昆虫の黙示録(insect apocalypse)って何?毛虫の研究が暗示する多くの昆虫に迫る絶滅の危機!

7.ワグナーが引退できない理由

 2016年にワグナーは60歳になったのを機に、引退することも検討し始めました。西部に引っ越すのも良いなと考えたりしました。しかし、その頃、生態系に再び大きな危機が訪れていました。これは、当時は認識されていませんでしたが、後に「昆虫の黙示録(insect apocalypse)」として知られるようになりました。

 昆虫の黙示録の最初の兆候は、ドイツ西部のクレーフェルト(Krefeld)市からもたらされました。クレーフェルト昆虫協会(Krefeld Entomological Society)の会員たちは、数十年前から市街地近くの保護区域で昆虫を捕獲してきました。捕まえた昆虫はすべて重さを測り、アルコールの入った瓶に保存していました。

 2013年にその協会のメンバーの数名が、1989年に初めて昆虫を採集した2地点を再訪しました。すると、採集できた昆虫の総量は、なんと1989年の数分の1だったのです。それで、他の地点でも同様に昆虫を採集してみたのですが、どこも同じような結果になりました。彼らはそのデータを昆虫研究者たちに伝えました。それを伝え聞いた1つの研究チームが2017年に科学雑誌”PLOS One(Public Library of Science社より刊行される科学雑誌)”に論文を発表し、調査結果等を公表しました。30年足らずの間に、サンプリングした地点の「飛翔虫類の総バイオマス(エネルギー源として利用される生物資源)」は4分の1まで減少しており、その地域では飛翔虫類が総じて激減していることを示唆していると、その論文には記されていました。

 このほかにも、同じように悲惨な状況を暗示する統計が書かれた論文が続々と発表されました。ミシシッピ川上流域(Upper Mississippi River)とエリー湖盆地西部(Western Lake Erie Basin)の調査では、この2地域から出現するカゲロウ(mayflies)の数が、2012年以降、半分以下に減少していることが判明しました(カゲロウは、レーダーで捕捉できるほど大きな群れを形成することがあります)。オハイオ州で毎年夏に収集されてきたデータを分析したところ、同州で目撃されるチョウは20年あまりの間に3分の1も減少していることがわかりました。ニューハンプシャー州のホワイトマウンテンズ(White Mountains)にあるハバードブルック実験林(Hubbard Brook Experimental Forest)の研究者たちは、この森に生息する甲虫の数が1970年代半ばから80%以上も減少していることを発見しました。完全に絶滅してしまった甲虫の属(family)もいくつかありました。

 このような論文が続々と発表される中、それに反論する動きも出てきました。研究者の中には、「悲観論に偏っている」と主張する人もいました。当時は、昆虫の数が減っていることを示唆しない論文は、昆虫の危機を示唆する研究よりも関心を持ってもらえる可能性が低いので、発表される機会自体が少なかったのです。しかし、そうした事実を踏まえても、昆虫の危機が顕在化しつつあるとする研究者の方が優勢でした。多くの研究者が主張していたのは、たとえ昆虫の数が減っていない場所があるとしても、総体として昆虫が減っていることは明らかであり、何も行動をせず座して待つのはリスクが高すぎるということでした。

 ネバダ大学リノ校(University of Nevada, Reno)のマット・フォリスター(Matt Forister)率いる3人の研究チームは論文に記しています、「昆虫の生息数と多様性の減少に今すぐ対処しなければなりません。人類は過去に多くの難題に何度も直面したわけですが、それが大したことで無いと思えるくらいの重い難題に昆虫が直面する可能性が高いでしょう。」と。

 ワグナーは自身が昆虫を研究し続けてきた経験から、以前は普通に見られた多くの種が希少になりつつあると認識していました。彼は2012年に論文を発表しました。タイトルは「アメリカ北東部のガの減少(Moth Decline in the Northeastern United States)」でした。その論文に彼が記していたのですが、プロメテウスカイコ(promethea silkmoth)のような大型で派手なガが、彼がコネチカット大学(UConn))に来た1980年代後半には簡単に見つけることができたのですが、その後全く見つけられなくなったそうです。データが増えれば増えるほど、彼の懸念は増すばかりでした。

 2019年の秋のことでしたが、ワグナーはその年にセントルイスで開催されたアメリカ昆虫学会(Entomological Society of America)の年次総会において「人新世(Anthropocene)における昆虫の減少」というセッションを企画しました。このセッションは、最も参加者の多いセッションの1つとなりました。クレーフェルトの論文の著者2人を含め、ほとんどの発表者が悲惨な警告を発しました。しかし、中には悲観論に与しすぎているという警告を発する人もいました。

 実は、私がワグナーに初めて会ったのは、そのセッションから間もなくのことでした。クリスマスパーティーだったのですが、そこで彼が数匹のオオゴキブリ(giant cockroaches)を私に見せてくれたことは今でも覚えています。そのパーティーは、アメリカ自然史博物館(American Museum of Natural History)の昆虫学のオフィスで開かれたものでした。夜には会食もあり、コオロギのフライを食べたりしていたのですが、ワグナーは私に言いました、「最近になって、ようやく人々が生態系サービス(ecosystem service:生物・生態系に由来し、人類の利益になる機能やサービス)を心配するようになりました。ようやく、昆虫が地球を維持するために様々な機能を果たしていると認識されるようになってきました。」と。