頑張れっ ユニクロ! 世界制覇の日は遠くない?

3.ユニクロ成長の軌跡

 1949年、柳井正が小さな炭鉱町宇部に生まれた当時、日本はまだ占領下にあった。「とても貧しかった」と柳井はかつてフィナンシャル・タイムズ( the Financial Times )紙に語った。宇部の街はジョン・フォード( John Ford )監督の 1941 年の映画「 How Green Was My Valley (わが谷は緑なりき)」に登場するウェールズの荒涼とした村、クーム・ロンダ( Cwm Rhondda )を思い出させると柳井は語っている。チョコレートとコーヒーは憧れの的だった。地元の炭鉱が閉鎖されると、柳井の多くの友人やその家族が宇部を去った。

 20 世紀半ば、日本人が洋装をし始めてからまだ 80 年ほど経った頃である。徳川幕府は 1603 年から 1868 年まで続いた。長らく鎖国政策( national seclusion )を敷いた。日本の国境を閉ざし、外国の文化の影響を遮断していた。その後、明治政府が国の「近代化( modernize )」を目的とした改革を断行した。兵士にはフランス軍に倣った制服が支給された。1871 年の断髪令( the Haircut Edict )で、侍は伝統的なちょんまげ( chonmage topknot )を止め、髪を短く切るよう命じられた。しかし、一般の人々の装いは以前とほとんど変わらなかった。京都工芸繊維大学( the Kyoto Institute of Technology )のファッション史家、本橋弥生( Yayoi Motohashi )によると、「第一次世界大戦後、都市部の上流階級や中流でもアッパーな階級の女性の間では洋服の着用が多少増えたものの、第二次世界大戦までほとんどの人にとって着物が標準的な服装のままであった」。

 第二次世界大戦で日本は焦土と化したが、その後の 7 年間の占領によって日本国民の多くが必然的にアメリカ文化に接することとなり、アメリカに対する関心が高まった。一部の者たちにとっては大きな魅力であった。「深刻な飢餓と物資不足の時代であったので、アメリカ人の物質的な豊かさに、日本人の多くはただただ驚くしかなかった」と、歴史家ジョン・W・ダワー( John W. Dower )は著書「 Embracing Defeat: Japan in the Wake of World War II (敗北を抱きしめて:第二次世界大戦後の日本)」の中で述べている。繊維不足の中、多くの退役軍人は擦り切れた軍服を着続けるしかなかった。衣類を手に入れるには、闇市をくまなく探すしかなかった。

 柳井の両親は、ごく平凡な紳士服店を経営していた。家族は店の上の 2 階部分に住んでいた。やがて、よりカジュアルな 2 号店をオープンさせた。そこではヴァン・ジャケット( VAN Jacket )ブランドを取り扱った。ヴァンは「男の服装」や「平凡パンチ」などの雑誌とともに、戦後の日本に大きな影響を与えたプレッピーなファッションスタイルの流行を巻き起こした。これが「アメトラ( amerora )」である。American traditional の略語である。W・デイヴィッド・マークス( W. David Marx )は著書「 Ametora: How Japan Saved American Style (アメトラ:日本がアメリカンスタイルを救った物語)」の中で、こうしたスタイルは「数十年かけて日本に伝わり、日本社会の様相を一変させ、そしてブーメランのように逆に世界のスタイルに影響を与えた」と記している。

 アメリカではアイビーリーグ( the Ivy League )風のスタイルは保守主義の代名詞だったが、日本では伝統的慣習への反逆を象徴するものだった。1964 年の東京オリンピックを前に、警察は東京で一番ファッショナブルな街、銀座周辺を一斉に取り締まり、「みゆき族( Miyuki Tribe )」として知られるファッションに敏感な学生グループのメンバーを摘発した。彼らの罪状は、プリンストン大学の 2 年生のような格好で銀座をうろついたことだった。マークスが記しているのだが、警官がボタンダウンシャツを着てジョン・F・ケネディ( John F. Kennedy )風の髪型をした者の足を止めていたという。目的は、外国人観光客にシワのついた綿パンを履いた行儀の悪い日本のティーンエイジャーを見せないことである。それが変な噂話として海外に伝わるのを恐れていたのである。そんな時代であったが、柳井はひるむことなく白いボタンダウンシャツとコンバースのスニーカーを身につけた。彼の高校でそれをしたのは彼が初めてであった。

