2.ファージ療法の不幸な歴史
ブロジェットがファージ療法には元々懐疑的であったのは、ファージ療法の複雑な歴史が影響しています。米国では未だに実験的段階にある治療法と見なされていますが、ファージは、1世紀以上前に発見されて以来、細菌感染の治療と予防に使用されてきました。現在、多くの米国の医師は、ファージ療法について非常に関心を持っていて、本当に効くのか否か知りたいと思っています。
ファージが発見されたのはかなり昔のことです。しかし、発見された当時、ファージを活用するために必要な技術や科学的知見は未だ世の中に存在していませんでした。1915年、英国の細菌学者フレデリック・トワートが、細菌を殺す感染性病原体が存在することを論文に記しました。しかし、彼がしたのはそれだけで、さらなる研究はしませんでした。1917年、フランス系カナダ人の生物学者フェリックス・デレーユは、ファージという名前を付けて現象の詳細を記しました。不幸なことですが、デレーユはパリのパスツール研究所で1人で孤独に無給で研究を続けていました。さらに不幸だったのは、無謀にも彼がファージは人間の免疫反応の根源であると主張したことです。その主張は、ノーベル生物医学賞を受賞したブリュッセルのパスツール研究所の所長ジュール・ボルデの研究とは正反対でした。ボルデは、免疫反応の根本は抗体であることを論文に記していました。デレーユは、抑制を欠いて、ボルデの研究を誤りが多いと非難しました。ボルデは、トワートの研究結果を持ち出して反論しました。その結果、今現在でもファージを発見したのは誰かということは、論争の的となっています。
デレーユは、細菌がいるところならどこでも、ファージが沢山あることに気づきました。また、特に細菌に感染した人間の排泄物等に多いことも発見しました。彼は悪臭を放つ水とブイヨンを混ぜ合わせ、細菌が増殖するまで待ちました。濁ったブイヨンを十分に細かいフィルターで漉しました。細菌はフィルターを通過せずに残り、ファージは通過し、分離されました。それから、ファージが残っている液体を、細菌(ファージに攻撃される)で満たされた試験管に注ぐ実験をしました。結果は予想していたとおりでした。ファージの安全性を証明するために、自分自身と家族と同僚の何人かにファージを投与しました。安全性が証明された後、デレーユは腺ペストを患った4人の腫れたリンパ節にファージを注入しました。奇跡的といえるほどの治療効果が見られました。一時のことでしたが、ファージの研究は盛り上がりました。1925年に、ピュリッツァー賞を受賞したシンクレア・ルイスの小説「アロウスミスの生涯」でも、作中で主人公がファージ療法の研究をしていました。
それでも、ボルデらパスツール研究所の幹部たちは、デレーユの研究成果を決して認めませんでした。また、多くの研究者がファージ療法の有効性は過大評価されていると思っていました。デレーユは英国政府の要請により、インドへ赴いてコレラを終息させるためにファージを井戸に投じました。でも、ファージ療法に対して人々の期待が高まることは無かったのです。当時の技術では、ファージを目で認識することは不可能でした。大腸菌は、種類によって異なりますが、長さは2000分の2ミリメートル程です。それは当時の顕微鏡でかろうじて視認できる光の波長の長さと同じくらいです。大腸菌を攻撃するファージはさらに小さくてサイズはその10分の1程で、見ることが出来る大きさの100分の1以下でした。1937年、走査型電子顕微鏡の発明によって、ファージが見えるようになりました。最初のファージの鮮明な画像は、ナチス政権下のドイツによるものでした。英国、米国の研究者がそれを見るのは、その数年後のことでした。今日、ペトリ皿上で細菌を破壊するファージを見ることは難しいことではありません。黄色がかったスープのような細菌の層の中に、死んだ細菌が透明でガラスのように固まっているのを見ることができます。
1930年代に、共産主義思想に共感したデレーユは、スターリンの招待を受けてジョージア(当時はソ連の一部)のトビリシのファージ療法研究センター設立に参画しました。第二次大戦中、ソ連とドイツの衛生兵は、怪我や火傷からの感染を防ぐために、瓶に入れたファージを野戦キットの中に入れていました。デレーユが米国の敵国の協力者となったことにより、西側諸国の医療研究者の多くがファージ療法は好ましいものではないと考えるようになりました。医学史家ウィリアム・サマーズが書いていますが、大戦後、ファージ療法は、「ソ連の汚物」との汚名を着せられました。ファージ療法は悪徳国家が生み出した悪魔の技術として見なされました。
それでも、1961年までは、米国でもファージ療法を熱狂的に支持する人が少なからずいました、エリザベス・テイラーなどです。彼女は、映画「クレオパトラ」の撮影中に重度の肺炎を発症し緊急気管切開術が必要となった時に、ブドウ球菌バクテリオファージの投与を受けました。当時、ファージ療法は廃れていました。というのは、戦後ペニシリンが西側諸国では広く使われるようになり、細菌感染症の好ましい治療法と認識されていたからです。東欧諸国では、ファージ療法は廃れておらず、粉末、スプレー、シロップなどの形で、経口投与や患部に塗布されていました。しかし、鉄のカーテンの反対側では、ファージ療法はほとんど実施されていませんでした。実は当時でもファージ療法の研究は続けられていました。DNAの二重らせん構造の発見者として有名なフランシス・クリックとジェームズ・ワトソンの両名もファージ療法の研究をしていました。しかしながら、両名とも西側諸国の感染症研究をリードする者たちとの交流はありませんでした。
抗生物質耐性菌の増加を、ペニシリンを発見したスコットランドの細菌学者アレクサンダー・フレミングは予測していました。ペニシリンを偶然発見してから17年後の1945年に、彼は、ペニシリンの乱用によって耐性菌が出現するだろうという論文を書いていました。1947年には、ペニシリン耐性黄色ブドウ球菌が英国の病院で発見されました。それでも、フレミングの警告に耳を傾ける人はほとんどいませんでした。抗生物質はどこでも乱用されていました。家畜の成長補助剤として使われることもありました。突然変異をする抗生物質耐性菌と、さらに強力な抗生物質を開発する細菌研究者との間で、イタチごっこの軍拡競争が勃発しました。さらに悪いことに、抗生物質耐性菌の出現を恐れ、ここ数十年間、感染症治療では抗生物質の使用量を出来るだけ減らそうという空気が支配的でした。新しい抗生物質が開発されても、耐性菌を出現させず抗生物質の効果を維持するために最小限しか使われませんでした。いわゆる最後の手段としてしか使われませんでした。その結果、製薬会社は抗生物質を開発してもコストを回収することはほとんど不可能な状況でした。1980年代以降、適用範囲が広い抗生物質は全く生み出されていません。2001年に、世界保健機関は抗生物質耐性菌に対する研究が必要であるとの緊急提言をしました。ファージ療法が再び脚光を浴びる可能性が出てきました。