5.確率を踏まえた上で対応するしかない!
基準率は、人が病気にかかる確率を予測する際の重要な要素の1つです。しかし、その確率に影響を及ぼす要因は他にも沢山あります。私が緊急救命室で患者を診断する時、出来るだけたくさんのデータを見るようにしています。沢山データがある方が少し気が落ち着きます。それを十分に読み込んで精査して出来るだけ正しい診断をしようとします。胸に痛みがある患者が診察に訪れた場合、私は医師として年齢、性別、民族を確認します。既往症なども聞いて調べますし、喫煙するか否かとか、近親者に心疾患を患った者が居るか等を尋ねます。胸の痛みや症状についてはどんな具合なのか詳細を聞き出そうとするでしょう。診察室で問診をしますが、その際には患者の表情を観察したり、触診などもします。医師は、基準率の数値(諸々の条件により数値が変わるので把握するのは非常に難しいのですが)を頭の片隅に置きながら、問診等で得た情報等を元にして、何らかの検査を実施すべきか否かを判断し、その患者が心臓発作を起こす確率を計算したり、他の疾患に掛かっている確率を計算しなければならないのです。何らかの検査が必要だと判断して実施した場合には、その検査結果を見て、さらなる検査が必要か否かを判断します。
医師はそのような形で診断を下すわけですが、一旦、罹患している確率はどれくらいであるかを推定します。それで、検査等をして新たな情報やデータや検査結果が出れば、それを反映させて推定した確率の数値を修正していきます。この推定方法は18世紀中頃に英国の長老派教会の牧師兼数学者であるトーマス・ベイズが確立したもので、それ以降ほとんど変わっていません。この推定方法は非常に有用で、ベイズ推定というものです。推定する際には、医師は検査の感度と特異度にも留意しながら、検査の結果が出た後で以前に出した確率の数値を修正していきます。ここからは、仮定の話です。胸の痛みがあると訴える1人の男性が緊急救命室に入ってきたと仮定します。その後、その男が胸の痛みは顎のあたりまで広がっていると言い、喫煙習慣があり、他にも心臓病を発症しやすい危険因子をいくつか持っていることが判明しました。この場合には、ベイズの確立した方法に従うと、まず一番最初にするのは、検査をする前に心臓病である確率がどれくらいかを計算してはじき出すことです。この場合には、得られている情報やデータから判断すると、心臓病を患っている可能性が非常に高いと判断できるので、心臓病である確率は85%という診断を下します。
その後、心電図を撮るなどいくつかの検査を実施します。それらの検査をした結果、異常がない場合はどうすべきでしょうか?検査結果は、その男性が心臓病を患っていないということを示していると言えるのでしょうか?ベイズの確立した手法(ベイズ推定)に従えば、ここで、検査をする前に判断した確率85%という数値と、心電図検査の感度と特異度の数値を合わせて検討することとなります。計算は省きますが、30%の確率で心臓病を患っていないという推測が出来ます。心電図検査の結果を踏まえて、ベイズ推定の結果として分かるのは、その男性が心臓病を患っている確率は60%以上であるということです。その数値は十分に高い数字ですので、医師がその男性が心臓病を患っているという確信が持てないとしても、その男性を心臓病がある患者として扱わなければなりません。
そのようにして推定をして診断を下すのですが、推論から導き出された診断というのは納得性が低いというか、中々受け入れてもらえないことがあります。つい先日のことですが、私は意識の混濁があり衰弱の激しい高齢女性患者を受け入れました。その患者の脳をMRIで検査したのですが、画像には小さな異常がいくつか見られました。その異常が示しているのは、可能性としては2つあって、非常に微小な血栓が出来ているか、MRI画像に傷が生じてしまったかのいずれかでした。私はMRI検査をする前に問診や触診を行いましたが、血栓が出来ている確率が非常に少ないと判断していました。MRI画像に小さな異常があったものの、それは診断の変更を強く迫るようなものではありませんでした。私は、MRI検査の結果が出た後、患者の家族と情報を共有しました。家族はMRI画像に異常があったものの脳に血栓ができている確率は低いという見立てを聞いて、あまりスッキリしないような表情えおしていました。血栓ができている確率が低いわけですから、必ずしも悪いニュースではなかったのにです。家族にとっては、血栓が出来ているか否かというも重要ですが、それよりも確定的な判断が知りたいという思いが強いようでした。
