3.著作権関連裁判での不確実性
ベロスとモンタグが繰り返し指摘しているように、すべての新しい創作物は既存の創作物から派生したものである。私たちが詩を書いたり映画を作ったりする時、頭の中にはこれまで読んだ詩や見た映画がある。哲学者は先達の哲学者の業績を土台とし研鑽を積み、歴史家は他の歴史家を土台とする。同じ原理がティックトック( TikTok )動画にも当てはまる。もっと言ってしまえば、同じ原理が人生にも当てはまる。人は誰しも自分一人で生きていけるわけではない。
著作物を借用しても問題ない領域と、借用すると剽窃として罰則の対象となる領域の間に、グレーな領域が存在していて、ほとんどの著作権に関する紛争はこの領域で繰り広げられている。著作物の借用が合法と見なされる場合の 1 つは、元の素材の借用が「変容的( transformative )」と認められる時である。しかし、変容的という用語はどの法律でも定義されていない。これは判事が作った基準であり、明らかに主観的なものである。フェアユースか否かが問題となる訴訟が悩ましいのは、権利の侵害の主張が往々にしてこじつけに感じられるからだけではなく(権利者の損害が無いように思えることもある)、結果が予測不可能だからでもある。そして、予測不可能であると、フェアユースだと思って共有の財産を使うにしても、何かと不都合が多くなる。
マーガレット・ミッチェル( Margaret Mitchell )の「風と共に去りぬ( Gone with the Wind )」を黒人の視点で再解釈してアリス・ランデル( Alice Randall )が 2001 年に書いたパロディー小説「The Wind Done Gone(未邦訳:『去ってしまった風』の意)」の出版社が、ミッチェルの著作権を管理する財団から権利侵害で訴えられた。ランデルの出版社であるホートン・ミフリン( Houghton Mifflin )は、モアハウス大学( Morehouse College:アメリカに 4 つしか無い歴史的黒人大学の 1 つ)に寄付をすることで合意し、両当事者は和解した。これは奇遇と言うべきで、「風と共に去りぬ」の作者の残した権利が、黒人アメリカ人の人生のチャンス拡大に寄与する形となったわけである。トールキン( Tolkien )のファンである作家ディミトリアス・ポリクロン( Demetrious Polychro )のケースについても述べておきたい。彼は、トールキンの「 The Lord of the Ring(指輪物語)」の続編「 The Fellowship of the King (未邦訳:『王の友情』の意)を出版した。しかし、先日、トールキン財団への著作権侵害で、差止命令を受け賠償金支払いを命じられた。ポリクロンはトールキン財団に許可を求めたが断られていた。それで、仕方なく自費出版した。アマゾンで売られていることを財団が知ることとなった。
ランデルのケースについて、出版社のホートン・ミフリンは、ランデルの作品は新しい視点で物語を紡いでいるため、ミッチェルの作品の変容的利用( transformative use )にあたると主張した。確かに、この作品は明らかに原作の精神に則って書かれたものではない。ポリクロンのケースでは、指輪物語の続編は意図して原作に忠実に作られていた。彼はそれを「絵に描いたような完璧( picture-perfect )」な作品と呼び、トールキン自身が書いたかのような作品にすることを意図していた。また、ポリクロンは、自身が手がけた独自の指輪物語の続編の著作権を侵害したとして、トールキン財団とドラマ「ロード・オブ・ザ・リング:力の指輪( The Lord of the Rings: The Rings of Power )」を手がけたアマゾンに対し訴えを起こしていた。この訴訟では、彼による訴えは「軽率で不当な( frivolous and unreasonably )」なものと見なされた。彼は、結局反訴され、敗訴した。
アンディ・ウォーホル( Andy Warhol )からジェフ・クーンズ( Jeff Koons )に至るまで、ポップアート界では、明らかな画像の流用が行われているため、フェアユースを巡る訴訟が頻繁に発生している。明らかに「変容された( transformed )」ものはほとんどない。昨年春のアンディ・ウォーホル財団 VS ゴールドスミス訴訟において、最高裁は、プロの写真家であるリン・ゴールドスミス( Lynn Goldsmith )が撮影した写真を元にしたウォーホルのシルクスクリーン作品は、その写真家の著作権を侵害したとする判断を下した。ちなみに、まったくの偶然であるが、ウォーホルが題材にした人物はダンシング・ベイビー訴訟と同じだった。そう、プリンスである。
最高裁のソニア・ソトマイヨール( Sonia Sotomayor )判事が書いた判決は、ゴールドスミスの写真もウォーホルの作品も、プリンスに関する雑誌記事に添えられるという同じ商業目的を持っていたため、ウォーホルの作品はフェアユースにあたらないと指摘した。最高裁は判断を下したが、その範囲は雑誌の挿絵として画像の使用を許諾する権利が誰にあるのかという問題にほぼ限定されていた。また、ウォーホルが作成したプリンスのシルクスクリーン作品そのもの( 14 点と鉛筆画 2 点)がフェアユースに該当するかどうかという、今後爆発的に増える可能性のあるアート市場に関する問題には触れなかった。1962 年に製作された美術作品群である「キャンベル・スープの缶( Campbell’s Soup Cans )」以降、ウォーホルの作品の多くは、他の者が制作したイメージやデザインを複製したものである。それらの作品は、ウォーホルが手掛けたから「変容的( transformative )」なのだろうか?もし私が同じことをしたら、フェアユースを主張できるだろうか?
