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ボルチモアにあった全米盲人連合(NFB)の本部に、電気自動車等の静かな車の問題点を調査する委員会が設置されました。自動車規制当局や自動車業界の技術者たちとミーティングを重ねました。そこで、解決策として提案されたのは、電気自動車にさまざまな装置を据え付けてドライバーに衝突の危険を知らせるということでした。センサーやカメラをたくさん付けることや、ドライバーに人工音声で危機が迫っていることを知らせる等をするべきだとの提案がなされたのです。1960年代半ばにエド・ピーターソンなる人物が”Bac-A-Larm”という商標名でトラック等が後退する際にピーピー鳴って周囲を警戒させる装置を開発したことによって、都市の喧騒は耐え難いレベルになりました。しかし、最近のトラック等は後方視認用カメラを搭載しています。ですので、歩行者がいたりする場合には、人工音声が運転席のドライバーに警戒するように指示するだけです。車の後ろにいる人に警告音を出すわけではありませんし、ピーピー音も出しません。ですので、都市の喧騒は昔より穏やかになりつつあります。電気自動車も同じような仕組みで後方や周囲を警戒しています。最新のモデルともなると、センサーやカメラが本当にたくさん付いています。しかし、全米盲人連合の会員たちは、そうしたアプローチには強く反対しました。というのは、そうした仕組みは、差し迫った事故を未然に防ぐことを目的としているからです。そうではなくて、ヒヤッとするような事態の発生を防いで欲しいのです。
ある会合で、ある自動車メーカーのエンジニアが1つの提案をしました。ガソリンエンジン車には騒音を規制する法律があり、騒音の最大値が定められています。だったら、電気自動車にも騒音を規制する法律を作り、騒音の最小値を定めたら良いのではないかという提案でした。その提案を聞いて、スタインは言いました、「これは画期的なアイデアだ。」と。
しかし、議会に電気自動車の騒音の下限を定める騒音規制法案の制定を促すために、全米盲人連合(NFB)はそれが必須であると認識できるようなデータを示す必要がありました。1990年代から2000年代初頭にかけては、ハイブリッド車や電気自動車の数はそれほど多くありませんでしたが、視覚に障害がある者も無い者も含めると、歩行者が関係する事故の数は無視できないほど大きなものでした。全米盲人連合(NFB)はたくさんの事故事例を収集しました。ヒヤリハット事例や軽症事故のデータも収集していました。しかし、収集したデータは事例証拠(anecdotal evidence)でした。「事例証拠(anecdotal evidence)は、定量的情報ではなく定性的な事例情報としての証拠ですので、統計的には何の根拠ともならないのです。」と、全米盲人連合(NFB)の政策担当役員のジョン・パレは私に言いました。
静かな電気自動車等が危険であることを証明するデータが無かったので、道路上での死傷者や経済的損失を減らす役割を担う連邦政府機関である米国運輸省道路交通安全局(National Highway Traffic Safety Administration)は、何もできませんでした。米国運輸省道路交通安全局は、2000年以降にハイブリッド車や電気自動車が盲人でない歩行者や自転車と衝突事故を起こす率を調査しました。ガソリンやディーゼルエンジン車の率も調べていて、両方を比較しました。それで、明らかになったことがありました。2000年から2007年まで限られたデータを元にして作られ2009年に公表された報告書によると、ハイブリッド車と電気自動車が歩行者と衝突事故を起こす率は、エンジン車に比べてほぼ2倍であることが明らかになりました。2011年10月には、より多くのサンプル数を用いたより詳細な調査結果が公表され、ハイブリッド車と電気自動車が歩行者との事故に遭う確率は35%、自転車との事故に遭う確率は50%もガソリン車よりも高いことが明らかになりました。それらの事故の多くは、道路上ではなく、駐車場やその付近等で、ドライバーがバックしている時やハンドルを切って曲がっている時に発生しています。
下院の審議を経て、歩行者安全強化法 (Pedestrian Safety Enhancement Act)なる法律が承認されました。全ての自動車に音を発することを義務付けるものでした。バラク・オバマ大統領が2011年1月4日に署名してその法律は発効しました。この法律では、その警報音がどのような音であるべきかということは規定していませんでした。この問題を解決するために、米国運輸省道路交通安全局(NHTSA)は6年の歳月をかけて、372ページに及ぶ基準書を作成しました。音響に関する規則が数値化されていました。どうして、基準を作るのにそんなに時間がかかったのでしょう?