そうはいっても、診断をして医療行為を行う医師は、確率の数値を常に頭の隅に置いておくことが重要です。米国の大学はキャンパスを再開しましたが、その際に全ての学生にPCR検査を課しているところが多いようです。その目的は、陽性の学生を陰性の学生と隔離して感染拡大を防ぐことです。しかし、残念ながらPCR検査はかなりの確率で陽性者を偽陰性と判定してしまうことがあります。新型コロナウイルスは感染力が非常に強いので、偽陰性と判定された陽性の学生が僅かでも居て、陰性の学生たちの中に混じってしまうと急激に感染が拡がってしまいます。実際にそうした事態が発生しています。イリノイ大学アーバナシャンペーン校等いくつかの大学では全学生にPCR検査を実施したのですが、キャンパスで感染が拡がってしまい現在も封じ込めに苦闘しています。
PCR検査は完全に正確な判定をできるわけではないということを理由にして、いくつかの大学はPCR検査を実施しませんでした。ノースカロライナ大学チャペルヒル校は、感染していると疑われる症状を示している者と感染者との濃厚接触が疑われる者に限定してPCR検査を実施するという決定を下しました。全学生に検査をしても「誤った安心感」が生み出されるだけだと主張していました。確かにPCR検査を全員に実施しても万全ではありませんが、ノースカロライナ大学チェペルヒル校の戦略では、無症状の陽性者と症状が出る前の陽性者を検出することが出来ないので、陰性者が陽性者と濃厚接触する可能性を排除することは出来ません。それに比べるとボストンにあるノースイースタン大学のとった戦略の方が優れているのかもしれません。つい先日、ニュースになっていましたが、その大学はソーシャルディスタンス確保規則に違反したとして11人の学生を退学させました。少し厳しすぎる措置のように感じなくはないですが、ノースイースタン大学は学内でウイルス感染を封じ込めるためには必要な措置であると主張しています。とても理にかなっています。ノースイースタン大学では、全ての教職員が週に2回PCR検査を受けていますし、学生がキャンパスに戻る際には、1日目と3日目と5日目にPCR検査を実施しています。それで、3回とも陰性の結果が出た学生のみ授業に出ることを許されます。ノースイースタン大学の幹部は、PCR検査で陰性との判定が出ても、その判定が必ずしも正確でないことを認識していて、それだけに頼っては感染を防げないことを認識していました。新型コロナに感染している確率を判断するには沢山の要因から分析しなくてはなりません。感染を封じ込めるためには、同時にいくつもの対策を実施することが必要で、検査するだけでは不十分なのです。
医療検査の結果が完全には正確ではないということが、さまざまなことを煩わしくしているのですが、影響を受けるのは医療関係者だけにかぎりません。新型コロナ禍を生きている全ての人に影響を及ぼしています。例として、1人の男性が発熱し咳をしているとします。彼は新型コロナの感染者数が急増している都市に住んでいます。彼の同居人が直近で陽性検査を受けたのですが結果は陽性でした。彼はそうした経緯を全て私に話したとします。私は彼が新型コロナに感染している確率はかなり高く75%だと推測します。その後、彼はPCR検査を受けます。結果は陰性と出ました。PCR検査では陽性でも誤って偽陰性と判定される可能性がありますから、その確率を踏まえて、ベイズ推定の方式で彼が陽性である確率を推測します。すると、彼はPCR検査で陰性と判定されたものの、陽性である確率は50%以上もあることが分かります。
上の話は、例え話ではなく、実際に起こったことで、偽陰性と判定された男性は私の弟です。弟が私に聞いてきたのは、父と接触しない方が良いのではないかということでした。というのは、父は癌で2度入院したことがあり新型コロナに感染すると重篤な症状に陥る可能性があると思っていたからです。私が弟に言ったのは、PCR検査で陰性と判定されたものの、陽性であった場合と同様の行動をして欲しいということでした。弟は、陰性と判定されたにもかかわらず、ちっとも安心できないという事実に少し驚いていましたが、父と接触すべきではないという私の意見には同意してくれました。
以上