10.採集した毛虫の検査結果が判明
ワグナーが昆虫学を研究し始めたころ、毛虫の種を確かめる方法は、毛虫を変態するまで成長させて、どうなるかを確認するしかありませんでした。しかし、そこまでやっても、必ずしも種が分かるわけではありませんでした。というのは、ガやチョウの仲間は、互いによく似ていることが多いからです。交尾の際に間違いを防ぐために、鱗翅目(lepidoptera)では、生物の中で最も精巧といわれるほど生殖器(genitalia)を進化させてきました。そのため、鱗翅目の種を特定する際には、誤りを防ぐために、顕微鏡下で標本の生殖器を解剖しなければなりませんでした。ちなみに、それに関するウラジミール・ナポコフ(Vladimir Nabokov:訳者注「ロリータ」の著者)の逸話が有名です。彼は、1940年代にがハーバード大学の敷地内にある比較動物学博物館( Harvard’s Museum of Comparative Zoology)で鱗翅目の学芸員を務めていたのですが、来館者に「すみません、私は生殖器のことで手がいっぱいなのです。」と告げたそうです。
現在では、鱗翅目を見分けるためには、生殖器を解剖するよりも良い選択肢があります。ワグナーは、捕まえた毛虫の正体を知りたい時、アルコールを体内に注入して安楽死(euthanize)させます。そして、前脚(proleg)の1本を切り落とします。それは、実際には脚ではありません。毛虫には本当の脚が6本あるのですが、その後ろにある脚のように見える付属肢です。切り取った組織は、オンタリオ州にある研究施設に送られます。研究施設は、それを分析にかけ、シトクロムcオキシダーゼ・サブユニット1(cytochrome c oxidase subunit 1:略号CO1)と呼ばれる遺伝子の一部の配列を特定します。
CO1は、細胞呼吸に不可欠な遺伝子で、すべての生物が1つ、もしくはたくさん持っています。しかし、この遺伝子は、種ごとに微妙に異なっています。それで、分類学では、種を特定する指紋のようなものとしてそれを利用しています。ちなみに、未知のサンプルの種を調べる際に、いわゆるDNAバーコーディングという手法がしばしば用いられるわけですが、それは、短い遺伝子マーカーであるCO1を分析してDNAの配列から種を特定しているのです。
テキサス州での採集の旅を終えて数カ月後に、ワグナーから連絡がありました。研究施設に送っていたサンプルの解析結果が届いたとのことでした。それを見れば、私たちが集めた毛虫の種類がわかるはずです。その内の何匹かが新種であることが証明されるかもしれませんし、あるいは、そうでないことがわかります。ワグナーは、結果を包み隠さず話してくれました。届いた封筒を開ける際には、まるでクリスマスのギフトのラッピングを開けるように待ちきれないような感じでした。以前、彼は、結果が届いたら一緒に見ようと言っていたのです。それで、私は、Zoomで彼が封筒を開けるのを見ました。後に彼が私に打ち明けたのですが、実際には、解析結果を私より前に覗き見していたそうです。
Zoomでワグナーが封筒を開けるのを見ていた際に、最初に遺伝子配列の解析結果が見えたのは、私が見つけた小さな緑色の毛虫のものでした。ワグナーが貴重なものかもしれないと指摘していたものです。解析結果によれば、それは、コーンの害虫の一種であるオオタバコガの幼虫でした。新種ではありませんでした。実は、私は緑色の毛虫のことはあまり気にしていませんでしたし、実際、どんな毛虫だったかよく覚えていませんでした。しかし、ちょっとがっかりしました。
全く対照的だったのですが、ケルシー・ウオーガン(Kelsey Wogan)の毛虫は、まさに貴重な発見でした。それは、スミソニアン博物館にある2つの標本でしか存在が確認されていない、非常に珍しい褐色のガと遺伝的に一致したのです(このガは非常に珍しいため、正式な学術名が付けられていません)。このガのバラ色の毛虫を採集したのは、おそらくウオーガンだけであり、それを写真に撮ったのはワグナーだけであると推測されます。「これはすごいことですよ!」と彼は言いました。
届いた解析結果の中には、他にもいくつか重要な発見がありました。非常に珍しいウルシア・フルティバ(Ursia furtiva )の毛虫の可能性があると指摘されていたサンプルは、実際にウルシア・フルティバの毛虫であることが証明されました。メキシコ国境付近でワグナーが採集した鮮やかな黄色の個体は、非常に珍しいネオイリベリス・アリゾニカ(Neoilliberis arizonica)という種であることが判明しました。その毛虫が採集されたのは初めてのことだと推測されます。ワグナーがアルパイン郊外で見つけた目立たない緑色の標本は、遺伝子解析の結果、新種であることが判明しました。また、全く地味で珍しいと思えない体裁をしていた茶色の小さな毛虫が、新種というだけでなく、新属の可能性もあることが判明していました。かなり重大な発見があったようで、今回見つかった新種は他にもいくつかあったのですが、私はワグナーから多くを明かさないように依頼されました。 それは、ワグナーがその新種について説明する前に、他の昆虫学者がその新種について説明しようとするのを防ぐためです。
ワグナーは、Zoomのセッションで私にに提案しました、「あなたが記事に書くとしたら、『ワグナーは非常に貴重な発見をしたが、それについて箝口令を敷いた。』としておいて下さい。」と。
また、ワグナーは別のZoomのセッションで言いました、「昆虫は、研究すればするほど面白くなります。」と。
ワーグナーはかつて私に、暗い憂鬱な時期を経験したことがないと言っていました。どうやら、その中には、石を投げつけてくる子供たちと一緒に学校に通っていた時期や、「昆虫の黙示録(insect apocalypse)」について熟考した時期も含まれているようです。私はテキサスで彼と1週間にわたって一緒に行動したわけですが、彼がイライラすることは1度もありませんでした。彼がiPhoneの上に座ってしまって、画面が粉々になった時も平然としていました。また、緻密な計画を組んで立ち寄る予定だった採集現場をスキップしなければならないこともあったのですが、その際もイライラしたりはしませんでした。そこをスキップした理由は、同僚から締め切り数時間前に学生の推薦状を提出していないことを指摘されたからでした。私は、彼がどうして平然としていられるのかが理解できません。彼が楽天的なのは、元々の気質によるものなのかもしれません。あるいは、昆虫の研究が忙しくて他のことが気にならないのかもしれません。
かつてワグナーを教授の立場で指導したことのあるハワード・エンサイン・エヴァンス(Howard Ensign Evans)は、「小さな生物を研究対象としている者にとって、自然の中で興奮しない場所はありません。世界は未解決の問題に満ち溢れているのです。」と記していたことがあります。
さらにエヴァンスは、「地球は住みよい場所である」とも記していました。♦
以上