パレは言いました、「電気自動車等が人工的に発する音は、ある程度、ガソリン車と同じような音にしないと、効果がないと推測されました。既に世の中の誰もが、自動車が近づいてきた時の音がどういうものかということを認識していたわけです。しかし、人工的にその音を作り出すということは、実は容易なことでは無かったのです。法律や規制で、電気自動車が発する音を規定する、あるいは文書化する必要があったわけですが、それは非常に難易度が高かったので時間がかかってしまったのです。」と。
多くの電化製品が音を発します。しかし、有名な作曲家を採用して作り上げた音はほとんど無いようです。例えば、私の家のキッチンには、どこの家にもあると思うのですが、家電製品がひと通り揃っています。食器洗い機、電気オーブン、電子レンジ、冷凍冷蔵庫、電気ケトル、コーヒーメーカーです。それらは、一日中、ビープ音、人工音声、チャイム音を発しています。それぞれの機械が始動開始時や仕事を終えたことを知らせる目的で音を発しているのですが、それらの音に統一感は無く、リズムも音階もバラバラです。不調和なシンフォニーを奏でているようです。何の規制も無く思い思いに音を作ると、こうなってしまうのは致し方ないところです。
電気自動車は、音響関係の仕事でサウンドを作り出している人に能力を発揮して活躍する機会をたくさん提供しました。車内で出す音を作り出したり、車外に発する音を作り出すには、たくさんの人手がかかりました。。センサーや車載カメラや自動画像分析システムやクラウドベースのアルゴリズムが運転の多くを担うようになったわけですが、人工音はそのような機械とドライバーとの主要なインターフェースでもあります。もし自動運転車が実用化されれば、ユーザー(ドライバー)は人工音声による警告がない限り、本から目を離したり、うたた寝から目を覚ましたりする必要がなくなります。ドライバーをアシストする半自動運転機能を搭載した新型車の多くは、速度調整や車線変更を勝手に行ってくれるわけですが、その際には車内に人工音声を発してドライバーや他の乗員に、意図してそうした動作をすることを知らせています。もし、それが無いと、ドライバーは自動自動車が意図して減速したのか、減速する必要が無いのに誤作動で減速したのかがわからず困ってしまいます。
それは、音響心理学分野(psychoacoustic research)では、プライミング・サウンド(priming soundo:先行音)として知られています。また、車載カメラやセンサーが近くに障害物があるのを検知すると、緊急に衝突を回避するためにアラート音を発することもあります。
世界の音響心理学研究(psychoacoustic research)の中心地であるパリにある音響・音楽研究所(Institute for Research and Coordination in Acoustics/Music。略号IRCAM)の音響知覚研究チームのリーダーを務めているのは、ニコラ・ミスダリです。彼の研究チームは、2008年から、ルノーグループと共同で、電気自動車のプロトタイプや市販車のサウンドデザインを行っています。
今年2月に、私はミスダリを訪ねました。パリ4区にあるポンピドゥー・センターに隣接するIRCAMのオフィスまで歩いて行きました。狭い歩道は歩行者や電動スクーターであふれかえっており、私はほとんど車道上を歩かなければなりませんでした。ディーゼル車が発する音や、モペット(エンジン付自転車)のボコボコという音などが聞こえました。そうした音は、ヨーロッパの都市に特徴的なもので、アメリカの都市とは趣きを異にするものです。背後からそうした音が近づいてくるのを聞きながら、私は道を譲るタイミングを計っていました。唯一、1度だけヒヤリハットがあったのですが、パリでもニューヨークと同じように新型コロナ以降に普及していたシェアリングの電動バイク(e-bike)が背後から来た時でした。電動バイクは移動時に音を出すことが法律で義務付けられていませんが、人工エンジン音を発する電動バイクを作っているメーカーもあるようです。
