3.
1968年夏にシカゴで開催された民主党全国大会の頃には、冷戦時代の常識や慣行はほとんど通用しなくなっていました。記者たちは、ベトナム戦争の進展に関するホワイトハウスの嘘を掲載するために、自分たちが利用されていたと感じ、反撃に打って出ました。その大会が始まる前から、タイムズ紙、ウォールストリートジャーナル紙、CBS、NBCは、ベトナム戦争に勝利することは不可能だという記事を掲載してました。それは、ジョンソン政権が国民に伝えていることと矛盾していました。そのため、大会が計画された時、リンドン・ジョンソン(Lyndon Johnson)はその年の3月の時点でベトナム問題で追い込まれて大統領予備選への不出馬を決めていたので出席しない予定でした。しかし、彼は大会の運営について非常に大きな責任があると感じていたので、タイムズ紙などの報道機関をできる限り混乱させるような行動に打って出ました。
1968年の大会については沢山の逸話が残っています。当時、ジョンソン政権で副大統領を務めていたヒューバート・ハンフリー(Hubert Humphrey)が予備選に一度も参加していないにもかかわらず民主党の大統領指名候補となりました。民主党予備選挙最有力候補のロバート・ケネディが暗殺されたことを受け党有力者の合議で決まったのです。ベトナム戦争の件で追い込まれていた党有力者の合議で当時の政権の副大統領が指名されたため、党大会では指名に不服な反対派が暴動を起こしました。警察と州兵(National Guard)がデモ隊やカメラマンを街頭で手荒く扱い、2人の特派員が、ダン・ラザー(Dan Rather)とマイク・ウォレス(Mike Wallace)ですが、大会会場で警備員に乱暴されるなどして、反戦勢力はほとんどことごとく排除されました。この顛末はさんざん報道されてきました。MITのメディア史研究の大家であるヘザー・ヘンダーショット(Heather Hendershot)が書いた “When News Broke: Chicago 1968 and the Polarizing of America” (未邦訳) は、当時の出来事をテレビ局の視点で全体を俯瞰して、時系列に順を追って詳細に伝えています。CBSはウォルター・クロンカイト(Walter Cronkite)がアンカーを務めていました。番組のキャッチフレーズは、”And that’s the way it is(「これが現実だ」くらいの意)”でした。、NBCはチェット・ハントレー(Chet Huntley)とデイヴィッド・ブリンクレー(David Brinkley)が司会を務めました。そのキャッチフレーズは、 “Good night, Che.Good night, David(おやすみ、チェット、おやすみ、デイヴィッド)”でした。ABCは当時はまだ2社と違ってリソースが不足していて完全中継する余裕がなかったため、代わりにゴア・ヴィダル(Gore Vidal)とウィリアム・F・バックリィ(William F. Buckley)が解説を行って、騒動の本筋をメインに報道するのではなく、どちらかと言うと付随する小ネタを視聴者に多く提供していました。ヘンダーショットが記しているのですが、ABCは「テレビ局の言論のレベルを高めようとする姿勢を示さなかった」のです。余談ですが、ヘンダーショットは、バックリィが放送中にヴィダルを “gueer(クィア) “と呼んだことについては特に批判していません。
シカゴ市長のリチャード・J・デイリー(Richard J. Daley)は、元々は根っからのケネディ支持派でした。しかし、シカゴ市の大会への支援体制は非常に貧弱で、実質的にケネディと対立していたジョンソン大統領に協力する形になりました。シカゴの町中までたどり着いた多くの報道陣は、いろいろとハプニングが重なったこともあり、驚くほどの不便さに直面することとなりました。タクシーがストライキをしていましたし、電気工事士もストライキをしていました。そのため電話機も十分には設置されない等のさまざまな影響が出ました。大会期間中、記者連中がこぞって公衆電話を使おうとしましたが、コインがいっぱいになってしまって使えないというハプニングも頻発しました。
CBS、NBC 、ABC等の各ネットワークは、大会会場で移動カメラの使用は1台ずつ許可されただけでしたし、テレビとラジオの両方の取材陣がいるのに取材許可証は7枚しか渡されませんでした。全く十分な数ではありません。また、テレビカメラは街頭に持ち出すことは許可されていませんでしので、警察当局が介入するような暴動事件などが発生すると16ミリフィルムで記録しなければならず、現像とか処理で時間がかかるため、取材ははかどりませんでした。
