原子力発電所は安全なのか?それほど安全ではなくない?おそらく、原子力発電のシェアは下がっていくでしょう!

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 1953年にドワイト・アイゼンハワー大統領は国連総会で「アトムズ・フォー・ピース(Atoms for Peace)」演説を行い、原子力平和利用の礎を築きました。原子力は未来のエネルギー源であり、メーターを気にすることがないほど電気代が安くなるだろうと発言していました。当初、その計画はなかなか軌道に乗りませんでした。というのは、当時のアメリカの電力源の大半は石炭が占めていたのですが、それが非常に安価で豊富だったからです。しかし、政府の圧力と原子力発電所メーカーが採算を度外視した安売りを行ったことが相まって、1960年代に原子力発電が広く普及しました。私は、1970年代に電力会社のフロリダ・パワー&ライト(Florida Power & Light )社の幹部の1人が言ったことを今でも鮮明に覚えています。彼は言っていました、「うちの会社のCEOが他の電力会社のCEOとゴルフをする時に恥をかかせないために、原子力発電を導入した。」と。1970年代初めに原子力委員会(AEC)は、2000年までに国内で1,000基の原子炉が稼働するだろうと予測していました。その予測は完全に外れました。実際には、おおよそですが予測の10分の1程度でした。

 第二次世界大戦中、原子炉の建設はもっぱら軍の管轄でした。ウェルロックが記していたのですが、当時の連邦政府は、ワシントン州の砂漠地帯に原子炉を建設すれば、原子力の安全性に関する問題は解決できる、あるいは少なくとも回避できると考えていたのです。そこには、ヤマヨモギが生えているだけで、ガラガラヘビくらいしかいないからです。しかし、そうすると送電網が長くなり、電力会社はその構築に莫大な費用をかけなければならなくなります。それで、原子力発電所は都市部の顧客の近くに設置すべきであると主張しだしました。1960年代初めにニューヨークのコンソリデーテッド・エジソン社(Consolidated Edison、通称コン・エド社:エネルギー事業を展開する米国の持株会社)は、タイムズ・スクエアから約2マイル(3.2キロ)離れたクイーンズランド州レイベンズウッド(現在はロングアイランド市の一部)に大型原子力発電所を建設することを提案しました。しかし、原子力委員会(AEC)でかつて委員長をしていたデビッド・リリエンタールらによる反対運動が起こり、その計画は立ち消えとなりました。しかし、コン・エド社が開発中であったインディアン・ポイントの原子力発電所の建設計画は残っていました。インディアン・ポイントはクロトン・オン・ハドソン(ニューヨーク州ウェストチェスター郡の村)から約37マイル(59キロ)しか離れていません。ウェロックは、1960年代後半に書かれた原子力委員会(AEC)の原子炉安全対策委員会の内部文書を探し出していました。その中に草稿があって、それはその委員会の幹部に警告を発することが目的の文書でした。それに記されていたのは、新たな緊急冷却技術が開発されない限り、原子力発電所は人の住まないような僻地か遠隔地に作るべきであるということでした。

 しかし、僻地に原子力発電所を作ることは、コスト増を意味します。コスト増は、原子力発電所をたくさん作りたいという野望を持っている連邦政府からすると、好ましいものではありません。それで、人口密集地近くに原子力発電所を建設することは安全面で問題があると分かっていながら、原子力委員会(AEC)は都市近郊に何百基もの原子力発電所を建設する計画を推進させようとしました。ウェロックは、原子力委員会の幹部の何人かが例の草稿の作成に途中から関与し、完成して公表されるのを阻止した事実があることを発見しました。(インディアン・ポイント原発の承認委員会の委員長を務めたサミュエル・ジェンシュは、後に、「もし連邦政府が原子力委員会の内部で共有されていた安全性に対する懸念を隠さずに明らかにしていたならば、多くの原発は承認されなかっただろう。」と記しています。)1960年代以降、原子力委員会(AEC)は、破滅的な原発事故の危険性は、「極めて低い」もしくは「ほとんどない」と説明する論調をとり続けています。原子力委員会は、メルトダウン(原子炉の核燃料が制御不能な状態で過熱し、放射性降下物が広範囲に拡散する事故)は、「信じられないような出来事」だと表現しています。また、メルトダウンは発生しえない事象であるという前提に立っているようです。原子力委員会は、メルトダウンの可能性は非常に低いので、市民は心配しないでぐっすり眠れば良いと考えているようです。原子力委員会は、同様のことを原子力発電所の設計事業者に対して示していて、過度に原発の安全性の問題を懸念する必要は無いとしていました。それで、設計事業者は、一時的な冷却システムの不具合など、小さな事故を防ぐことに専念するよう指導されています。恐ろしいことに、冷却機能が喪失して即時に復旧できないような重大事故への対処は求められていないのです。そうした危険性を排除するための安全システムを構築する責任は免除されているのです。

