Ukraine Dispatch プーチンはいったい何を考えているのか?どうしてウクライナに侵攻したのか?

Comment  April 4, 2022 Issue

What Is Putin Thinking?
プーチンは何を考えているのか?

The national identity the Russian President has helped promulgate—illiberal, imperial, resentful of the West—has played an essential role in his brutal invasion of Ukraine.
プーチンの独裁が続く中で、ロシアは、非自由主義的で、帝国主義的で、西側諸国に敵対的であるという色彩をより強めていきました。遂には無謀にもウクライナに侵攻しました。

By David Remnick March 27, 2022

 プーチンは、1996年にサンクトペテルブルクからモスクワに移って政界入りしました。ボリス・エリツィン大統領に大統領府総務部次長として迎え入れられたのです。その年、ロシア政府の機関紙であるロシースカヤ・ガゼータ紙は、読者にアンケートを行いました。質問は、「民主主義にうんざりしていますか?」、「民主主義は上手く機能するか?」、「統制を強めるべきか?」というものでした。また、無料電話受付窓口を開設し、「統一国家構想」に関して最も優れた提言をした者には賞金(2,000ドル相当)を授与するコンテストも実施しました。政府機関紙がそのようなコンテストを行って提言を求めなければならないほど、当時のロシアには活気が無かったのです。経済も非常に不振でした。

 ちょうどその頃、エリツィンは学者や政治家を集めて、新たな「国家理念 」を策定するための委員会を発足させました。ロシースカヤ・ガゼータ紙が行ったコンテストに寄せられる提言の中には、その委員会の参考になるようなものもいくつかあるだろうという期待がありました。しかし、参考になるような素晴らしい提言は1つとしてありませんでした。また、委員会も何の役にも立ちませんでした。エリツィンは、ロシアに民主主義を根付かせることに失敗しました。1989年から1991年にかけて、ロシアには政治的楽観主義が広がりました。しかし、今となっては、ロシア人にとって当時のことは苦い思い出でしかありません。ソ連が崩壊した後、社会的セーフティーネットは無くなりました。きらびやかな輸入品が百貨店等の店頭に並ぶようになりましたが、多くのロシア人はそれを眺めるだけでした。一握りのオリガルヒ(ロシア等旧ソ連諸国の資本主義化の過程で形成された政治的影響力を有する新興財閥)が、金にものを言わせて価値ある国営企業を買い漁りました。エリツィンは共産党候補のゲンナジー・ジュガーノフを破って再選を果たしました。その際に、多くのオリガルヒは、エリツィンに資金援助をしていました。おかげでエリツィンは楽々と選挙で勝利したわけですが、オリガルヒの政権への影響力が非常に強くなってしまいました。1990年代後半になると、ロシアでは、民主主義(demokratia)は、クソ民主主義”dermokratia”と揶揄されるようになってしまいました。エリツィンの支持率は一桁台前半まで落ち込みました。

 言論の自由、法による支配、自由民主主義がロシアに根付くことを期待していた知識人がたくさんいました。しかし、彼らは大きな挫折感を味わうこととなったのです。当時、著名な文化史家であったアンドレイ・ゾーリンは、ロシアについて言及していました。彼は、「ソ連崩壊後のロシアは、アメリカが独立した時やフランスで共和制が確立された時と比較すると、全く異なっていた。盛り上がりが全く無く、啓蒙思想も醸成されていない。この4〜5年、ロシアでは、民主主義に対するヒステリックな反応が見られただけで、それが醸成する気配は全く見られなかった。」と。

 プーチンは1999年に大統領に就任しました。彼は、選挙で主義や思想等を訴求することはありませんでした。もっぱら健全な肉体を持っていることと実務能力が高いというイメージを訴求していました。彼は、元々はKGB出身です。KGBに居た頃には、おそらく、西側諸国、特に米国を敵視するよう訓練されていたでしょう。また、ロシアを弱体化させ、ロシアに屈辱を与えようとする陰謀家が世界中のいたるところにいると考えるように訓練されていたでしょう。彼は、国家理念を策定するための委員会を組織することもなく、それに関する提言を受け付ける無料電話受付窓口を設置することもありませんでした。彼は、長い時間をかけて、自分の回りを取り巻き連中で固め、権威主義的な政体を確立しました。彼に権威が集中する非常に独裁的な政権運営をするようになりました。彼の独裁が続く中で、ロシアは、非自由主義的で、帝国主義的で、西側諸国に敵対的であるという色彩をより強めていきました。そして、彼は、ついにウクライナへ侵攻をするという決断を下したのです。