ミシガン通りの戦い(The Battle of Michigan Avenue)」と後に呼ばれるようになった事件が発生したのは、大会3日目の8月28日の午後8時ごろのことでした。テモ隊はグラントパーク(Grant Park)から大会の開かれていたコンベンションホールまでの5マイル(8キロ)を行進する計画でした。しかし、ヒルトンホテルの前で、襲撃されたのです。そのホテルには、ベトナム戦争反対派の急先鋒で予備選でハンフリーの対立候補であったユージン・マッカーシー(Eugene McCarthy)とハンフリーが本部を置いていました。警察隊がデモ行進をしていた群衆に向けて突撃したのです。デモ参加者は無差別に棍棒で殴られ、1,000人以上が逮捕拘禁されました。揉み合いはわずか17分で終わりました。1時間ほどで16ミリフィルムが処理され、その件が放送されたわけですが、その時点では騒動は既に終わった感じでした。
各テレビ局のニュースキャスターは無関心な姿勢を貫きました。警察当局の暴力行為を隠蔽するようなことはしませんでしたが、デモ隊の行動を支持するような姿勢も示しませんでした。この暴動は格好のネタであるので、各テレビ局はそれを報道しました。しかし、事件の重要性を鑑みると、いささか報道は過少でした。イギリスのジャーナリスト、ゴッドフリー・ホジソン(Godfrey Hodgson)は、戦後を描いた大著”America in Our Time” (未邦訳:われらの時代のアメリカ)の中に記しているのですがで、CBSは38時間にわたって大会を報道しましたが、デモ隊に割いた時間はたったの32分、NBCは19時間報道し、デモ隊に割いたのは僅かに14分でした。
ヘンダーショットの数字は若干違うわけですが、差はそれほど大きくないそうで、デモ隊の映像が主要ネットワーク局の報道ではほとんど流されなかったという点に同意しています。しかし、どうにかしてシカゴ市長のデイリーと民主党は、視聴者に、デモ行進の件がほとんど報道されないのは、報道各社に責任があると信じ込ませることに成功しました。アメリカ国民のほとんどは実際に起こったことを見せてもらえない状況でした。本来であれば、そんな状況になったら、テレビに映っていることやキャスターが言っていることを信じるべきではないのです。それは、フェイクニュースです。
反戦デモの主催者はシカゴ市長のデイリーを非難しました。突入した警官隊は彼の管轄下にありました。しかし、ミシガン通りの戦いの翌日、クロンカイトは生放送でデイリーにインタビューしたのですが、ほとんど媚びへつらうような態度でした。クロンカイトはインタビューの冒頭で「これだけは言える、デイリー市長、あなたにはシカゴだけでなく国中に多くの支持者がいる」と言い、殴られた記者をデイリーが反戦運動を煽っていると非難するように仕向けたのである。クロンカイトの伝記を書いた作家のダグラス・ブリンクリー(Douglas Brinkley:前述のデビッド・ブリンクリーとは無関係)は、このインタビューを「お粗末極まりない 」ものだったと指摘しています。
デイリー市長は、騒動の責任を取らされましたが、負った傷は僅かでした。彼は、大衆が自分の味方であることを知っていました。大多数のアメリカ人は、アビー・ホフマン(Abbie Hoffman)やアレン・ギンズバーグ(Allen Ginsberg)のような有名な抗議活動家を愛していませんでした。多くのアメリカ人は、抗議活動家やその信奉者たちが叩かれるのを見るのが嫌いではなかったのです。多くの人々が、シカゴ市で起こったことについて市長や警察当局を責めることはありませんでした。逆に報道機関が非難されました。
主要テレビ局各社には偏向報道を非難する手紙が殺到しました。ヘンダーショットは、1人の空軍大佐からの手紙が印象的だったと記していました。報道機関を批判をする内容で、「ブラボー!ブラボー!ブラボー!先日の大会でのイッピー(Yippies)、ヒッピー(hippies)、ジャンキー(junkies)、チンピラ(hoodlums)、クズ(bums)、その他のカス(scum)に対する警察当局の対処は完璧でした。私は、警察が報道機関というあからさまな挑発者に対して多大な注意を払ったことに喜びを感じています。」と記されていたそうです。CBSへ届いた抗議文は、11対1の割合で、CBSの報道に批判的でした。一方、デイリー市長へのメールは、圧倒的に肯定的なものが多かったそうです。