 原子力発電の安全性に深い懸念を持つ人たちにとって、ウェロックの本を読めば読むほど不安が募ります。原子力発電所の安全性を証明する、あるいは、最悪の事故のリスクを数値的にはじき出すということは、技術的には大変難しいのです。というのは、数字で測れない不確定な要素がたくさんあるからです。ウェルロックは言いました、「1つの原子力発電所には約2万個の安全部品が使われているが、それぞれが複雑に関与し合っている。ドミノ倒しのように、多数のポンプやバルブやスイッチが全て正しい順序で作動しなければ、冷却水を送ることも、原子炉を停止させることもできないのです。安全部品のどれかが故障しただけで、重大な事故が引き起こされる可能性もあるのです。」と。そして、原子力発電所が大量に建設され始める段になって、規制当局は安全性を正確に見積もるツールを持ち合わせていないことに初めて気づいたのです。原子力発電所にかかわらず、どんな事象でも、必要なデータがすべて出揃っていれば、簡単にリスクを計算することができます。保険会社は、リスク分析に長けています。統計的手法を駆使していて、様々な状況下で特定の種類の事故がどれくらいの頻度で起こるかを調べています。しかし、原子力発電産業は1950年代から60年代にかけて台頭してきたわけで、それほどデータを持っていなかったのです。小規模の原子力発電所での運転実績がちょっとあっただけなのに、いきなり大規模な原子力発電所をたくさん建設しだしたのです。そのため、建設中の大型原子力発電所(新奇で、複雑で、カスタムメイドで同じものが他に無い)の安全性に関する過去のデータは皆無だったのです。当時、連邦政府の規制当局の幹部で物理学の博士号を持つスティーブン・ハナウアーは、そうした状況を「不快な現実(uncomfortable reality)」と呼びました。彼は、そうした状況を克明に記録して文書として残していました。ハナウアーは、その文書を、粛々と原子力委員会の委員たちに送りました。委員の中には、科学者や技術者だけでなく、弁護士や政治家もいました。委員たちは、送られた書類をファイルに保管しました。