 柳井は東京の早稲田大学( Waseda University )政治経済学部に入学したが、学生運動の影響で 1 年以上授業が中止された。1968 年に学業が行き詰まったため、彼は両親の資金援助を受け旅に出た。「海外に行きたかった。日本以外の世界がどのように動いているのか、人々がどのような生活を送っているのかに興味があったからである」と、韓国の雑誌「マガジン B ( the Magazine B )」に語っている。 彼はアメリカン・プレジデント・ラインズ( American President Lines )のクルーズ船でハワイ( Hawaii )経由で、サンフランシスコ( San Francisco )に行きグレイハウンド・バス( Greyhound bus )でアメリカ中を旅した。今でも彼のオフィスにはそのクルーズ船の模型が飾られている。

 1972 年に大学を卒業した柳井は両親の経営する店で働き始めた。2 年後、正式に店の経営を引き継いだ。毎晩、手書きで台帳にその日の売上を記録した。それをつぶさに見ることでトレンドを見極めることができるようになった。店の従業員たちに、掛売りでスーツを販売するという採算の取れない慣行をやめるよう指示したのだが、1 人を除いて全員が辞めてしまった。1984 年、彼は広島にさらに大きな店、ユニーク・クロージング・ウェアハウス( Unique Clothing Warehouse )をオープンした。この店名は、ニ​​ューヨークで愛され、1973 年から 1991 年までブロードウェイと 8 番街の交差点にあった店と同じである。当時まだ無名だった画家のジャン=ミシェル・バスキア( Jean-Michel Basquiat )を雇用していたことでも知られている店である。柳井が許可なく店名を盗用した可能性が高い。

 それ以降、ユニクロと短縮した形が通称となったのだが、当初は数多くのブランドを格安価格で販売していた。同社の 2 号店の正面には「ノンエイジ・ユニセックス・オールサイズ( NON SEX NON AGE NON SIZE )」という柳井自身がカラフルな文字で描いたスローガンが描かれている。すぐに柳井は自社で製品を製造するよう舵を切った。多くはアメトラの伝統が感じられるものであった。当時、アメトラという語はアウトドアウェアなど他のアメリカンスタイルも包含するように変わっていた。拡大したアメトラの伝統が今も同社の製品の特徴となっている。「それは簡素化され、さりげなく、飾りのないベーシックなものである」とマークスは語る。「例えばユニクロのシェトランドセーター( Shetland sweater )を見てほしい。ユニクロがやっているのは、その精神を受け継ぎ、世界中の誰もが着ることができる、技術的に最高の、最もセーターらしいセーターを作ろうとすることである」。

 1990 年までにユニクロは 100 店舗以上に拡大した。その多くは倉庫のような路面店で、顧客は車でやってきて衣類なら下着も含めて何でも買うことができた。ユニクロは現在でも日本だけでなく海外でもこの形態の店舗をたくさん運営している。1988 年、柳井は香港に子会社を設立したが、そこで店員が誤って店名を「ユニクロ( Uniqlo )」と掲げてしまった。「このままにしておこう」と柳井は言った。この綴りにある種のダイナミズムがあると思ったからである。日本は深刻な不況に見舞われていたが、ユニクロは成長を続けた。派手な消費が好まれなかった時代に、困窮する大衆にお買い得な商品を提供した。裕福な消費者には気軽に買い物できる場を提供した。

 同社にとって、1998 年は転換点となった。まさしくフリースの年( the Year of the Fleece )だった。「当時、フリースのモコモコした生地は田舎のイケてない男性用のアイテムと見られていた」と本橋は語る。「決してファッショナブルなアイテムではなかった」。素材としての評判とは裏腹に、フリースは比較的高価だった。ユニクロは、チャンスと捉えた。大量生産によってフリースジャケットを、ダサい実用衣料からスタイリッシュで手頃な価格のベーシックアイテムに変えた。日本では、ミント( mint )、ラベンダー( lavender )、コーンフラワーブルー( cornflower blue )、クレメンタインオレンジ( clementine orange )、ライムグリーン( lime green )など、鮮やかな 50 色のジャケットが頭上のベルトコンベアに載せられて運ばれてくるテレビコマーシャルを今でも覚えている人がいるという。2000 年にはこの 18 ドルのフリースを日本で 2,600 万枚売った。これは日本の人口の 20% 以上の人に着せるのに十分な数である。

