3.参加型予算編成のメリットと限界
カスカイス市長のカルロス・カレイラス(Carlos Carreiras)は61歳です。海から目と鼻の先にある2階建ての美しい建物で執務しています。その建物の外観にはタイルモザイクで聖書の一場面が描かれています。19世紀に描かれたもののようです。私は彼とその建物の2階の天井の高い会議室で会いました。カレイラスはエレガントなスーツに身を包んでいました。さしづめ地方銀行の最高財務責任者といった風貌でした。実際、彼は2011年に市長になったのですが、その前は何年も財務関連の仕事に就いていたそうです。私はカレイラスに、なぜ参加型予算編成にこだわるのかを尋ねてみました。
「お尋ねしますが、あなたは”愚か者(stupid)”という言葉を理解していますか?」と、彼は椅子の背もたれに寄りかかりながら両手を広げて私に尋ねました。「もし『
全ての問題を理解して、全ての解決策を知っている。』と言う市長がいたとしたら、その市長こそが愚か者です。市長がすべてを知っていると仮定することは、まったく間違っていますし、意味がないことです。」
カレイラスは、参加型予算編成は、多くの人の脳を利用する分散インテリジェンスシステムのようなものだと言っていました。つまり、多くの脳が、並列で協調・競合しながら相互作用をすることで全体として最適な答えを導き出すようなシステムのようだと言うのです。そのおかげで、市民の集合知が活性化されています。毎年、同市では参加型予算編成の会議で出された全アイデアをリスト化し、それを分析して市民の要望や懸念を拾い出そうとしています。たとえば、あるアイデアが採用されずに実現されなかったとしても、そのアイデアが重要な問題を示唆している場合があります。公園がない地域に公園を作るとか、横断歩道がない交通量の多い道路に横断歩道を設置するアイデアが却下されていることがあるわけですが、それらは、市が他の手段で対処すべきことを示唆しています。3年前、ある公立学校の提案したプロジェクトが一般投票で賛意を多く集めリストの上位に選ばれました。その学校は、敷地内の古い建物からアスベストを取り除くことを提案していました。市は現在、地区内のすべての学校で同じ作業をすることを計画しています。カスカイスの参加型予算編成で実施が決まったプロジェクトの大部分は、学校、道路、古い建物、緑地、運動施設などの改善という、地味なインフラ整備に関するものです。このことは、効果的な参加型予算編成という制度があれば、市民の基本的なニーズを満たしながら、市民を直接政治に参加させられる可能性があることを示唆しています。それは、ポルトガルだけでなく、世界のどこでも当てはまることだと思われます。もちろん、連邦政府の支出が厳しく制限され、国政が機能不全に陥っている国、ここアメリカでも当てはまります。
この10年間で、カスカイスは参加型予算編成の世界的なモデルとなりました。フランス、クロアチア、モザンビークなど、世界中の都市がそのアプローチの一部を取り入れています。アメリカ最大級の規模を誇るニューヨーク市の参加型予算編成プログラムは、”参加型予算発案(New York City’s Participatory Budgeting initiative、略号PBNYC)”と呼ばれていますが、カスカイス市の仕組みを参考にしています。PBNYCは、その仕組みや年間スケジュールはカスカイス市とほぼ同じです。しかし、2019年にこのプログラムに3,500万ドルが割り当てられたのですが、それはニューヨーク市の年間インフラ投資額の0.5%にも満たないのです。カスカイス市が費やしたのと同じ割合にするためには、ニューヨーク市はこのプログラムを通じて年間10億ドル以上を費やす必要があります。
カスカイス市のプログラムの成功を、他の都市で完全に再現することは難しいかもしれません。参加型予算編成の専門家は、予算のかなりの割合をそれで決まったプロジェクトに投入することも重要だが、それだけで参加型予算編成に対する信頼が得られるわけではないと強調しています。ポルトガル人のコンサルタントで、20年にわたり世界各国で政府や行政に参加型予算編成のプログラムの設計について指導してきたネルソン・ディアス(Nelson Dias)が指摘していたのですが、十分な資金が投入されないか、行政の実行能力が貧弱であることが理由で、多くの参加型予算編成のプログラムが躓いているそうです。また、政治的な環境もプログラムが上手くいくか否かに大きく影響するそうです。ブラジルでは、参加型予算編成のプログラムは左翼的な取り組みだと思われていたため、成果を出した都市はそれほど多くなかったそうです。ポルトアレグレ(Porto Alegre:ブラジル南部の人口150万人の都市)では、2004年の選挙で参加型予算編成の仕組みを導入した政党が敗北しました。それ以降この仕組みで実施が決まったプロジェクトの多くが滞るようになりました。2005年から2016年の実績を見ると、実施が決まったプロジェクトで、無事に完了したものは全体の半分以下にとどまっているようです。
また、参加型予算編成にとって恵まれた環境が整っていたとしても、その仕組みが必ずしも上手く機能するわけではありません。構造的な問題に直面するというか、限界があります。例えば、市民参加型の意思決定プログラムを通じて最低賃金の引き上げをすることはできません。また、手頃な価格の住宅政策を再構築することも、使い捨てプラスチックを禁止することなどもできません。コインブラ大学(University of Coimbra)社会科学センターの上級研究員であるジョバンニ・アレグレッティ(iovanni Allegretti)は、「市民参加型の意思決定プロセスを導入しても、貧困地区の運命を変えることはできない。」と言っていました。アレグレッティが指摘していたのですが、参加型予算編成の仕組みは、限られた資金を長期的でない多くのプロジェクトに割り振る際には、最も効率的で効果的な手法です。ただ、それ以外の分野では特に効果的なわけではありません。しかし、参加型予算編成の仕組みが効果的に機能すると、そうでない時にはほとんど力を持たない人でさえも大きな政治的な力を得ることができます。
3年前、カスカイス市で開催された青少年の公開討論会で、カロライナ(Carolina)という女子中学生が理科の授業をもっと面白くするというアイデアを披露しました。彼女は、児童は外に出て実地で自然について学ぶべきだと考え、近くの山間地に野外教育センターを作る計画を立てていました。そのアイデアは時間をかけて何度も修正されて、洗練された実行可能な提案にまとめられました。彼女の提案は、参加型予算編成の会議で最上位に選ばれました。それで、彼女は父親と一緒に市の関連部署のスタッフに実現可能性やコスト等について評価してもらい、何度も面会を重ねました。その結果、遂に実現可能な計画案がまとまりました。彼女の提案では、完成する施設には児童が野外学習のために宿泊することができます。夜に星を見て、昼には生態系を学ぶこともできます。1カ月間の一般投票期間中、彼女は学校が終わった午後などにカフェやショップ等で、見知らぬ人に声を掛けて自分の提案に投票してもらうよう説得を続けました。12月に結果が出たのですが、彼女の提案は一般投票でも上位に残り、35万ユーロの資金が投じられることが決まりました。既に建設が始まっています。♦
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