シベリアの永久凍土融解が止まらない!凍土融解→炭素放出→温暖化→さらなる凍土融解・・・無限ループ完成?

2.永久凍土の融解は生態系を激変させる

 17世紀から18世紀にかけて、ロシア帝国が東方へ拡大していた際に、ある探検家が、「超巨大で固い氷の塊が地中にある」とモスクワに報告しました。ヤクートの首都ヤクーツクでは、初期の入植者たちは、農作物を育てることにも、新鮮な地下水源を見つけることにも苦労しました。1827年の夏、ロシア皇帝は、露米会社(極東と北アメリカでの植民地経営と毛皮交易を目的とした、ロシア帝国の国策会社・勅許会社)の通商代表としてフェドル・シェルギンをヤクーツクに派遣しました。シェルギンを長とする一団は、井戸を掘ろうと試みました。10年間かけて立坑を300フィート(91メートル)掘り進めました。しかし、どれだけ掘り下げても、凍土しかありませんでした。時は下って19世紀になると、正確には1844年のことですが、サンクトペテルブルグからヤクーツクに向かった著名な動物学者兼探検家のアレクサンダー・フォン・ミッデンドルフが、「地表の下に少なくとも凍土が600フィート(182メートル)以上ある。」ことを発見しました。彼の発見は、ロシアの科学者連中だけでなく、ヨーロッパの多くの科学者たちも知るところとなりました。

 現在、シェルギンが掘った立坑は名所となっており、ログハウスの中で見ることが出来ます。ヤクーツクの中心部のコンクリートの高層アパートと旧陸軍士官学校の焼け跡の間にあります。昨年の夏に、私はそこに行きました。ヤクーツクのメルニコフ永久凍土研究所の研究者ユーリ・ムルジンに同行してもらいました。彼は言いました、「永久凍土の研究はここから始まったのです。シェルジンの立坑ができるまでは、ヤクーツクに住んでいる人以外では誰も永久凍土の存在を知りませんでした。」と。ムルジンと私は立坑の内部を見ました。そのためには、重い木の蓋を何枚も移動させなければなりませんでした。中を覗き込もうとすると、冷たい空気が大量に上方に向かって吐き出されているようでした。下には、黒い壁が見えるだけでした。土と氷のかび臭いにおいが、ログハウスの中に漂いました。「閉じ込められていた、遠い昔のにおいがしますね。」とムルジンは言いました。

 1920年代にソ連の科学者ミハイル・スミンが永久凍土に関する論文を発表しました。その論文は世界中で広く読まれました。その中で、凍土はロシア語で”vechnaya merzlota”として表記されていました。それは、英語で”eternal frost”(永遠の霜)という意味でした。後に、英語で永久凍土を表す語として”permafrost”が使われるようになりました。スミンは永久凍土をロマンティックなものと捉えていたようです。それで、論文の中には、「永久凍土は、人間の知性と想像力を刺激する。」と記していました。彼が論文中に記したのですが、永久凍土はスフィンクス像のように神秘的で魅力的で謎に満ちています。

 永久凍土は神秘的かもしれませんが、現実的にはさまざまな厄介な問題を引き起こします。ソ連では、マキシム・ゴーリキーがマルクスの言葉を借りて「自然を変えることで、人間は自分自身を変えることができる。」と言及したように、自然というのは常に克服すべき対象と考えられてきました。シベリア横断鉄道の建設は、スターリン政権下で行われた数多くの超巨大インフラ投資の1つですが、非常に困難を極めました。というのは、永久凍土の影響で、夏には数インチも地盤が沈み込み、冬には逆に数インチも隆起したからです。1930年代にある科学者が言ったのですが、シベリア横断鉄道の完成は、ロシアが永久凍土という敵に屈することなく、それを征服した証しなのです。

 アラスカやカナダの北極圏に住んでいる人の数は20万人未満で、そのエリアに大きな町はありません。一方、対照的なのですが、ソ連はシベリアに多くの人を居住させようとしてきました。流入者も多く、人口が増えて、多くの建物が作られて開発が進められましたが、時にいくつもの問題が発生していました。建造物等自体が熱を持って永久凍土を温めることにより、地盤が沈没したり陥没するようになりました。1941年にはNKVD(内部人民委員会:スターリン時代の秘密警察)のヤクーツク本部の地盤が沈下し、壁の一つが割れてパックリと口を開けました。壁材が飛び散り、工作員たちは石膏まみれになりました。

