How I Learned to Concentrate
私が集中力を学んだ方法
Twenty years ago, I had an intellectual experience that changed how I think about thinking.
20年前、私は思考に対する考え方を変える知的経験をした
By Cal Newport March 5, 2024
1.
私が MIT に入ったのは 2004 年の秋で、22 歳になったばかりだった。計算理論グループ( the Theory of Computation group )の一員として博士号取得を目指した。そのグループは、コードよりも数式を書くことに多くの時間を割くコンピュータ科学者の集団だった。私たちは、フランク・ゲーリー( Frank Gehry )が設計し、3 億ドルを投じて建設されたスタタ・センター( Stata Center )で研究に没頭した。斜めの壁がいくつも取り入れられた真新しいが奇異な建物であった。その 6 階で、私は他の 2 人の学生と研究室を共有した。その研究室は、共有スペースの周りに配置されていた。同じような研究室がいくつもあった。研究室と言っても、いくつもの可動式の両面使用可能なホワイトボードで区切られているだけだった。そのホワイトボードが私たち 3 人にとって最も貴重で重要な資産だった。天文学者にとっての望遠鏡と同じだった。多くの教授や学生がその周りに集まり、マーカーでさまざまなことを書いた。誰かが必死で書いている最中には、静寂が訪れた。マーカーの動きに視線が集まった。書いた数式を消されては困るので、「消去禁止( do not erase )」と書き添えることが多かった。しかし、そもそも清掃員がホワイトボードに触ることは無かったし、マーカーを消すことも無かった。彼らは私たちの懸念を察していたに違いない。
研究室のスペース以上に印象的だったのは、そこにいる人たちだった。オリエンテーションの際に、私は 17 歳の博士課程の新入生と出会った。彼は 15 歳で学部を主席で卒業した後、ソフトウェア研究者としてマイクロソフトで職を得た。そこが退屈になり、楽しそうだという理由で博士号の取得を決意した。彼は、私がここに来たばかりの頃に出会った人の中で 2 番目に早熟だった。私のオフィスの向かい側、ホワイトボードで区切られた区画の向こうの研究室には、エリック・ディメイン( Erik Demaine )という 23 歳の教授がいた。つい先日、彼は長年にわたって未解決であった計算幾何学の難問を証明し、マッカーサー・フェロー賞、いわゆる「天才賞」を受賞し奨学金を獲得した。私が MIT に在籍していた時、私がいたフロアには、一般にノーベル賞と同等と理解されているチューリング賞の受賞者が彼を含めて 3 人もいた。私は MIT に来た直後にとんでもないところに来てしまったと感じた。映画でお目にかかるような設定であるが、それが実際に存在していることは驚きでしかなかった。
私が MIT で過ごしたのは 7 年である。5 年で博士号を取得し、次の 2 年間は博士研究員として働いた。その後、ジョージタウン大学で教授職に就き、今も粛々と研究を続けている。私は、研究職としてキャリアを積んできた。同時に、職業作家として仕事やテクノロジーや娯楽に関する大衆向けの本を数冊出した(最新刊「スロー・プロダクティビティ(未邦訳:Slow Productivity )」を今月出版した)。長い間、私はこの 2 つの仕事にはほとんど関連性が無いと思っていた。最近になって初めて気づいたのだが、私が執筆活動で追い求めてきた主要なアイデアのほとんどは、MIT で過ごした時間に源がある。計算理論グループで、私は最も純粋な形での思考を垣間見ることができた。それは私の人生を変えた。
計算理論グループには際立った特徴があった。誰もが凄まじい集中力の持ち主だった。どの研究者も集中力に明確な価値を置いていた。それがこの分野で成功するために必要で最も重要なスキルであると、私はすぐに理解できた。ノーベル賞を受賞した物理学者リチャード・P・ファインマン( Richard P. Feynman )は、著書「 Surely You’re Joking, Mr. Feynman!(邦題:きっと冗談でしょう、ファインマンさん!)」の中で、プリンストン大学で、アルベルト・アインシュタインやヴォルフガング・パウリなどの当時の主要な科学者を前にしてセミナーした時のことを回想している。彼は博士号取得前であったが、本来であれば世界的名声のある招聘教授が行うセミナーを開催するよう指示された。研究成果からそれだけの価値がある人物と認められたからである。彼は記している、「目の前にモンスター・マインド(化け物級の頭脳の持ち主)とでも呼ぶべき頭脳がずらりと並んで私のセミナーを待っていた!」と。私が在籍した MIT にも、驚異的な集中力を持つモンスター・マインドが何人もいた。
同僚の中には強烈な印象を残す者が何人もいた。彼らは複雑な証明の説明を聞いて、数分間虚空を見つめた後に、「 OK、分かった」と言う。冗談かと思うのだが、その後、それを改善する方法を完璧に説明し始めるのだ。恐ろしいことに、彼らは誰かが発表した薄っぺらいアイデアを直ぐに見破ってしまう。そうすると発表した者は悲惨な目に遭うことになる。彼らは、侮辱しているわけではないのだが、そのアイデアを「つまらない( trivial )」ものと見なしてしまう。私は、ある暗号学者の訪問授業に出席したことがある。彼が授業を終えると、聴衆の中にいたモンスター・マインドの持ち主(後のチューリング賞受賞者)が手を挙げ、「よく理解できたが、よく考えてみると、実につまらない( trivial )内容ではないか?」と質した。私は、訪問者が必死に涙をこらえていたのを覚えている。計算理論グループで生き残るためには、とにかく集中力が必要だった。
MIT 時代に得たもう 1 つの教訓は、業務が多くて忙しすぎると生産性が犠牲になるということである。研究室で職を得て、実験をしたり数字を計算したりしなければならない研究者は、長時間労働を強いられがちである。しかし、それでは数理論学者は成果を出せない。数学について集中して考える時間が不足するからである。論文提出の締め切り直前には、結論を書き上げるために必死に頑張るかもしれない。その一方で、時折ブレインストーミングをする程度で数週間が過ぎてしまうこともあるかもしれない。やはり、最低でも平均で 1 日 2 ~ 3 時間は熟考する時間を確保する必要がある。
私は、正しいアイデアを見つけるためには、それなりに時間がかかると認識していた。大学院生の頃、さまざまな学会で論文を発表するためにヨーロッパのあちこちに派遣された。学会そのものが重要ではなかった。重要なのは、いろんなところに行っていろんな人と会話したり、のんびりすることであった。良いアイデアが突然ひらめくことがあった。ボローニャの屋上、あるいはローザンヌのレマン湖畔でひらめいた。旅をするのは骨の折れるものであったが、それだけでも価値があった。とはいえ、私や他の院生たちが常に勤勉だったわけではない。結構、無気力で自堕落に過ごす時間も長かった。それでも、概して私たちは生産的だった。MIT を辞めてジョージタウン大学で仕事を始めるまでに、私は 26 本の査読付き論文を発表していた。それでも忙しいと感じたことは一度もなかった。
ホワイトボードも重要であった。計算理論グループは、ホワイトボードとマーカーを使って考えることを誇りにしている者たちの巣窟であった。その周りには、常に新しいものを生み出そうとしている実践的なコンピュータ科学者がたくさんいた。彼らは、実用的な発明に磨きをかけていた。一方、私たち計算理論グループの面々の守護聖人はアラン・チューリングだった。コンピュータが発明される前に計算理論に関する基礎的研究を完了させた人物である。コンピュータの類稀な能力を認識しながらも、私たちは人間優越主義を発展させた。私たちはコンピュータ科学者でもあったが、デジタルツールが人間の認識力や創造性よりも価値があるという概念には懐疑的だった。