 多くの場合、原子力発電所は、原子力発電所を設計したことのない企業によって設計されています。その上、原子力発電所を運転している事業者(電力会社が多い)も、石炭を燃やしたり電線を張り巡らすことだけは得意なのですが、原子力発電所を運転させた経験が多いわけではありません。原子力関連企業は、賢いもので、原子力発電所を建設することに伴うリスクが低減するまでじっと息を潜めていました。1957年に米国下院でプライス・アンダーソン法(Price-Anderson Act)が可決されるまで、電力会社等は大量の原子力発電所の建設を検討しなかったのです。この法律によって、原子力発電所で万一事故が起きた場合にも、事業者の賠償責任は無限ではなく有限(上限102億ドル)とされました。さらに問題なのは、新興の原子力関連企業が、当局の緩やかな規制の下に置かれていたことです。原子力委員会(AEC)がしたのは、原子力産業が従うべき「一般的な設計基準(General Design Criteria)」を公表しただけだったのです。1965年に公表されたこの基準には、「熱除去システム」の設置を義務付けるという文言がありました。しかし、それはかなり難易度が高い要求だったのですが、公表された基準には細かい指示等は一切記されていなかったのです。原子力委員会は原子力産業にすべて丸投げしたのです。原子力関連企業が熱除去システムの設計について提案すると、原子力委員会はほぼほぼ反対することもなく承認していました。一方、原子力発電所はどんどん規模が大きくなっていきました。最初に作られた原子炉は、1942年にシカゴ大学のフットボール競技場の地下に建設されたものです。それは、電球1個分の電力しか供給できませんでした。しかし、現在、連邦政府が開発を支援しようとしているような原子力発電所は、シカゴ全体の電力を賄えるような規模です。かつて原子力委員会(AEC)の委員長を務めていた人物が言ったのですが、原子力発電所は、この20年で大きく変貌をとげています。その変化は非常に大きなもので、ライト兄弟のキティホーク号がボーイング747になったほどの変化です。その変容は安全性を軽視して乱暴に行われたものかもしれません。見方によっては、長い年月を要する技術革新を短期間で行ったわけで、それを賞賛に値すると評価する人もいないわけではありません。しかし、そうではなくて、その急な変容は、軽率で、無謀なものであったのではないでしょうか。いずれ高い代償を払わされることになるのではないでしょうか。

 連邦政府の原子力関連の専門家連中は、事故が起こる確率を明確にすることはできません。けれども、その結果生じる損害の規模を予測することはできます。簡単な数式を用いるだけで、かなり正確に見積もれます。1957年に原子力委員会(AEC)のブルックヘブン国立研究所(Brookhaven National Laboratory)が予測をして見積もったのですが、その数値が明らかになっています。その見積もりは、広島と長崎の原爆投下後に行われた電離放射線の影響を調査した結果を基にしたものでした。最悪のシナリオは、当時大規模とされていた原子力発電所で重大な事故が起きるという想定でしたが、3,400人の死者が出て、財産被害も70億ドル(現在の貨幣価値に換算すると約740億ドル)に達するというものでした。その8年後の1965年には、ブルックヘブン国立研究所は、最悪シナリオの被害見積もりを更新しました。原子力発電所の規模は年々大きくなっていましたので、被害見積もりはより甚大になものに修正されました。メルトダウン(炉心溶融)によって死者が45,000人出て、放射能汚染はペンシルベニア州と同じくらいの面積に広がる可能性があるそうです。ウェロックが本に記しているのですが、1965年に更新された被害の見積もり数値が原子力委員会(AEC)の本部に届いた時、原子力委員会(AEC)は、その見積もりを公表するのを控えることに決めたそうです。その後8年間、その見積もりは、書類棚に放置されたそうです。誰も触りたがらなかったそうです。1973年になって、シカゴの弁護士マイロン・チェリーがその見積もりの公開を要求したことによって、ようやく公開されました。

 核工学の世界では、大惨事につながるような事故で「チャイナ・シンドローム(China Syndrome)」と呼ばれているものがあります。それは、原子炉核燃料のメルトダウンによって、核燃料が溶け落ち、その高熱により鋼鉄製の圧力容器や格納容器の壁が溶けて貫通し、放射性物質が外に溢れ出すというものです。超高熱の溶融ウランの塊ができ、それが地中に沈んで中国の方角へ向かうので、その名が付いたようです。ウェロックの本によると、1960年代後半以降、このようなシナリオに陥ることを連邦政府は極度に恐れていたようです。また、そのような危険性があることが世間一般に広まると、原子力発電所を作ることが難しくなってしまいます。特に環境保護活動の高まりの中で、そうした風評が広がることは避けたい状況でした。リチャード・ニクソン大統領によって1971年に原子力委員会(AEC)委員長に任命された経済学者ジェームズ・シュレシンジャー(James Schlesinger)が、当時懸念していたのは、原子力発電所の安全性に関して疑義を突きつけられた際に、原子力委員会には十分な知見が無く、科学的根拠に基づいて反論するということができない状況であるということでした。そこで、彼は、原子力発電所で事故が発生する可能性に関する大規模な研究を行いました。しかし、1975年にその研究は終了したのですが、安全性の懸念を払拭するような結果は得られませんでした。逆に、連邦政府が原子力発電所の危険性についていかに無知であるかということが浮き彫りになってしまいました。その結果、原子力規制委員会(NRC)は公表した調査結果を後に否定せざるを得なくなりました。この時に原子力規制委員会(NRC)のトーマス・マーリー(Thomas Murley)という職員が書いたメモをウェロックは入手していました。それによると、専門家が報告した結果を全て公表するべきか否かという議論が為されたようです。シュレシンジャーを始めとする幹部連中は、報告書を作成している部署に注意を促していました。それは、死や怪我や財産上の損害に関する言及は、できる限り曖昧にするようにというものでした。

