2.著作権法の問題点
強調しておきたいのだが、ブルース・スプリングスティーンが曲を発表したり、ジョリー・グラハム( Jorie Graham:詩人。アメリカの戦後世代で最も有名な詩人の 1 人)が詩を発表する時、それは全人類の財産である。作曲、詩、芸術作品、書籍、TikTok の動画など、あらゆる種類の文化的製作物は公共財( public good )である。全人類が、娯楽のため、教養のため、インスピレーションやモチベーションのため、そして時には陳腐な模倣のために、それらを利用する。デジタル革命( digital revolution )のおかげで、これらの公共財はかつてないほど低コストでより多くの人々が利用できるようになっている。そして、私たちはそれらを使って何でも好きなことができる。好きな時に何度でも楽曲を聴いたり詩を読んだりすることができる。そうすることによって、楽曲や詩を自分自身で創作する意欲をかき立てられる。私たちにできないこともある。それは、限られた期間であるが、それらのコピーを市場に出すことである。
その期間は、合衆国憲法第 1 条( Article I of the Constitution )に列挙された権限に基づき、連邦議会が定めている。第 1 条 8 項 8 号に、「著作者および発明者に、一定期間それぞれの著作および発明に対し独占的権利を保障する。」との記述がある。1790 年に可決された最初の連邦著作権法では、著作権の期間は作品が登録のために提出された日から 14 年間と定められた。さらに 14 年間更新することが可能だった。
現在は、著作権を保持するために作品を登録する必要はなくなっている。また、著作権の保護期間は何度も延長された。1978 年以降は、創作者の死後 70 年となっている。団体著者( corporate authors )、つまり従業員に報酬を支払って著作物(いわゆる「職務著作物( work for hire )」に該当)を作らせる企業については、発表・公開から 95 年、もしくは創作日から 120 年のいずれか短い方となっている。1928 年に初めて公にされたミッキーマウスは、今年の初めに公共財産( public domain:パブリックドメイン )になった。しかし、それは 1928 年の初代版のみが対象である。初代版以外のアップデートされているミッキーの著作権は引き続き保護されている。このことから分かるように、創作された著作物が公共財産になる頃には、創作された頃に生きていた者は誰も残っていないのである。ほぼ間違いなく全員が墓石の下で眠っている。
私にとって自分の創作物に対する権利は、多少の収入を生み出すものの、残念ながら大した金銭的価値はない。それは間違いない。推測であるが、この記事をお読みの方のほとんども同じであろう。しかし、もしあなたが楽曲「明日への暴走( Born to Run )」を書いた人物であるならば、全ての楽曲の権利を企業等に譲渡することが賢明である。そうすれば、あなたが存命中に、その企業があなたの死後も受け取り続ける収入総額のかなりの部分を支払ってくれる。少なからず手間賃が引かれるだろうが、生きている内に死後の収益を前払いで受け取ることができる。ベロスとモンタグが論じているのだが、著作権法( copyright law )はもともと 18 世紀にイギリスで制定されたもので、主として出版社を、また、付随的に著述者を海賊版から守ることが目的であったという。しかし、長い年月を経る内に変容し、世界的な影響力を持つ巨大企業の権利をことさらに強調するものになってしまった。今日、著作権法において、企業は著作者( authors )として扱われ、ソフトウェアのソースコードなどは「文学的著作物( literary works )」として分類される。そのため、特許よりもはるかに長い保護期間が与えられている。発明として分類された場合には特許権が与えられるが、現在の法律ではいくつかの例外を除き 20 年しか保護されない。
ベロスとモンタグは、現在の著作権の保護期間が不合理であると主張している。多くの著作権法に詳しい専門家もその主張に同意している。さて、著作物の中には、相続人や大富豪や企業等が他の資産と一緒にして、ひと纏めで購入しているものがある。その場合、その中に含まれている著作物は、私たちからすると、誰がどんな著作物を保有しているか良くわからない状況となってしまう。それらの著作物を使いたくても、誰が権利を持っているかが分からない場合も多い。訴訟のリスクを恐れてその著作物を使う者が現れないので、保管庫に死蔵されることとなる。多くのビデオ映像がそうした状況にある。絶版になった無数の書籍、もはやどのフォーマットでも購入できない楽曲も同じである(モータウン・レーベルの楽曲の多くが該当する)。著作権法には「使わなければ駄目になる( use it or lose it )」という規定はない。