 ヤクーツクは、永久凍土の上に作られた世界で2つしかない大都市の内の1つです。もう1つはクラスノヤルスク地方のノリルスクです。そこは、1930年代に多くの強制労働収容所の囚人が送り込まれて、新たに作られた居住地です。ノリルスクには、世界最大級のニッケル鉱床があります。鉱床に付随して、多くの精練所や工場や集合住宅や学校や病院や公会堂などの建物が建てられました。しかし、それらの多くは長持ちしませんでした。モスクワ大学工学部教授のヴァレリー・グレベネツは、1980年代にノリルスクにいました。彼の同僚の中には、自分が建設に携わった建造物が崩壊したことで、深刻な事態に直面した者もいたそうです。クレベネツは当時のことを思い出して険しい顔で言いました、「自分の周りで何人もの知り合いが撃たれたことが分かれば、誰でも首筋が寒くなりますよね。」と。しかし、その後、永久凍土の研究が進むにつれて、その特性もだんだん分かるようになったので、新しいアイデアが生み出されて、さまざまな問題が解決されるようになりました。

 奇想天外なアイディアもありました。中でもミハイル・ゴロツキーというソ連の科学者によるアイディアは特に斬新でした。人工的な塵を大気の高層にばらまいて、土星の輪のようなものを作り、それによって北極圏で恒常的にヒートドーム現象(沸騰した鍋の上に蓋をしたように、上空で発達した高気圧が熱い空気を閉じ込めて、広い範囲に熱波をもたらす)が起こるようにして、永久凍土がなくなる程度まで気温を上げるというものでした。また、1950年代半ばには、強制労働収容所の囚人としてノリルスクに来た技術者のミハイル・キムは、もっと現実的なアイディアを考え出していました。それは、永久凍土の中にセメント杭を40フィート(12メートル)の深さまで打ち込み、その上に構築物を作るというものでした。セメント杭の上に構築物を作ることで、その土台が高くなるので、構築物の下の永久凍土が暖まらず融解しなくなります。そのアイディアが採用されるようになり、北極圏での建設ラッシュが始まりました。

 ソ連の技術者たちは、”vechnaya merzlota”(永久凍土)を固くて不変で安定した地盤として利用し活用できるようになりました。ジョージ・ワシントン大学のドミトリー・ストレツキー教授によれば、当時のソ連の科学者や技術者は永久凍土を征服したと確信していたようです。彼は言いました、「セメント杭の上に5階建てや9階建てのビルを建てても、何の問題もなかったのです。みんなが喜んでいましたよ。」と。しかし、ストレツキーは続けて言いました、「それらのビルの耐用年数は30〜50年と考えられていたのです。耐用年数を迎える前に、気候が急劇に変化するなんてことは想定していませんでしたし、誰も想像できませんでした。」と。

 2016年には、ノリルスクの構築物の60%が永久凍土の融解によって損害を受けていることが明らかになりました。2020年5月29日、ロシア最大の鉱山会社であるノリルスク・ニッケル社(ニッケル、パラジウムの生産において世界最大手)の燃料貯蔵タンクが割れて、2万1,000トンのディーゼル油が流出し、アンバルナヤ川が赤金色に染まりました。同社の経営陣は、「自然環境への影響は限定的である。」と発表しました。しかし、モスクワ在住の水理地質学者で、YouTubeで人気チャンネルを運営しているゲオルギー・カバノシアンは、ノリルスクまで赴き、そこより北に位置するピャシナ川(カラ海に注ぐ)でサンプルを採取しました。サンプルを調べて分かったのは、汚染物質の濃度は許容限度の2.5倍に達しているということでした。数千キロに渡って、水産資源や生態系に影響が出る可能性があるでしょう。

 その事故は自然環境に甚大な影響を与えると推測され、グリーンピース(39か国以上に拠点を置く非政府の自然保護・環境保護団体)が、エクソンバルディーズ号原油流出事故と比較するほどでした。それで、ロシア政府も無視することは出来ませんでした。2021年2月、ロシア政府はノリルスク・ニッケル社に、罰金20億ドルの支払いを命じました。その額は、環境破壊に対する罰金では、ロシア史上最高額でした。同社は、タンクを支えるセメント杭が永久凍土の融解に伴って折れたと発表しました。しかし、第三者機関による検証が為された結果、折れたセメント杭の施工が不適切であることや、土壌の温度が定期的に計測されていなかったことなどが判明しました。つまり、永久凍土の融解という自然現象と、ヒューマンエラーが合わさったことで、被害が甚大になってしまったのです。アラスカ大学フェアバンクス校のウラジミール・ロマノフスキー教授(地球物理学)は言いました、「ノリルスクで起こったことは、永久凍土の融解が甚大な影響を及ぼす可能性があることを示しています。認識しなければならないのは、これまでも永久凍土の溶解が、さまざまな形で生態系に影響を及ぼしてきたということです。そして、それは今後も続くのです。」と。