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リップマンが著書を出して以降で、報道機関の行動を記録検証した著作はあるのでしょうか?”City of Newsmen: Public Lies and Professional Secrets in Cold War Washington”(未邦訳)という著書で、キャサリン・J・マクガー(Kathryn J. McGarr)は、冷戦の最初の数十年間におけるワシントンにあった新聞各社の報道内容を検証しています。彼女が膨大な量の記録を調べたことで、明らかになったことがあります。それは、ワシントンの新聞記者たちが、国家安全保障上の問題については政府が正しい情報を与えないこともあると認識していたということです。例えば、アメリカがソビエト上空に偵察機を飛ばしていたとか、訓練した亡命者をキューバに送り込んでフィデル・カストロを退陣させる工作をしていた等の情報は報道各社にはもたらされませんでした。また、「共産主義の拡大をくい止める」という公式見解の裏に隠された政府の意図があったことも、中東政策が西側諸国の油田への権益を維持するためのものであったことも、中米政策がユナイテッドフルーツ社の売上を増やすために地域の安全を守るものであったことも、新聞記者たちは認識していたようです。
では、なぜ新聞各社は自分たちの知っている情報を報道しなかったのでしょうか?マクガー(現在はウィスコンシン大学マディソン校で歴史学者をしている)は、ケーブルテレビ局や大手新聞社でワシントンで取材していた人たちには、あるイデオロギーがあったからだと考えています。彼らはリベラルな国際主義者(liberal internationalists)でした。アメリカがベトナムに軍事介入する(1965年に海兵隊がベトナムに上陸)までは、それがアメリカのエリートたちに共通の政治姿勢だったのです。アメリカ政府と同様に、またフォード財団(Ford Foundation)のような慈善団体やニューヨーク近代美術館(Museum of Modern Art:略号MOMA)のような文化的機関のリーダーたちと同様に、新聞各社の記者たちも、冷戦下の政策で最も重要なのは西側諸国の安全保障だと確信していました。彼らは、アメリカがヒトラー打倒を掲げて戦った際のリベラルな価値観を重視し、それを促進する政策を支持していました。
編集者や出版者を含むワシントンで働く報道関係者の多くは、第二次世界大戦中に、戦略事業局(Office of Strategic Services:CIAの前身)や戦争情報局(Office of War Information)などのワシントンやロンドンにある政府関連機関で勤務した経験があります。彼らは、大戦時に国に尽くしたわけですが、大戦が終わった後も彼らの頭の中から使命感が消えることはありませんでした。民主主義を守ることは、政府だけの仕事ではないのであり、それは、報道機関の仕事でもあると考えていたのです。
アメリカ政府が秘匿したい情報を報道記者が入手した場合、それを公表することで冷戦状態が悪化するのではないかと自問自答することとなります。マクガーは言いました、「ワシントンで働く報道関係者は、戦後も平和を守るために尽くすという使命感を持ち続けていました。それゆえ、彼らにとって、質の高い報道とは、政府のためになるものではなく、平和を擁護するものを意味したのです。」と。
もう1つ公表をためらう理由がありました。それは、核戦争への不安でした。ソビエトが原爆を開発した1949年から1963年に核実験禁止条約(Test Ban Treaty)が発効するまで、核戦争によって世界が終末を迎えるという不安が世界中を覆いました。当時の多くの報道関係者もそうした不安を共有していました。冷戦はパワーバランスを競う戦争でした。当時アメリカ政府は非公式に”containment”(封じ込め)と言う語を使うことがありましたが、それは、均衡しているバランスを崩さずに現状維持し続けるということでした。そのバランスが崩れて一方に傾いてしまうと、原爆が飛び交う可能性があるため、新聞各社は掲載内容に最新の注意を払わざるを得ませんでした。
また、マクガーは、ティモシー・クラウス(Timothy Crouse)が1972年の大統領選について記した名著”The Boys on the Bus(未邦訳)”の中で記されていたパックジャーナリズム(pack journalism)について言及しています。それは、群れ(pack)をなして事件を追いかけて好奇心をあおりたてるようなジャーナリズムの報道ぶりを指す語で、批判的に使われるものです。当時のワシントンの新聞各社はそれをしていました。新聞各社は名目上は互いに競い合う関係にあったとはいえ、記者や編集者はマクガーのいう水平方向の圧力(horizontal pressure)を感じていたのです。つまり、情報源や他の記者たちとも良好な関係を保たなくてはならないという圧力にさらされていたのです。政府関係者と報道関係者の間には、ファイアウォールのような障害物は何も無かったのです。それどころか、記者と政府関係者は頻繁に顔を突き合わせており、仲も良かったのです。
当時の政府関係者は、ほとんど白人の男性だけで占められていました。1945年から1975年の間には、女性閣僚も黒人閣僚も1人しかいませんでした。しかも、それぞれたった2年の任期でした。報道機関側は、もっとひどい状況でした。女性や黒人の記者は、事実上排除されていたのです。女性や黒人はそもそも報道機関に入ることができず、編集者は政府関係の取材に女性を割り当てることはなかったのです。徹底的な人種差別と性差別が、現在では信じられないほど長く続けられていたのです。
