3.1980年代以降の格差拡大の背景
1980年以降、不平等が拡大し始めたにもかかわらず、多くの経済学者が実際に気付くまでには数十年かかりました。不平等が拡大していることに注意を向けた人々の中の1人ががミラノヴィッチでした。彼はユーゴスラビア出身で、世界銀行の研究部門で数十年を過ごし、現在はニューヨーク市立大学で経済学を教えています。彼は、世界銀行が保有する膨大な家計収入に関するデータを駆使した分析で、1990年代後半に既に名声を得ていました。彼は、グローバリゼーションの恩恵がどのように行き渡っているかを研究し、さまざまな国のさまざまな階級についてそれぞれ考察しました。最も大きな恩恵を享受したのは、大金持ちと、東アジアとインドなど新興国で新たに生まれた中産階級です。前者は資本利益率の急上昇の恩恵を、後者は住んでいる地域の目覚ましい経済発展の恩恵を受けました。全く恩恵が無かったのは、西側諸国の中流階級の労働者です。彼らが従事していた産業は外国との競争に晒され空洞化したために、所得は増えませんでした。そうした状況によって、ドナルド・トランプが掲げる中国に対する保護貿易主義的な政策が人気を博したのです。
ミラノヴィッチは、数理計算の達人であるだけでなく、歴史や文化に対して多岐に渡る知識を持っています。彼は、ローマ帝国初期の所得分配のことも記しています。アウグストゥス帝の時代の不平等の程度は、ちょうど現在の米国と同じくらいでした。ヨーロッパのサッカーについても記しています。各クラブの外国籍選手の数を制限することは不平等を拡大します。裕福なクラブの力はさらに強まります。また、「高慢と偏見」(ジェーン・オースチン著)のエリザベス・ベネットの選択について経済的側面から分析しています。ベネットは、ダーシー氏と結婚することによって上位1000分の1の富裕層に納まりますが、独身のままだと上位50%の層まで落ちます。彼の著書「Capitalism, Alone」は、彼の2016年の著書「Global Inequality(邦題:大不平等)」に基づいて書いたものです。実際、2冊の本の間でテーマや主張が重複している部分は多々あります。合わせて2冊とも読むとをお勧めします。
「Global Inequality(大不平等)」で、ミラノヴィッチは、中世まで遡ってオランダ、スペイン、イタリアの不平等の変遷を調べました。中世以降、さまざまな要因が絡み合うことによって、不平等は拡がったり縮まったりを不規則に続けていることが分かりました。例えば、14世紀イタリアでは、ペストにより労働力が不足し、賃金が上昇しました。20世紀には、2回の世界大戦、大恐慌により、1世代分の資本が棄損されたことにより、富裕層の収入が急減しました。すべてのデータを調査することによって、ミラノヴィッチは、不平等にはある種の上限があったようだと結論付けました。それは、国家が対処できる経済部門の限界です。米国では、不平等は19世紀に拡大し、その後20世紀半ばの数十年間には縮小し、そして過去40年間には再び拡大しています。このことは、不平等の拡大、縮小には波があるということを示しています。クズネッツは、逆U字型の曲線を思いつきました。しかし、逆U字型に見えたのは、彼が長い歴史の中のほんの短い期間のことしか見ていなかったことによります。
「Capitalism, Alone」では、ミラノヴィッチは過去を分析して未来を予測しています。アジアの新興経済国台頭に伴い、現在、資本主義には2つの異なる形態が存在していると彼は言います。1つは、西側で見られ、米国が擁護する「Liberal Meritocratic(自由主義に基づく能力本位の資本主義)」です。もう1つは「political capitalism(政治資本主義)」で、あまり民主的ではなく、かなり独裁主義的な資本主義の亜種と言えます。それは、中国を始めとした国々でみられます。どんな図表も同じですが、細部はそぎ落とされる代わりに、全体像は把握しやすくなります。「Capitalism, Alone」にも分かりやすい図表が沢山掲載されています。
「Liberal Meritocratic(自由主義に基づく能力本位の資本主義)」の世界では、資本の蓄積する過程で不平等が生まれます。金持ちの方が貧しい人よりも多くを蓄えることが出来ます。そうして、資本と富の分配、蓄積は不均衡な形で行われます。金持ちの主な収入源である投資による収益は、賃金よりも伸び率が高くなる傾向があるため、金持ちはより金持ちになります。同様に、金持ちは教育の恩恵も貧しい人よりも多く得られるということも不平等を拡大します。金持ちはより高度な教育を受ける傾向があり、より高い給料を稼ぐことができます。それで、金持ちはリスク許容度がより高くなり投資資金が不足することが少なくなり、投資でより多くの収益を稼ぐことが可能になります。さらに、金持ちは、同じような高学歴の金持ちと結婚する傾向があるので、より多くの資産が子孫たちに引き継がれます。それにより、不平等は世代から世代へと永遠に引き継がれます。
中国の「political capitalism(政治資本主義)」には、中国独特の不平等が生み出される理由があります。中国は資本主義の中核を占める地位を得ています。中国の工業生産の約80%は民間企業によって生産されています。民間企業は高度に統制された独裁的な官僚機構の支配下にあります。法の支配は確立しておらず、政策決定も恣意的に行われ、財産権の保護は不十分で、汚職が蔓延しています。中国は、産業革命と南北戦争後の大好況時代を一瞬で通過するほどのスピードで一気に発展してきました。政治家が身内びいきをすることの影響もあって、非常に不平等な社会となりました。中国の所得分配は、米国よりもさらにいびつなものになっています。ラテンアメリカの金権政治が蔓延っている国と同じようなレベルに近づいています。
そういった現状は、グローバル資本主義の将来にとって何を意味するのでしょうか。ミラノヴィッチは、どちらの資本主義体制においても、不平等の拡大が抑制される兆し、ましてや縮小される兆しは見出すことを出来ません。ミラノヴィッチは過去と現在の事実を詳細に分析していますが、未来について壮大な予測をすることは避けています。彼が指摘しているように、経済学の専門家は将来を正しく予測することに関しては悲惨な実績しか残せていません。彼の見解では、社会の動向を予測することは、本質的に不可能だと思われます。なぜなら、将来は人間の偶発的な営みの積み重ねであるので予測など出来ないと考えるからです。20世紀の前半に不平等が縮小されるだろうと予測するためには、1914年に世界大戦が発生することを予見する必要がありました。しかし、実際には1913年の時点でも誰もそんなことは予想出来ていませんでした。
不平等の拡大縮小を波動や周期といった観点で捉えようとすることによって、見当違いの予測が為されているのかもしれません。株式市場の予測は正にその通りです。人々は株式市場の動きを予測する際に、強気市場と弱気市場の間で振幅するするものだと捉えます。しかし、市場の頃合いを見計らおうとしたことがある人なら誰でもわかることですが、波がどれだけ高くなるのかとか、それがどれくらい続くのかを予測することは不可能です。株式市場の変動のはっきりとした輪郭は、後になってからしか認識できません。同じことは不平等の拡大縮小の動きにも当てはまります。それは、ミラノヴィッチが著書「Capitalism, Alone」の末章にて詩人コンスタンディノス・カヴァフィの詩を引用して述べたかったことです。
(詩人コンスタンディノス・カヴァフィの詩)
現在のことは、人が知っています
未来のことは、神が知っています
神だけが、何もかも知っているのです