The World the 747 Didn’t Predict
747が予測しなかった世界
Boeing’s iconic jumbo jet was prophesied as a “weapon of peace.” It leaves the world a smaller place—and still a war-torn one, too.
ボーイング社の象徴的なジャンボ ジェット機は、「平和の武器」になれると予言されていました。それは、世界をより小さな場所にしました。しかし、依然として戦争による荒廃が続いています。
By James Ross Gardner February 3, 2023
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1966年7月15日、パンアメリカン航空(略して、パンナム:Pan American World Airways)の創始者でCEOのファン・トリップ(Juan Trippe)は、シアトルのホテルの宴会場に集まった約1,200人の前で講演を行いました。この日は、ボーイング社がユニオン湖畔に設立されて50度目の創立記念日でした。ダウンタウンの豪華絢爛なホテルの華やかさとは対照的ですが、外の世界はより危険な場所となりつつありました。ベトナムでは、アメリカ軍のジェット戦闘機がソ連軍のミグ21と遭遇していましたし、ヨーロッパでは、東欧諸国の空軍が東南アジアに戦闘機を飛ばし、米軍と交戦すると脅していました。
当時、ベトナム戦争が激化していました。冷戦が終結するのは数十年後のことで、先が見えない状況でした。しかし、トリップは、ボーイング社の新型ジャンボ機を25機予約していました。彼は、まだ紙の上にしか存在しない新型ジャンボ機に言及し、明るい未来を語りました。「国家間の大量輸送が可能となる新時代が訪れ、それが人類の運命にとって原爆よりも重要であることが証明されるだろう。(中略)747は平和のための偉大な武器になるだろう。」と彼は語っていました。
それが、地球上で最も知名度の高い航空機である747の伝説と神話化の始まりでした。そして、その後半世紀にわたって、製造するボーイング社によって「空の女王(queen of the skies)」と命名された747は旅客機業界を支配し、旅行者を魅了し、人々の想像力を掻き立てました。今週初めに、ワシントン州エバレット(Everett)のボーイング社の組立工場に大勢の者たちが集まって、同社が747を最後の買い手に引き渡すのを祝う式典が行われました。
1960年代後半に、まだ海のものとも山のものとも分からない747をトリップが大げさに賞賛したわけですが、その後の経緯を見ると、それほど誇張したものではなかったことが分かります。747は、他と明確に一線を画するところが沢山ありました。初のワイドボディ多通路型旅客機でした。どこの空港に行っても最も目立つ大きさで、地上から尾翼の先端までの高さは、6階建てのビルと同じ高さで、長さはアメフト場の4分の3に該当し、400人以上の乗客を運ぶことができました。そしてボーイング社の社史にも記されている通り、史上最も安全な航空機の1つでもありました。
また、747ほど見た目の麗しい機体は他にありませんでした。アカデミア美術館(Galleria dell’Accademia)でミケランジェロのダビデ像(Michelangelo’s “David)を鑑賞する時と同様に賞賛する者も少なくありませんでした。しなやかに先細りするボディの形状、幅広でキラリと光る機首の輪郭、そして何よりも素晴らしいのは、その象徴的なこぶのように出っ張ったアッパーデッキです。
747が初飛行したのは、1969年初頭のことでした。その機が着陸した際、ボーイング社のテストパイロットは、あまりにスムーズな飛行だったため、驚いていました。そのパイロットは無線で叫んでいました、「すごいぞ!この機体は!勝手に着陸したぞ!」と。747は乗客にも大好評でしたので、パンナム社はトリップの指示で直ぐに数十機の追加購入を決めました。それに、他の多くの航空会社も続きました。そうすることで、多くの旅行者を惹きつけられると考えたからです。747の特徴的なコブのような部分は、フライトデッキ(flight deck:操縦室)でした。航空力学の観点から、コブの部分の膨らみが後方まで引き伸ばされていて、それで、かなりのスペースが捻出されていました。そこを、ラウンジや優良顧客用のシートとして利用する航空会社もありました。1970年代には、どこの航空会社かは忘れましたが、毛足の長い豪華なカーペットを敷いてあることを広告で自慢していました。