歴史家のデビッド・ファーバー(David Farber)は、この大会についての著書”Chicago ’68”(未邦訳)の中で、デイリー市長の武力行使について世論調査を実施したところ、過剰であると答えた白人はわずか10%であったと記しています。また、戦争反対派の中でも、70%以上はデモ隊に否定的でした。
ところで、私が最も注目すべきだと思ったのは、デイリー市長が報道機関に全ての責任を負わせることができたことです。ウォルター・クロンカイトやチェット・ハントレーは決して過激派ではありませんでした。彼らは、デモ隊に何が起こったかということはほとんど報道しませんでした。代わりに、ずっと大会での報道メディアの扱われ方について、率直に批判的な意見を述べていました。ヘンダーショットは記しています、「有力テレビ局各社は、シカゴで大会が開かれた際に概ね何の問題も起こしていませんでした。粛々とルールに従って報道していて、それこそ公平な報道がなされていました。ですので、事件後に非難を浴びたのは不当と言わざるを得ません。」と。しかし、彼女はシカゴでの大会が「主要メディアに対する不信感を深めるきっかけとなった」と考えています。
そうして報道機関への信頼度が低くなった状況を共和党の政治家たちは利用しました。彼らは、報道機関を悪者に仕立てることが良い政治であると考えたのです。シカゴの事件の9週間後に大統領選に勝利したリチャード・ニクソン(Richard Nixon)は、報道メディアと激しく戦いました。ニクソン政権では、副大統領スピロ・アグニューが扇動的な演説によって、主要報道メディアを攻撃しました。それだけではなく、連邦通信委員会(Federal Communications Commission:略号FCC)に反トラスト法違反の疑いがあるとして主要テレビ局各社を追及させました。
これは、主要テレビ局各社にとって最大の悪夢であった。というのは、有力テレビ局というのは、その始まりからして寡占状態にあったからです。連邦通信委員会(FCC)が反トラスト法違反の証拠を見つけて訴訟するのは容易なことでした。また、FCC はゴールデンタイムの番組に対する主要テレビ局各社がコントロールできる範囲を制限しました。それで、ハリウッドの映画制作会社等がテレビ番組制作に参入できるようになりました。主要テレビ局の繁栄の時代は終焉を迎えようとしていました。
報道機関は、共和党が行ったことの下に潜むメッセージを感じ取って忖度するようになりました。ホジソンによれば、シカゴ事件以降、政情不安、公民権運動、戦争などに関する報道は、大幅に減少したそうです。1970年の終わりには、アメリカ人のほとんどはベトナムのことをほとんど忘れていました(その後5年間ベトナムでアメリカ人が死に続けていたのですが)。というのは、ほとんどベトナム戦争のことが報道されなくなったからです。主要テレビ局各社は、ほとんどの視聴者が負傷した兵士や反戦デモ参加者、都市部の暴徒などの映像を見たがらないことを理解していました。同時に、連邦政府がこれまでと同様に規制という武器を保持していて、いつでも躊躇せずにそれを使うことができることも理解していたのです。
しかし、ヘンダーショットの洞察には、分析がいささか表面的すぎる部分があるように思えます。もし、シカゴ事件に関する報道がフォックス・ニュース(Fox News)のスローガンのように「公正でバランスのとれた(fair and balanced)」ものであったとするなら、なぜ多くのアメリカ人はそう感じなかったのでしょうか?偏った視点でニュースを報道したり、事実を誇張し過ぎていたのであれば、報道機関が信用を失うのは当然でしょう。しかし、当時、報道機関はそんなことは全くしませんでした。何せ、デモ隊の件についてはほとんど報道していないのですから。ですから、報道機関が信頼を失ったのは、何か別の理由があったはずです。
ベトナム戦争が関係しているのではないでしょうか。現在のような二極化が始まったのは、ベトナム戦争がきっかけでした。二極化の特徴の1つは、客観性や公平性などというものがもはや存在しないということです。二極化した政治体制下では、賛成するか、反対するかのどちらかしか無いのです。無関心という立場は取れないのです。なぜならば、無関心は見せかけでしかないと誰もが考えているからです。1968年にテレビでシカゴ事件の報道を視ていた者のほとんどは、公正(fair)でバランス(balanced)の取れた報道を望んでいたわけではないのです。彼らが報道メディアに期待していたのは、警官を指差している長髪の若者たちを罵倒するように非難することだったのです。