 ユニクロは 2005 年にニュージャージー州エジソン( Edison )のリージョナルモールにアメリカ初の店舗をオープンした。翌年には、ソーホー地区に 3 万 6,000 平方フィート(約 3,300 平米)のフラッグシップ店舗をオープンした。これは、ソーホー地区で単一ブランドとしては最大の衣料品店である。その狙いは、アメリカの小売業界を席巻することである。また、チーズケーキファクトリー( the Cheesecake Factory )やディーン&デルーカ( the Dean & DeLuca )の顧客にも、野心的な新進アパレルブランドの到来を知ってもらうことである。「もし私が小さな店を開店したら、誰も注目しなかっただろう」と柳井はニューヨーク・タイムズ紙に語った。「私たちが何者なのかを人々に知ってもらうためには、大々的に出店しなくてはならないのである」。

 ニューヨークの消費者はユニクロを好意的に受け入れた。ある投資銀行に務める男性は T シャツ、靴下、下着をあまりにも頻繁に購入したため、店舗スタッフは彼が洗濯をしないのではないかと疑うほどだった。スキニージーンズ( skinny jeans )が人気を集め、流行の先端を行く顧客はユニクロのデニムの異例なほど細身のカットを高く評価する。アメリカ市場への参入に固執した柳井は、高級小売店バーニーズ( Barneys )の買収を試みたが失敗に終わり、その 2 年後にはギャップ( Gap )の買収を企てているという噂が飛び交った。これらの取引は結局成功しなかったが、ファーストリテイリングは最終的にはセオリー( Theory )や J ブランド( J Brand )などのアメリカ企業を買収した。2009 年にニューヨークの雑誌ザ・カット( The Cut )は、ユニクロは「ファッションの奇跡( fashon miracle)」を起こしたと報じた。というのは、隠遁的なドイツ人デザイナーのジル・サンダー( Jil Sander )を説得し、「 +J 」と呼ばれるコレクションを制作したからである。2010 年までにユニクロはニューヨークで非常にポピュラーとなり、ニューヨークっ子たちはユニクロを「最もホットな小売店( hottest retailer )」と称し、ユニクロの顧客を「ユニクロンズ( Uniqlones )」と呼ぶ。

 アメリカの他の地域では、同社の戦略はうまく機能しなかった。ショッピングモールに来る買い物客は、ブランドロゴが付かず、トレンドを取り入れず、めったに値下げしない無名の日本ブランドよりも、馴染みのあるブランドを好んだ。また、ユニクロの衣類はスリムすぎて、アメリカ人の中には太っちょが多いわけで、サイズが合わない顧客が少なくなかった。柳井の自伝は「一勝九敗( One Win Nine Losses )」と題されているが、これは失敗から学ぶという彼の性格を上手く反映している。しかし、アメリカでの事業展開の失敗は、別の次元の敗北を意味していた。「アメリカは私の最大の失敗であった」と彼はタイム( Time )誌に語った。

 損失が膨らむ中、ユニクロはアメリカ国内の一部店舗を閉鎖した。2000 年代初頭には、アメリカにおける事業の軸足は、交通量の多い都市部の旗艦店の展開に置かれていた。先日、同社は北アメリカの店舗数を 2027 年までに 106 店舗から 200 店舗に拡大し、新たな地域にも進出するという積極的な計画を発表した。昨年は、オンライン販売が特に好調だったテキサス州に初出店した。

 ユニクロはアメリカ市場向けにサイズを調整している。アメリカの S サイズは日本の M サイズに最も近いのだが、アメリカの消費者の不満が完全に無いわけではない。先日、エッセンス( Essence:洗練されたアフリカ系アメリカ人女性を対象としたライフスタイル・マガジン)が、表紙にマイケル・B・ジョーダン( Michael B. Jordan )とライアン・クーグラー( Ryan Coogler )がパリッとした白いエアリズム( AIRism )オーバーサイズ T シャツを着た姿を掲載したところ、多くのコメントが寄せられた。いずれもユニクロの店舗では XL より大きいサイズを取り扱っていないことを残念がるものであった。ちなみに、XXL と XXXL はオンラインのみで入手可能である。また、同社はアメリカの多くの地域でまだ認知されていない。「彼らは本当にマーケティングを強化する必要があると思う」と、ザ・ビジネス・オブ・ファッション( The Business of Fashion )で小売業を担当するキャサリーン・チェン( Cathaleen Chen )は語る。「ほとんどの人はユニクロのテレビ CM がどんなものか知らない」。とはいえ、同社の本格的進出は結果を残しつつある。昨年、北アメリカ市場での収益は 30% 以上増加した。