現在、著作権法を巡って紛争が頻発している分野がある。ポップミュージック( pop music )である。ポップミュージックは、高度に定型化された芸術( formulaic art )であり、ある程度のコピーは避けられない。12 小節のブルース( blues music )のほとんどは、同じ 3 つのコードで作られている。ジャズ( jass )の多くの曲は、リズム・チェンジ ( rhythm changes:ジョージ・ガーシュインが作曲した『アイ・ガット・リズム( I Got Rhythm )』を元にしたコード進行のこと)と呼ばれるコード進行に基づいている。フォーク( folk )にはフォークの、ロック( rock )にはロックの、カントリー( country )にはカントリーのサウンドがある。これらのサウンドは、それぞれのジャンルに特有のボーカルと楽器の組合せから生み出され、それぞれのジャンルには特有のテーマ( themes )、主題( tropes )、イメージ( imagery )がある。
なぜなら、純粋芸術( fine arts )の世界ではオリジナリティが高い価値を持つが、エンターテインメント・メディア( entertainment media )では模倣、より正確に言うと違いのある模倣が高い価値を持つからである。人は誰しも既に好きな音楽を好む。映画もそうである。だから、「ダイ・ハード( Die Hard )」の 1 作目がヒットすると、すぐに続編が製作される。実際に 4 作目まで製作された。多くのリスナーは、自分が好きな曲と似たサウンドの曲を求める。また、ヒット曲が出ると、多くのアーティストが売れまくっている曲に便乗しようとし、類似した曲が雨後の筍のように次々と現われる。
楽曲の著作権を巡っては、実は常識で考えるよりも緩い状況となっている。私は何の許可も得ずに「明日なき暴走( Born to Run )」のカバーを録音することができる。つまり、勝手にコピーを製作できるということである。法律上必要となるのは、権利者に通知し、法令で定められた使用料を支払うことだけである。当然のことながら、ポップスの演奏楽曲の大部分はカバーしたものである。「明日なき暴走」のカバーバージョンは、ロンドン交響楽団( the London Symphony Orchestra )によるものを含め、少なくとも 50 以上ある。ボブ・ディラン( Bob Dylan )の楽曲のカバーバージョンは 1,500 以上ある。「トライ・ア・リトル・テンダネス( Try a Little Tenderness )」は、1966 年にオーティス・レディング( Otis Redding )がブッカー・T & ザ・MG’s( Booker T. & the M.G.s )とともにレコーディングしたバージョンのヒットで世界的に広まったわけだが、それまでにいろんなアーティストによって 6 つのバージョンが録音されていた。もし、制約があってレディングのバージョンが製作されていなかったとすれば、私たちの住む世界はより味気ないものになっていただろう。
しかし、もし私が「明日なき暴走」といくつかの音楽的要素を共有するだけの曲を作ったら、問題となる可能性がある。「実質的類似性( substantial similarity )」があると判断され、著作権の侵害を構成すると判断される可能性もある。意図的であるか否かは関係ない。ジョージ・ハリスン( George Harrison )は、シフォンズ( the Chiffons )の 1963 年のヒット曲「 He’s So Fine (いかした彼)」のコードを 1970 年に発表した曲「マイ・スィート・ロード( My Sweet Lord )」に使用した。彼は「潜在意識の内における盗用( subconscious infringement )」の責任を問われ、58 万 7,000 ドルを支払わなければならなかった。判事は、ハリスンが「この音の組み合わせは上手くいく」と認識していたと認定した。なぜなら、既にシフォンズの曲が商業的に成功し、広く普及していたていたからである。ある意味、そういうやり口が音楽ビジネスの隆盛を支えてきたのかもしれない。
潜在意識の内における盗用( subconscious infringement )で責任を問われるには、少なくとも盗用したとされる楽曲を聴いていなければならない。1983 年、陪審員団は、ビー・ジーズ( the Bee Gees )が「愛はきらめきの中に( How Deep Is Your Love )」を作曲した際に、ローランド・ゼレ( Roland Selle )の「レット・イット・エンド( Let It End ) 」という曲を盗作したと認定した。しかし、その判決は控訴審で覆された。理由は、原告(ゼレ)がデモ用に配布した自分の曲をビー・ジーズが聴いた可能性があることを立証できなかったからであった。ビー・ジーズの曲には実質的類似性( substantial similarity )があることは明らかであったが、純粋に偶然の産物であると判定されたのである。(訳者注:ビー・ジーズがモロパクリしているのは明らか。しかし、しがない古物商であったゼレが裁判で勝てる訳がなかっただけ。ちなみに、ビー・ジーズの同曲を平井大が思い切りモロパクリしている。どうせ盗んだもんだから、盗まれても文句言えんだろっ!みたいな感じなのかな?)