 プーチンは、ロシアが非自由主義的で帝国主義的で西側諸国に敵対的であるというアイデンティティを確立する過程で、情報統制を行ったり、様々な思想家を利用しました。1980年代後半から90年代にかけて、ロシアでは多くの者が西側諸国の文化や政治体制に注目していました。しかし、多くのロシアの思想家や出版社や団体は、西側諸国の情報に触れることはできませんでした。ダイエン紙やザフトラ紙などの新聞には、アメリカが及ぼす文化的および政治的な悪影響ばかりが記されていました。多くの学者が、外国の独裁者による強権的な政権運営の利点を称賛しています。アレクサンドル3世やニコライ1世などの抑圧的な皇帝が称賛されていましたし、アウグスト・ピノチェトのような独裁者まで称賛されていました。アレクサンドル・ドゥーギンという気狂いの哲学者がいたのですが、彼は20世紀に衰退してしまった共産主義とファシズム、21世紀に標準化した自由主義に代わる第四の政治的理論としてネオ・ユーラシア主義を主張していました。彼によれば、有史以来の世界構造は海の秩序をコントロールする海洋国家と陸の秩序をコントロールする大陸国家に分けられるとのことです。ソ連崩壊後においても、それは当てはまります。地球規模の市場原理主義の下でグローバル化を主導するシーパワーのアメリカと、独裁や宗教を統治論理とするランドパワーのロシアが対峙していました。プーチンは、ネオ・ユーラシア主義を国際的な運動にすることを目指して活動を続けました。それで、ロシアの政界や軍や報道メディアの中にも彼のシンパは少なくないのです。

 プーチンは就任当初から、世界におけるロシアの影響力を増大させることと、国内では治安機関の機能を強化して統制を強めることに執着していました。NATOの拡大や、西側諸国によるベオグラードやイラクやリビアへの空爆を見て、プーチンは西側諸国に対する懸念を深めました。また、国内での情報統制に力を入れるようになりました。彼はまた、ロシア国民を団結させるためと、ロシア独自の独裁や宗教を統治論理としたランドパワーを定義するために、シンボルや伝統的な制度を上手く活用しようとしました。彼は、古いソビエト国歌を、歌詞だけ新しく差し替えて復活させました。彼は、自分が正教会の信者であることを取材陣や訪問者に告げていましたした。また、ティホン・シェフクノフという名のドゥホヴニク(精神的指導者)を雇っているという噂が流れた時も否定しませんでした。

 2004年、ウクライナがオレンジ革命の真っ只中にあった時、プーチンはウクライナが西側諸国と親しくなるのを防ぐため、治安部隊を投入しました。また、彼は、帝国主義的な主張をしました。彼は、ニコライ・ベルジャエフやイワン・イリインを賞賛し始めました。2人は、いずれも思想家で、高貴なロシアがウクライナを支配すべきだとの主張をしていたからです。2人の思想家の主張を聞き逃す人が出ないようにと、クレムリンは地方の知事や官僚に2人の著書を配布しました。

 2007年に、プーチンが西側諸国を激しく批判する演説を行いました。そして、彼は、ミュンヘンに、かつてソビエトの最大の敵とされていた作家であり思想家である人物、アレクサンドル・ソルジェニーツィンを訪ねました。プーチンと同様、ソルジェニーツィンはロシアとウクライナは切り離せないと考えていたのです。プーチンは、ソルジェニーツィンもウクライナはロシアと一体と考えていると喧伝しました。しかし、プーチンは、ソルジェニーツィンの主張で自分に都合の悪い部分は無視していました。実は、1991年にソルジェニーツィンは、ウクライナの国民が独立を望むのであれば独立すべきであると言っていたのです。実際、その年にはウクライナで国民投票が実施され、90%が独立に賛成していました。ソルジェニーツィンは言っていました、「ウクライナ国民が望むならば、独立すべきです。ロシアは、それに反対しないし、隣国同士仲良くすべきです。」と。

 2012年、プーチンが大統領に返り咲いた時、民主主義的な価値観はロシアから消え去りつつありました。また、彼は独裁色をより強めていきました。彼は政権に批判的な者を取り締まり、アメリカの支援を受けている「裏切り者」であると罵りました。彼は、クリミアを占領し、ウクライナ東部に侵攻しました。彼は、モスクワは西側諸国の自由主義的思想と対峙するネオ・ユーラシア主義の中心地であるとの考えを持っていました。政治アナリストのミハイル・ジーガーによれば、新型コロナのパンデミックが始まって以降、彼はアドバイザーたちにもほとんど会わなかったようです。しかし、メディア王であり、ロシヤ銀行の筆頭株主でもあり、ロシアの独裁体制を支持しているユーリー・コバルチュックとは何日も話しこんだそうです。近年、プーチンの考えに共感している政党が西側諸国にいくつか出現しました。フランスの国民戦線やイギリスの国民党などです。ハンガリーのヨッビク党、ギリシャの黄金の夜明け党、米共和党の右派なども、プーチン特有の非自由主義に感化されているようです。ドナルド・トランプの元側近の思想家スティーブ・バノンは、先日言っていました、「そもそもウクライナは国ではない。元々、ロシアの一部だ。」と。

 マリウポリなどウクライナの都市の惨状を見れば、プーチンに信仰心や慈悲深さや慎み深さがないことは明らかです。ジャーナリストのキャサリン・ベルトンによると、プーチンは、権力を掌握したての頃に、腹心の銀行家であったセルゲイ・プガチョフと正教会へ礼拝に出かけたそうです。プガチョフは正教会の信者であったので、プーチンに「神父の前で懺悔するべきだ。」と言ったそうです。するとプーチンは答えたそうです、「どうして、私が懺悔などしなければならないのか?私はロシア連邦の大統領だ。誰に許しを請う必要も無いのだ。」と。♦

以上