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多くの人が思っていることは、AIによってたくさんの失業者が生み出されるのではないかということです。そして、その解決策としてユニバーサル・ベーシック・インカム(UBI)が相応しいと考えています。私は、UBIの導入に反対ではありませんでした。しかし、AIに携わる人たちが、AIの影響で増える失業者の救済策としてUBIの導入を提案するのを見て、ちょっと懐疑的になりつつあります。UBIが既に導入されていれば話は別ですが、そうではない状況で、その導入を熱烈に支持するというのは、AIを開発している者たちが政府にツケを回すようなものだと思います。つまり、彼らは資本主義が生み出す問題を激化させ、その問題が深刻化した時には、政府が介入して対処すれば良いと期待しているわけです。たしかにこの問題が極度に深刻化した場合には、政府は対応に乗り出さざるを得ないでしょう。そうしたことを考慮すると、AIが世界をより良い場所にするのに寄与するという目標は、眉唾物にしか思えません。
2016年の大統領選の投票日の前に、バーニー・サンダース(Bernie Sanders)の熱烈な支持者であった女優のスーザン・サランドン(Susan Sarandon)が、ドナルド・トランプ(Donald Trump)に投票した方が、ヒラリー・クリントン(Hillary Clinton)に投票するより革命が早く起きるから良いと言っいていました。今となっては、そんなことを覚えている人はほとんどいないと思います。サランドンがどこまで深く考えていたかはわかりませんが、スロベニアの哲学者スラヴォイ・ジジェク(Slavoj Žižek)も同じようなことを言っており、彼は間違いなくこの問題について深く考えていたと思われます。彼は、もしもトランプが当選したら、それは衝撃的なことで、社会全体に大きな変化をもたらすだろうと主張していました。
ジジェクが提唱したのは、政治哲学分野では加速主義(accelerationism)として知られる概念です。加速主義とは、政治・社会理論において、根本的な社会的変革を生み出すために現行の資本主義システムを拡大すべきであるという考えです。とはいえ、加速主義にはさまざまなバージョンがあって、左翼の加速主義者に共通するのは、「物事を良くする唯一の方法は、物事を悪くすることである」という考え方です。加速主義者は、資本主義に反対したり改革したりすることは無駄なことであると主張します。そんなことをする代わりに、資本主義システム自体が崩壊するまで、資本主義の邪悪な側面を悪化させなければならないと主張します。資本主義を超えるには、新自由主義(neoliberalism)のアクセルをエンジンが爆発するまで踏み込むしかないのです。(新自由主義とは、社会的市場経済に対して個人の自由や市場原理を再評価し、政府による個人や市場への介入を最低限とすべきと提唱する経済学上の思想です。)
それは、より良い世界を実現するための1つの方法であると思います。しかし、もしAI業界が主導するようにしてそのような変化がもたらされるのであれば、AI業界が何を目指しているのかということについて、はっきりさせておく必要があると思います。AI研究者は、これまで人が行っていた作業を代わりに行うことができるAIを構築することで、富の集中を極限まで高めつつあります。そして、彼らは、そのレベルが高まると、社会の崩壊を防ぐために政府が介入するしかないと考えています。それは、意図的であるか否かは別として、より良い世界をもたらすという目的でトランプに投票することと非常によく似ています。そして、トランプが台頭したことは、加速主義を戦略的に追求することのリスクを浮かび上がらせました。最終的に社会全体が再び良くなるかもしれませんが、その前に、非常に悪くなり、その後その悪い状態が非常に長く続く可能性があります。現実的には、事態が好転するまでにどれだけの時間がかかるかは見当もつきません。確実に言えることは、短期、中期的には耐えられそうにないような非常に大きな痛みが伴うということです。