ワシントンでジャーナリストの社交場といえば、1885年設立のグリッドアイアン・クラブ(Gridiron Club)と1908年設立のナショナル・プレス・クラブ(National Press Club)の2つが中心でした。1896年、グリッドアイアンは多くの会員の妻を夕食会に招待したのですが、参政権運動を風刺する寸劇は評判が悪く、その後1972年まで女性の参加は認められませんでした。1950年代には、顔を黒く塗った会員たちが、グリッドアイアンの夕食会の余興に出演していました。そのクラブで最も好まれて歌われた曲は方言で歌われる「The Watermelon Song」だったとマクガーは報告しています(訳者注:watermelon=スイカはアメリカにおいて肖像や図像によって人種差別的な表現を行う場合、有力なシンボルの一つとなっていた。黒人がスイカに対して尋常でない食欲を示すという人種差別的ステレオタイプが存在していた)。
ナショナル・プレス・クラブに黒人の会員が誕生したのは1955年のことで、この年から会員が政府関係者からブリーフィングを受ける昼食会に女性が参加することが許されるようになりました。とはいえ、女性はバルコニーに座らなければならず、質問をすることも許されていませんでした。ナショナル・プレス・クラブに女性会員が誕生したのは、1971年のことでした。
1951年、ワシントン・ポスト紙は初めて黒人記者を採用しました。白人が使うお手洗いを使うことは許されず、彼専用のお手洗いが設けられましたが、2年後に退社しました(マクガーは、ポスト紙が1972年まで1人も黒人の記者を雇わなかったと記していますが、それは誤りです。同紙は1961年にドロシー・ギリアム(Dorothy Gilliam)を、1967年にジャック・ホワイト(Jack White)を雇っています)。 公民権運動は1950年代から60年代にかけて盛り上がったわけですが、その時分でもタイムズ紙に黒人記者はほとんどいなかったのです。当時、本誌(New Yorker)を含む一般誌のほとんどは、さらに黒人記者の比率が低かったことが分かっています。
リップマンは、著書”City of Newsmen”で、1960年代に発生し、頑なに続いてきたベトナム戦争以前の時代のすべてを共産主義への強迫観念とアメリカの例外主義への盲目的な信仰に還元しようとする傾向を是正すべきであると記しています。しかし、そんな単純な話ではないのです。マクガーは、歴史家がなすべきことを行っています。彼女はその裏話も披露しています。それでも、彼女の主張には大きな欠陥があります。
リップマンによって、1966年から非政府組織等にCIAが秘密裏に諜報員を送り込んで関与していたことが暴露されました。そうした関与が始まったのは海兵隊がベトナムに上陸した直後のことでした。ベトナム戦争が、アメリカの政治の根本的なムードを変化させましたし、政府と報道機関の関係にも大きな変化がもたらされました。その結果、CIAはあらゆるところに触手を伸ばし、出先機関やダミーの財団を通じて、反共産主義を推進したい組織を支援し、可能な限り多くの諜報員を送り込んでいたことが明らかになっています。
諜報員が送り込まれた組織の1つが、報道機関です。1977年、カール・バーンスタイン(Carl Bernstein)がローリングストーン(Rolling Stone)誌に発表した記事によると、1952年以降で400人以上のジャーナリストがCIAのために秘密裡に働いていたそうです。バーンスタインが最も価値がある(most valuable)と表現したタイムズ(Times)、CBS、タイム(Time)を含む主要な報道機関は、CIAの諜報員が外国の情報を得るのを手助けしました。諜報員を自社の記者のフリをさせて海外に送り込んだこともありましたし、CIAが欲する情報をCIAに渡すこともありました。また、記者がCIAの職員から情報を貰うこともありました。
バーンスタインの記事が掲載された直後、タイムズ紙は独自の調査を行って結果を公表しました。それによれば、CIAは50以上の新聞社、通信社、ラジオ局、出版社や他の報道機関に資金援助していました。主に海外での活動に対する対価でした。30〜100人ものアメリカ人のジャーナリストが、報道業務をこなす傍らで、CIAから給与を受け取って諜報員の仕事もしていました。
1980年、タイムズのベテラン記者のハリソン・ソールズベリー(Harrison Salisbury)は、同紙に関して記した著書”Without Fear or Favor”を出版しました。その中で、タイムズのヨーロッパ特派員の一人であるC・L・サルツバーガー(C. L. Sulzberger:タイムズの発行人の甥)が、月に1度ほど、CIA諜報員と会って情報交換をしていたと記しています(バーンスタインも、サルツバーガーはCIAの諜報員だったと証言していました)。
サルツバーガーは激怒しました。彼は、自分がCIAの諜報員や協力者であると考えたことは無かったし、やましいことや説明したりする必要があることは何も無いと考えていました。彼は、自分は純粋に記者として政府等の情報源から情報を得ようとしていただけだと考えていたのです。彼はソールズベリーの著書の内容に反論して、「CIAが私から得た情報よりも、私がCIAから得た情報の方がはるかに多い」と主張していました。コラムニストのジョセフ・アルソップ(Joseph Alsop)も、バーンスタインの著作の中でCIAの諜報員の仕事をしていたと暴露された1人ですが、そのことに怒っているわけではありませんし、悪びれる様子も全くなく堂々としたものです。彼はバーンスタインについて言いました、「私はCIAに情報提供を依頼されたことを誇りに思うし、それを実行したことを誇りに思っています。新聞記者が国に貢献する義務を負っていないという概念は、完璧に間違っています。」と。
タイムズ紙は、CIAに関与したジャーナリストがプロパガンダを書いたかどうか、つまり意図的にCIAが好ましいと思う内容の記事作りをしたか否かが問題だと考えているようでした。そういう問題以外にも、倫理的な観点でも問題があります。CIAに協力した記者がCIAに提供した情報は、彼らが公表しなかった、あるいは公表できなかった情報です。つまり、彼らは、自分がCIAの手先であることを相手に隠して、非公式というかオフレコで情報を得ていたわけです。たとえCIAのために諜報活動を行った記者たちが情報源を秘匿していたとしても、実際には誰に何を話したのかということは今となっては知る由もないわけですが、彼らが情報源を裏切ったことに違いはないのです。