2.デビッド・ワグナー(David Wagner)が毛虫に興味を持った経緯
ワグナーは66歳です。子供時代にはあちこちを転々と引っ越しました。冶金学者であった父親がUSスチール(US steel)に勤めていた関係で、新たなプロジェクトに配属されるごとに一家で転居を繰り返しました。彼の父はある州では橋の構築に携わり、別の州ではパイプラインの設置に携わりました。小学校2年生の時には、ワグナーは3つの異なる小学校に通いました。「自分がどこの出身なのかわからない。」と彼は言っていました。彼が教えてくれたのですが、ミズーリ州のある学校では、彼は何人かの同級生から挨拶代わりに石を投げつけられたそうです。
彼は幼い頃から、昆虫に興味を持っていました。それで、彼は捕まえた昆虫を古い葉巻入れにいれていました。標本もどんどん増えていき、引っ越す毎に増えていきました。「虫は私にとって、世界を意味するものでした。夜中に自分の部屋に入り、虫メガネで昆虫を観察したものです。そこには、無限の美しさと複雑さがありました。」と、彼は言いました。彼の両親は、彼の興味を理解することはありませんでしたが、支援は惜しみませんでした。彼の両親は彼に”A Field Guide to the Butterflies of North America, East of the Great Plains”(北米、グレートプレーンズの蝶)というフィールド・ガイドを買い与えました。彼は、表紙がボロボロになるほど何度もそれに目を通したそうです。
ワグナーは言いました、 「その本を読んで、より昆虫にのめり込むことになりました。まだまだ知らないことが多いと認識しましたし、昆虫の魅力に取りつかれました。」と。1966年に彼の父親が親戚の1人に送ったクリスマスの手紙には、当時小学5年生だったワグナーが昆虫に夢中になっていると記されていたそうです。また、父親は、ワグナーから昆虫について聞かれても何も答えられないことが残念であると記していました。
ワグナーは、コロラド州立大学の学生だった頃、スズメバチ(wasps)の専門家のハワード・エンサイン・エヴァンス(Howard Ensign Evans)教授の指導を受けていました。エヴァンスは、ハーバード大学の終身教授職を辞してロッキー山脈に移住していました。エヴァンスの著書”Life on a Little-Known Planet”(虫の惑星:知られざる昆虫の世界)は、昆虫学の書籍としては異例の大ヒット作でした。その本は1968年に出版されたのですが、一般的に害虫(pests)とされているバッタ(locusts)やナンキンムシ(bedbugs)などの昆虫にも温かい目を向けていました。また、彼は、その本の中で昆虫の保護を訴えていました。アメリカ人は、自分たちの足元に沢山いる、まだ図鑑にも載っておらず、学術名も付けられていない生き物よりも、火星に住んでいるかもしれない生き物に興味があるようだと、エヴァンスは嘆いていました。
彼は言っていました、「宇宙で奇妙な生き物を探すことも大事かもしれませんが、地球上の昆虫を何でもかんでも駆除するのは賢明なことなのでしょうか?地球上には実に多くの種類の生物が生息しているわけですが、その内の半分も人間は認識していないと言われています。実際、それは正しいと思います。というのは、私自身が、自宅の裏庭で新種の昆虫を発見したことが何度もあるからです。」と。
カリフォルニア大学バークレー校(University of California, Berkeley)の大学院で、ワグナーは コウモリガ(ghost moths)の研究に没頭しました。コウモリガは、恐竜時代からの生き残りであり、多くの不思議な行動が見られます。「コウモリガが飛ぶ時には、左右の羽は別々にバタバタします。飛ぶ際にガの左右の羽の動きがシンクロしていないのは、非常に古い時代のガに特徴的なものです。」と、彼は言っていました。また、ある種のコウモリガのオスは、セックスの前段階として、空中でチャチャを踊るような仕草をします。また、特殊な脚を持つ種も見つかっていて、その脚には媚薬の働きをする化学物質が付着しています。 コウモリガについては未解明の部分が多く、さらなる研究が必要です。ワーグナーはその研究を続けたい気持ちがあるようですが、昆虫の個体数が減少しているという事態に対処するための研究もしなければならなく、手を付けられていない状況のようです。
1860年代に、エティエンヌ・レオポール・トルーヴェロ(Étienne Léopold Trouvelot)というフランス人が、絹織物のビジネスを立ち上げを企てたのですが頓挫しました。彼はヨーロッパからマサチューセッツにジプシーガ(gypsy moths:マイマイガともいう)を輸入しました。トルーヴェロが持ち込んだガは、現在では呼び名があまり不快感を与えないものに変わっていて、スポンジガ(spongy moths)と呼ばれています。持ち込まれたジプシーガの一部が逃げ出し、自然の中で繁殖しました。スポンジガの卵が孵化すると、スポンジガの毛虫になります。それが、ニューイングランドの森林に深刻な影響をあたえることとなりました。1990年代には、スポンジガはバージニア州まで進出し、毛虫がシェナンドー国立公園(Shenandoah National Park)で大混乱を引き起こしました。森林局(Forest Service)は殺虫剤でスポンジガを駆除することを検討したのですが、それをやってしまうと他の多くのガやチョウも死滅することが懸念されました。そこで研究者たちは、ブルーリッジ山脈(Blue Ridge Mountains)に実験用の区画をいくつか作り、一部の区画には殺虫剤を散布し、他の区画は放置しました。その後、両方の区画から毛虫を集め、コネチカット大学(University of Connecticut:略号UConn)のストーズ(Storrs)にあるメインキャンパスにいるワグナーに送りました。
「最初の週には、6千匹もの毛虫が送られてきました」とワグナーは振り返ります。その後2週間ほどでさらに到着する毛虫の数は増え、最終的には1万3千匹になりました。
スポンジガの大発生を目撃したことのある人や、エリック・カールの絵本「はらぺこあおむし」を読んだことのある人なら誰でも知っているように、毛虫の食欲は非常に旺盛です。しかし、その多くは偏食家で特定の植物の葉しか食べません。ワグナーは、その鱗翅目の繁殖場所を作るために奔走しました。「とにかく沢山の葉っぱを運びました。それだけの仕事でした。」と、彼はその時のことを振り返って言いました。
森林局から送られてきた数千匹の毛虫の中には、ワグナーが知らない種類のガもたくさんいました。ワグナーは、それらについて同僚やいろいろな研究者に電話をかけて教えてもらおうとしたのですが、無駄でした。当時は、北米の東部の毛虫を詳しく網羅的に扱った図鑑は存在していませんでした。そこで、ワグナーと助手たちは、多くの毛虫に、識別のためにニックネームを付け始めました。特にカラフルな毛虫は”ダズラー”(Dazzler:目くらましの意)」と呼ばれるようになりました。また、最後尾部分の先にくぼみがある毛虫は、”配管工の尻”(Plumber’s Butt)と名付けられました。
ワグナーにとって、この体験は目から鱗が落ちるようなものでした。すべてのガやチョウは、その前は毛虫でした。しかし、毛虫に関する情報は全く不足していました。それこそ、どんな姿をしていて、何を食べて、どうやって冬を越すのかといったことさえ分かっていませんでした。分類学的な見地から見ても、毛虫は未開の地だったのです。