2015 年に、ロビン・シック( Robin Thicke )とファレル・ウィリアムス( Pharrell Williams )は、ヒット曲「ブラード・ラインズ〜今夜はヘイ・ヘイ・ヘイ( Blurred Lines )」がマーヴィン・ゲイ( Marvin Gaye )の「黒い夜( Got to Give It Up )」の著作権を侵害したという判決を陪審員に出された。この裁判では、具体的な音楽的要素に共通点があるか否かが争点であったが、陪審員は明らかに両曲に似かよった感覚( feel )があると判断した。シックとウィリアムスは連帯でゲイの遺族側に 530 万ドルと将来の収入の 50% を賠償として支払うこととなった。
この裁判は法曹界と音楽界に大きな衝撃を与えた。「ブラード・ラインズ〜今夜はヘイ・ヘイ・ヘイ( Blurred Lines )」の裁判で出された判決への反発が凄まじく、楽曲の権利侵害の主張を貫くことが少し難しい状況になっている。スピリット( Spirit )というグループが、レッド・ツェッペリン( Led Zeppelin )を提訴した。「天国への階段( Stairway to Heaven )」の冒頭のギターリフがスピリットの楽曲「トーラス( Taurus )」を盗用しているとの主張だった。コード進行は完全に同一ではないが、非常によく似ているし、レッド・ツェッペリンはかつてスピリットの前座を務めており、その生演奏を何度も聴いていた。それでも、2016 年、カリフォルニア連邦地裁はレッド・ツェッペリンを支持した。控訴審でも同じ結果だった。
昨年春には、シンガーソングライターのエド・シーラン( Ed Sheeran )は、楽曲「シンキング・アウト・ラウド( Thiking Out Loud )」がゲイの別の楽曲 「レッツ・ゲット・イット・オン( Let’s Get It On )」の盗作であるとして訴えられた。しかし、盗用していないという判決が出て勝訴した。その裁判ではシーランがギターを持ち込んで証言台に立つ場面もあった。彼は、自分の楽曲の 4 つのコード進行( four-chord progression )がポップミュージックでは一般的であることを陪審員に説明したのである。シーランは魅力的な男であり、陪審員たちは心を揺さぶられた。「このような根拠のない主張が法廷に持ち込まれることが許されていることに、信じられないほど苛立ちを覚える。」と彼は結審後に語った。しかし、和解金が巨額となる可能性があることで、法的不確実性が存在することは訴訟を起こす動機となりうる(法的不確実性とは、既に法定化された制度等に対する法解釈や具体的な司法判断・判決に関する不確実性のこと)。ちなみに、著作権を侵害されたとして訴訟を起こした原告が敗訴した場合、著作権法によって与えられている裁量権を根拠に、裁判所が原告に被告の弁護士費用の支払いを命ずる場合が多い。
法的不確実性が存在するのは、陪審員によって意見が異なるからである。また、ゴールポスト自体が動くこともある。「ブラード・ラインズ( Blurred Lines )」と「天国への階段( Stairway to Heaven )」の訴訟で全く異なる結果が出たのは、「逆比ルール( inverse ratio rule )」と呼ばれるものが一部関係している。それは、権利侵害を判断するために類似性の度合いを計るために定まった判例法である。具体的に言うと、逆比ルールは、被告がオリジナル作品にアクセスする機会が多ければ多いほど、実質的類似性を立証するハードルが低くなり、逆に認められる類似性が明らかであれば明らかであるほど被告がオリジナル作品にアクセスしたことについての高度な立証が必要でなくなる。しかし、実際にはこれはほとんど意味をなしていない。合衆国第 9 巡回区控訴裁判所区(ロサンゼルスを含む管轄エリアの地方裁判所の控訴事件を担当)は、多くのエンターテインメント業界関連の裁判が終結する場所であるが、前者の裁判ではこのルールが適用された。しかし、一転して後者の裁判ではこのルールは適用されなかった。
司法的能力( judicial competence )も問題である。ワシントン DC には特許と商標を扱う知的財産高等裁判所がある。しかし、著作権訴訟を担当する判事は一般的にフェアユースの問題が生じる分野に関する知識がほとんど無い。これが、何が「変革的( transformative )」であるかという問題が司法のグレーゾーンとなっている理由である。ウォーホルの訴訟ではエレナ・ケーガン( Elena Kagan )判事が、ソトマイヨール判事や他の判事たちが下した判断を批判し反対意見を示した。主張したのは、ソトマイヨールらは芸術を理解していないということである。ウォーホルのシルクスクリーン作品がなぜ変容的なのかを理解するためには、あるいは楽曲から感じられる感覚( feel )に音楽的な定義を与えるためには、ある種の専門知識が必要である。しかしながら、ほとんどの人はそんなものは持っていない。もちろん、ほとんどの判事も持っていない。