによって会社の利益が増えたとしても。彼の報酬は1円も増えないのです。ある時、ニューオリンズで彼が講演することになっていたのですが、他の講演者と替わることになりました。講演する内容も全く違うものになりました。それで、彼は沢山の小児科医に混じってその会場の客席に座っていました。替わった講演者が話をしていると小さな爆弾が爆発し爆発音を発しました。彼は当時のことを振り返って言いました、「バーンという音がしました。中絶反対活動家の仕業だと推測します。奴らは、講演者が替わったことに気付いていませんでした。テーマも全く別なものに差し替えられたのに、そのことも気付いていなかったんです。」と。
レーガンやブッシュの共和党政権時には、RU-486は禁止薬物に指定され、連邦政府関連施設ではその研究をすることも禁じられていました。ある時、中絶薬の解禁を望んでいた活動団体がニューヨーク郊外に即席の研究室を作り、ドクターXと名乗る匿名のボランティア医学者を雇い、特許出願情報から得た情報を使って中絶薬を製造しようとしました。アメリカ家族計画連盟のワットルトンが私に語ったところによると、ルーセル・ユクラフ社の親会社は、アメリカでRU-436を販売することを拒否し、アメリカ家族計画連盟と協力することも拒否したそうです。また、ワットルトンは付け加えて言いました、「もし、黒人の女性が率いる組織等にその薬の権利が譲渡されて、その組織が破たんした場合には面倒なことになるという懸念がありました。」と。結局、ルーセル・ユクラフ社は、アメリカでのその薬の権利をあるNPOに譲渡しました。ボリューは、「私は、RU-486が開発された当初から、いずれアメリカで販売されるようになると確信していました。」と言っていました。彼は、そう確信していた理由は、アメリカが経口避妊薬が開発された国であり、10代の妊娠率が高いことにあると言っていました。
中絶薬の承認については、反対する者が少なからずいました。下院議員ロバート・ドーナンもその1人でした。彼は、「頭痛薬を飲むのと同じくらい容易に、胎児の命を奪うことができるようになってしまうんですす。」と主張していました。また、国民生命権委員会(National Right to Life Committee:米国で最も古く、最大の全国的な草の根の反中絶組織)のジョン・ウィルケ博士も強硬に反対していました。彼は、「人間の知覚は非常に単純なもので、目に見えないものを認識することは非常に困難です。中絶薬を使って中絶が行われるようになれば、誰も中絶が行われていることに気付かなくなってしまうでしょう。結果、中絶件数は爆発的に増えるでしょう。」と主張していました。しかしながら、そうした反対を押し切る形で、食品医薬品局(FDA)は最終的には2000年にRU-486を承認しました。中国やロシアやイギリスの薬事規制当局がそれを承認してから10年の月日が経過していました。私は、ボリューにアメリカでRU-486が承認されるまでに長い年月がかかり悪戦苦闘した中で得た教訓があるか聞いてみました。すると彼は言いました、「非常に馬鹿げたことが起きていると思いました。純粋に科学的な論争が巻き起こって承認が遅れたわけではないのです。いろんな政治家が自分の主義主張のみを押し通そうとしていました。また、女性の尊厳を重視するという視点が欠けた状態で議論が為されていたことも問題でした。中絶合法化に反対する団体等は、堕胎する女性の肉体を傷付けることなく身体への負担も少なくすることができる手段を決して認めようとしませんでした。あのような団体の目的は、女性を傷付け、罰することなのです。」と。