 ウェロックの本は、原子力発電所がもたらすリスクを隠そうとする犯罪的とも言える陰謀に、原子力委員会(AEC)内部の誰かが関与していたという証拠を示すものではありません。しかしながら、原子力委員会には、将来に渡って原子力発電所では破滅的な事故が起こる危険性は極めて低いという盲信や思い込みが支配的だったことが分かります。根拠もないのに、そう信じる様は、まるでカルトのようでした。「あの頃、みんなどうかしていたんですよ。たわごとだと分かっていることを全員で信じていたのですから。」と、後に原子力規制委員会(NRC)の原子炉規制委員会の理事になったマーリーは言いました。マーリーたちは、原子力規制委員会(NRC)が行っている安全性を検証するための研究を通じて、信頼性の高い非常用冷却装置などの技術が開発されると期待していたそうですし、その研究結果が生かされて安全性がより高まることも期待していたそうです。また、彼らは、たとえ1つの安全システムが機能しなくても、多くの安全システムを準備しておくことで、致命的な事故が発生する確率を限りなく低減させられるという信念も持っていました。例えば、原子炉を頑丈な箱の中に入れて、万が一の事故が起こった際にも放射性物質を外に出さずに封じ込めておくというアイディアがあり、それは実際に実用化されています。しかし、原子炉の規模が大きくなるにつれ、鉄とコンクリートでできた頑丈な箱(格納容器)だけでは十分ではなく、他にもバックアップシステムが必要であることに原子力発電に携わる者たちは気付きました。規制当局が懸念していたのは、地震などの災害が起きて、主電源もバックアップ電源も喪失してしまうような事態でした。そんなことになれば、大量の放射性物質が風に乗って撒き散らされてしまう恐れがありました。さらに、他にも懸念していることがありました。それは、格納容器が機能を果たさない可能性もあるということです。格納容器はメンテナンスや何かの作業のために開いたままであることもあるのですが、事故が起きた際に即時に閉まるわけではないので、その場合は意図した機能を果たせません。

 プリンストン大学の物理学者フランク・フォン・ヒッペルが指摘するように、格納容器は1979年のスリーマイル島原発事故や2011年の福島原発事故では役に立ちました。日本の原発の格納容器は、放射能を全く漏らさないわけではありませんでしたが、放射性物質の放出をある程度は抑えました。そのおかげで、10万人以上の人が放射性降下物による直接的な被害から逃れるのに十分な時間を確保することができました。一方、あの事故から10年以上経った現在でも、約3万5,000人が自宅に戻ることができません。その人たちの自宅の多くは、セシウム137(強いガンマ線を放出し、発がんリスクを高める半減期の長い放射性物質)で汚染されたままです。推測になってしまうのですが、福島原発事故で最も危険だったのは、格納容器外にあった使用済み燃料貯蔵プールが火災が起きそうなくらいの高温になったことです。フォン・ヒッペルらによる最近の分析によれば、もし火災が起きていれば、放出された放射性物質の量は100倍になり、風向きによっては日本の人口の4分の1が転居を余儀なくされた可能性があったそうです。そのような事態になれば、150マイル(240キロ)離れた首都圏も住むのに適さなくなる可能性もありました。