ミスダリが私に言ったのですが、ルノーとの共同研究を始めた当初、研究チームは音響デザインについて討議する際に、新しい分野であるので適切な用語が無くて苦労したことが多かったそうです。彼は言いました、「グラフィックデザイナーが 『これは赤い三角形だ 』と言えば、別の解釈はありえないわけです。しかし、誰かが『暖かい音が欲しい』と言った場合、言われた方は『暖かい音とは何なのか?』と迷ってしまいます。丸い音とか、荒い音とか、緑の音とか、陽気な音とか、可笑しな音とか言われると、意図している音の感じはわかるのですが、言語化できるほど正確に認識している者は誰もいないでしょう。誰もがハッピーな音楽はどんな感じの音楽かがわかると思うのですが、しかし、たった2秒間のハッピーな人工音となると、定義は難しいのです。サウンド・デザイナーの仕事は、グラフィックデザイナーがしているのと同様です。音を様々な側面から分析して、意図した音を生み出すことなのです。そうした仕事をする上で適切な用語で表現することが難しいという状況は、大変な試練でした。」と。ルノーの研究チームは最終的に、音を視覚的に表現するツールを開発しました。高低やリズムやメロディを数値を使って表すようにしたのです。ミスダリは言いました、「効率的なサウンドデザインを実現するために、これらのツールが必要だったのです。」と。
IRCAMの研究チームは、電気自動車の車両音響警報システム (AVAS:acoustic vehicle alerting system)の音について、細かいことまで研究しました。そもそも電気自動車の発する音をガソリンエンジン車の音に似せるということは、良いことなのか悪いことなのか?といったことです。スマホの人工合成したベル音は、かつての固定電話のベル音を模したものですし、MacBookで書類を廃棄する時に鳴るカサカサ音は、実際に紙の書類を捨てる時の音を模したものです。それは、スキューモーフィズム(skeuomorphism:他の物質に似せるために行うデザインや装飾)と言われる手法ですが、電気自動車の人工音にもこの手法を適用することの是非が慎重に検討されました。また、イヤコン(ear-cons)を使うと言う案も検討されました。イヤコンとは、特定のイベントを表す、または、特定の情報を伝える、短くて独特の音のことです。放射能を調べるガイガーカウンターの「ガガッガガッ・・・」という抽象的な音は、イヤコンの1例です。ミスダリの研究チームは、スキューモーフィズムとイヤコンという2つの選択肢についての研究を続け、人工音を開発していきました。彼が言ったのですが、その結果として分かったことは、エンジン車の音に似せた音は理解されやすいが覚えにくいということと、シンボル的な音は理解されにくいが脳に刷り込まれやすいということでした。
IRCAMの研究チームは、イタリアの音楽プロデューサー兼作曲家であるアンドレア・チェラ(Andrea Cera)と共同で研究を行いました。チェラは、電気自動車の普及によって、都市を取り巻いている音を根本から見直す機会が得られたと言っていました。自然界では鳥のさえずりが聞こえますが、それは決して耳障りではありません。それをモデルにして、さまざまな音が競い合うのではなく、全ての音が調和して溶け込むような都市の音響環をデザインして実現すべきだと構想していました。彼らは、世界のいたるところのサウンドスケープ(音の風景)を分析しました。それで、彼らが認識したのは、必要な時に必要最低限の音を発することがベストであるということでした。音を大きくすれば、周りに警戒してもらえるというわけではないということでした。電気自動車の車両音響警報システム (AVAS:acoustic vehicle alerting system)の音は、メロディではなく、短い音で十分だということでした。彼とIRCAMの研究チームがルノー車のために研究して開発して生み出した音は、短い音で、必要最低限のものでした。彼は言いました、「都市のサウンドスケープは非常に混沌としています。車の走行音、電話の音、クラクションの音、ラジオ音声などが溢れていています。そんな中で周囲から興味を持たれたいのであれば、大きい音を出しても無駄です。むしろ、静かな音の方が良いのです。
実際、IRCAMの研究チームがルノー車のために開発したサウンドは、驚くほど優しいものでした。鳥のさえずりというよりは、むしろ洗濯機をデリケートモードで回した時のようです。パリのサウンドスケープには、そのサウンドは相応しいと思います。しかし、ニューヨークではどうでしょうか?ここの喧騒は凄まじく、道路上の交通渋滞は酷く、ガソリンエンジン車が騒音を撒き散らしていている中で、このエレガントなフランス流のアラート音は人々の興味を引くことができるのでしょうか?