しかし、その豪華さとは裏腹に、747は空の旅の民主化、つまり低価格化にも貢献しました。747は1回のフライトでより多くの乗客を乗せることができるので、各航空会社はより多くの航空券を売りさばくことができ、低価格販売が可能となりました。突然、747の登場によって、旅行が、とりわけ大陸間移動が、これまでほとんど飛行機に乗ったことのない者たちにとっても身近なものとなったのです。ある意味で、747は、世界中の人たちに飛ぶ楽しさを教えたと言えます。
また、747のイメージはポップカルチャーの中にも刻み込まれました。映画などの映像で、滑走路に着陸する際の747の姿が映っていて、画面の一部が排気熱で揺れているように見える場面がしばしば見られます。それは、暗喩で、見ている人は主人公が出国したことを理解します。747は、”Air Force One(邦題:エアフォース・ワン)”や”Snakes on a Plane(邦題:スネークス・フライト)”など、数え切れないほどの大ヒット映画で、物語の重要な役割を担っています。
また、ボーイング社と747は、シアトルの街も大きく変えました。20世紀初頭から同社はこの地で操業し続けてきたわけですが、それによって、イノベーションに適した雰囲気が醸成されました。それこそ世界中からエンジニアを採用しましたし、地元の高校や大学での研究訓練に多額の投資を行いました。この地域は世界中で最も研究開発に適した地に変貌しました。そうした環境が寄与して、マイクロソフト(Microsoft)やアマゾン(Amazon)がこの地で産声を上げたのだと思います。しかし、その一方で、この地域の経済の浮沈はボーイング社次第という状況でもありました。1957年には、シアトル都市圏でのボーイング社の雇用者数は10万人に達していました。シアトルの経済は、ボーイング社が好調な時は好調でしたが、ボーイング社が不振な時には不調になりました。
1970年代前半、ボーイング社の民間航空機部門の売上が伸び悩みました。それで、6万人の従業員が解雇されました。シアトルの失業率は15%にまで上昇しました。シアトル近辺では、ボーイング不況(Boeing Bust)と呼ばれたのですが、ダウンタウンの商店の多くがシャッターを下ろし、多くの者たちがぞろぞろと出ていってしまいました。当時、2人のコピーライターによってビルの壁面に広告が掲げられました。そこには「誰が一番最後にシアトルを去るのだろうか?誰でも良いけど電気を消すのを忘れずに!」と記されていました。あまりに核心を突いていたからでしょうか、それを目にした多くの住民が怒りました。
その後、シアトルの経済は持ち直しました。シアトルの景気も747の製造数も時代とともに何度も浮き沈みを経験しました。ボーイングは数十年の間に何度も新型機を発表しました。しかし、21世紀はジャンボジェット機にとっては20世紀よりも厳しい時代でした。一番大きな変化は、技術の進歩でした。747は4基のエンジンを積んでいたわけですが、エンジンを2基搭載するだけで大陸や海を横断できるようになっていました。新型のエンジンは燃料消費量が少なく、それが航空会社にとっても地球温暖化を心配する旅行者にとってもアピールとなりました。そうした中、2020年にボーイング社は747の製造は2022年で終了すると発表しました。
ルフトハンザ(Lufthansa)や大韓航空(Korean Air)など一部の航空会社が現在も747を旅客用で飛ばしています。しかし、747で現在も使われているもののほとんどは貨物用です。貨物用の747は今後も数十年は使われ続けるでしょう。航空宇宙を専門とするアナリストのリチャード・アブーラフィア(Richard Aboulafia)は私に言いました、「海外で(ボーイング機を)飛ばすなら、777か787のどちらかになるでしょう。エンジンは2つしかなく、サイズも747よりも小さくなります。」と。彼は1988年からボーイングの浮き沈みを目にし、彼なりに分析してきました。彼は、ボーイング社にはいくつか失策があったと批判してきました。多くの失策の中で最も有名なのは、、2018年にジャカルタ、2019年にエチオピアと立て続けに墜落事故が発生した際の対応です。それでも、アブーラフィアは未だに747に畏敬の念を抱いていると言います。彼は言いました、「747は20世紀で最も偉大な発明の1つである。」と。