AIは失業者を増やして人類を危機に陥れる可能性があり、人間がそれを止めさせようとしても止めることができないのだから、AIは人類に危機をもたらすという主張をする者がいるようです。しかし、私はその主張にはあまり納得していません。しかしながら、AIが資本家の力を増大させるという点で危険であるという主張には完全に同意します。ペーパークリップ・マキシマイザー(paper clip maximizer)と呼ばれる有名な思考実験があって、それは、ペーパークリップをできるだけ多く生産しろと命じられたAIが作業の効率化のために、遂には作業の妨げとなる人間を殺害するようになるというものでした。そんな人類を殲滅するようなAIが構築される可能性は限りなくゼロに近いと私は思います。そんなことより私が恐れているのは、AIを駆使する企業が、株主価値の向上のために、環境を破壊し労働者階級を崩壊させることです。資本主義は、私たち人類がそのスイッチを切ろうとしても切れないようにするために何でもする機械です。そして、AIは、資本が不均衡に一部の資本家にのみ蓄積するのを非常に巧みに助長するものです。
新しい技術を批判する人たちをラッダイト(Luddites:技術革新反対者の意)と呼ぶことがあります。19世紀にはラッダイト運動が起こりました。ラッダイト運動を起こした労働者たちが実際に何を望んでいたのかを明らかにすることは有益なことです。彼らが抗議していた主な理由は、資本家である工場主の利益が増え続ける一方で、労働者の賃金が下がっていたことでした。食料品の価格も上がっていることにも抗議していました。彼らはまた、安全でない労働環境、児童に労働させること、繊維業界全体の信用を失墜させるような粗悪品の販売にも抗議していました。ラッダイト運動では、無差別に機械類が破壊されたわけではなく、工場の経営幹部が労働者に十分な報酬を支払っていれば、その工場の機械類は壊されず、難を逃れることができました。ラッダイト運動は新たな技術の導入に反対するものでは無く、経済的な正義を希求するものだったのです。ラッダイト運動で、機械が壊されたのは、あくまで工場のオーナーの注意を引くことが目的でした。ラッダイト運動は、現在では、無知な人たちが起こした非合理的な運動であったと解されており、参加した者たちは軽蔑に値すると捉えられています。そういう評価が定着しているのは、ラッダイト運動に加わった者たちが、富を蓄えている資本家連中から中傷され続けてきた結果であると言えます。
現在でもラッダイト運動をする者がいるわけですが、純粋に新しい技術の導入に反対している者もいますし、そうではなくて、経済的正義を希求している者もいます。ちなみに、経済的正義(economic justice)とは、社会のすべてのメンバーが賃金を得ることができ、経済成長に貢献し、経済的な繁栄がもたらされる状態のことです。そして労働者の生活の質を向上させたくて抗議している者もいます。ラッダイト運動を非難している者は、資本の蓄積を助長したいのでしょう。
現在は、テクノロジーが資本主義と結び付き、かつてないほど資本主義が進化するスピードが早まっています。資本主義を批判しようとすると、テクノロジーと進歩の両方に反対しているとして非難されます。しかし、進歩が労働者たちの生活を向上させないものであるとするならば、それは何の意味があるのでしょうか?もし、節約できたお金の全てが資本家の銀行口座に入るのであれば、効率を上げることに何の意味があるのでしょうか?私たちは皆、ラッダイト運動を起こした者のように、新たなテクノロジーに必死に反対すべきです。そうすることによって、資本の集中度合いを増やすことよりも、経済的正義がもたらされるようにすべきです。私たちは、テクノロジーを悪用することを批判すべきです。また、労働者よりも資本家の利益が重視されることも批判すべきです。しかしながら、テクノロジー自体を批判すべきではありません。それ自体には何の問題も無いのです。
今から100年後の理想的な未来を想像してみてください。そこでは、誰も嫌な仕事を強制されることはなく、誰もが個人的に最も充実していると思うことに時間を使うことができます。もちろん、ここからどうやってそこに到達するかを考えるのは決して簡単ではありません。しかし、今後数十年の間に起こりうる2つのシナリオを考えてみましょう。1つ目のシナリオは、経営者や資本家の力が今よりもっと強力になるというものです。もう1つは、労働者の力が今よりもっと強力になるというものです。どちらが理想的な未来像に近いと思いますか?さて、現在稼働しているAIは、私たちをどちらのシナリオに向かわせようとしているのでしょうか?