著作権を相続している者たちも、かなり優遇されており、支配的であると言える。マーティン・ルーサー・キング牧師( Martin Luther King, Jr. )の遺族は、EMI ミュージック出版( EMI Music Publishing )と共同で、有名な「私には夢がある( I Have a Dream )」と語りかける演説のフィルムと録音に関する権利を所有している。1996 年、キング牧師の遺族は、その演説の一部を無断で使用したとして CBS を訴えた。しかし、そもそもそのフィルムはキング牧師の遺族にきちんとライセンス料を支払って CBS が作成したものであった。「先方が 1 ドル儲けるなら、当方に 10 セント分け与えるべきであるという原則に則っている。」と、キング牧師の息子デクスター( Dexter )は言って自身の考え方を説明した。CBS に一審で下された評決は控訴審で覆され、キング牧師の遺族は相応の支払いを受ける形で和解した。この時、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア非暴力社会変革センター( the King Center for Nonviolent Social Change )への寄付という形にしたため、税金控除の対象となった。CBS は訴訟を起こす余裕があったが、一般人の場合には不可能である。
多くの企業は強欲に著作権から利益を搾り取ることができる。ベロスとモンタグは、あるドキュメンタリー映画制作者のエピソードを聞かせてくれた。その人物は何人かの労働者が座ってボードゲームに興じるシーンを撮影した。その時、たまたま背景にテレビ画面が入り込んでいた。画面では「ザ・シンプソンズ( The Simpsons )」が流れていた。映っていた 4 秒間の「ザ・シンプソンズ」のシーンの使用許可を申請したところ、製作した 20 世紀スタジオに 1 万ドルを要求された。
背景に入り込んでいる映像に関する訴訟で悪い意味で有名なものがある。それは、俗に言う「ダンシング・ベイビー( Dancing Baby )」訴訟である。問題となったのは、ある母親が撮影した 29 秒間のユーチューブ( YouTube )動画である。プリンスの曲に合わせて 13 カ月の赤ちゃんが跳ね回っていた。2007 年、プリンスのレーベルは著作権侵害を申し立て、ユーチューブに動画を削除させた。当案件は、結局法廷に持ち込まれた。動画を撮った母親ステファニー・レンツ( Stephanie Lenz )が勝訴したものの、判決が出るまでに 10 年の歳月が費やされた。こういうことがあるので、写真を著書に掲載しようとする著作者は、その写真の背景に絵画が写り込んでいる場合、たとえ小さいものであっても、写真の権利者だけでなく絵画の権利者からも許諾を得ることが推奨されるのである。
これは馬鹿げたことである。というのは、そこらに転がっているほとんどの書籍に載っている写真のほとんどはウェブ上に存在しており、何十億人が無料で閲覧できるからである。しかし、著作者は、運が良ければ 1 万人か 2 万人が読むであろう著書に 1 枚の写真を掲載するために数百ドルの使用料を払わなければならない。世界最大の写真画像代理店ゲッティイメージズ( Getty Images )は、ライバルのほとんどを買収した後、現在では 4 億 7,700 万点以上の素材(宣伝・広告・報道用に使える画像、映像、音楽素材)を提供している。その価値は 50 億ドルと推測されている。報道写真を転載したい場合、ゲッティがその権利を持っている可能性が高い。
レンツのダンシング・ベイビー訴訟でもそうなのだが、著作権を巡る訴訟のほとんどで、司法による正確な定義がなされていない用語が重要なキーワードとなっている。それは、フェアユース( fair use )である。フェアユースとは、一定の条件を満たしていれば、著作権者から許可を得なくても、著作物を再利用できることを示した法原理である。コモンズ(共有の財産:commons )を使う際には、フェアユースが認められている。エズラ・パウンド( Ezra Pound:アメリカの詩人、音楽家、批評家)は、「 Make It New(新しく作り直せ)」と口癖のように言っていた。彼が言いたかったのは、古い表現を新しい用途に使うことが文明を進化させるということである。古い表現を保護するファイアウォールが高いと、ダイナミックに新しい文化が生まれるチャンスの芽が摘まれてしまう。