解明、ディアトロフ峠事件の謎!9人怪死の事件の真相が60年ぶりに科学的に解明された。謎の惨劇の真相は?

Dept. of Exploration May 17, 2021 Issue

Has an Old Soviet Mystery at Last Been Solved?
古いソ連の謎がついに解明された?

The strange fate of a group of skiers in the Ural Mountains has generated endless speculation.
ウラル山脈で9人が謎の死を遂げた事件の真相は藪の中だった。さまざまな憶測が飛び交っていた。

By Douglas Preston  May 10, 2021

ディアトロフ登山グループ、下山予定日過ぎても戻らず。

イーゴリ・ディアトロフは小さいころから機械いじりや登山が好きでした。彼は1936年にスヴェルドロフスク(現在のエカテリンブルク)の近くで生まれました。子供の頃にはラジオを作ったり、よくキャンプに行きました。1957年にソ連がスプートニクを打ち上げた時には、彼は望遠鏡を手作りして、友人たちと夜空をスプートニクが横切るのを見ました。その当時、彼はウラル科学技術学校(略してUPI。現在のウラル工科大学)で工学を学んでいました。ウラル科学技術学校はソ連の有数の工科大学の1つで、優秀な技術者を輩出していました。多くの卒業生が原子力産業や兵器産業や通信業や軍などで活躍していました。ディアトロフは在学中に何度も仲間たちを率いて冒険旅行に行きました。その際、装備品を自分で作ったり、既製品を改造して使うことも良くありました。当時のソ連は「フルシチョフの雪解け」と言われる抑圧が弱まった時期で、多くの政治犯が強制収容所から釈放され、経済も堅調で、生活水準も上昇していました。また、西側諸国に先駆けて人工衛星(スプートニク)の打ち上げに成功し、ソ連の国民は自信を深めていました。1958年の後半、ディアトロフは当時のソ連の若い世代の大胆さと勇敢さを実証すべく雪山への破天荒な探検を計画し始めました。野心的な計画で、ロシア西部とシベリア、つまりヨーロッパとアジアを隔てて南北に走るウラル山脈で16日間を過ごす長距離スキー旅行でした。

 彼はその探検の計画をウラル科学技術学校のスポーツクラブの事務局に提出し、探検の難易度は高いものの全員が山岳遠征や長距離スキー旅行の経験を有していたので問題なく承認されました。ディアトロフの計画では、スヴェルドロフスクの北350マイル(560キロ)のあたり、先住民であるマンシ族が昔から住んでいるエリアを探検する予定でした。マンシ族は、ロシアがシベリアで支配域を拡大していた16世紀頃にロシア人との交流が始まりました。ディアトロフが探検を計画していた頃には、マンシ族の生活はロシア人からの影響を受けていて、ロシア人とほぼ同じような生活をしていましたが、独自の生活習慣も残っていました。狩猟や釣りやトナカイの放牧などの伝統が受け継がれていました。ディアトロフ一行は、200マイル(320キロ)の長距離スキー旅行を企てていて、予定ルートはそれまでロシア人が通ったことのないルートでした。ルートとなる山々の勾配は穏やかで丸みを帯びていましたが、その斜面は不毛で、斜面の下には白樺とモミが茂った広大な寒帯林が広がっていました。多少の起伏がある地形は問題となりませんが、過酷な寒さ、深い雪、強風には注意が必要でした。

 ディアトロフは、クラスメートのジーナ・コルモゴロワを探検に誘いました。他にも学生と卒業生を合わせて7人を誘いました。誘ったメンバーはいずれも若々しく健康で冬山のキャンプを何度も経験しており、長距離スキーも得意でした。ディアトロフの親友ユーリー・クリヴォニシチェンコも誘われて探検隊に加わった1人です。彼は2年前にUPIを卒業し、マヤーク核技術施設(チェリャビンスク40と呼ばれた閉鎖都市にあった)でエンジニアとして働いていました。また、耳が尖った形をしており、小柄で痩せて機知に富んでいて、冗談を言ったり、歌ったり、マンドリンを演奏していました。他にも2人の卒業生が加わっていました。ルステム・スロボディンとニコライ・ブリニョーリです。ブリニョーリはフランス系で、彼の父親は死ぬ直前までスターリン時代の強制収容所で働かされました。学生で加わったのは、ユーリー・ユーディンとユーリー・ドロシェンコ、アレクサンドル・コレヴァトフ、リュミドラ・ドュビニナの4人でした。一行の中の最年少は20歳のリュミドラ・ドュビニナでした。彼女は経済学を専攻し、陸上競技の選手で、熱心な共産党員でもありました。彼女は走る際には長いブロンドの髪に絹のリボンを結んで邪魔にならないようにしていました。以前、彼女は野営した際にハンターに誤って撃たれた経験がありました。彼女が言うには、撃たれたのは誰も周りに住んでいないところだったので、医者に診てもらうためには50マイル(80キロ)も移動しなければなりませんでした。一行9人の探検出発予定日の2日前に、彼らより少し年長ですが、全員と顔なじみで、山岳旅行の経験が豊富なメンバーが1人追加で加わりました。UPIの事務所が安全を担保するために一行に加えるよう推薦したからです。追加で加わったのは37歳で第二次世界大戦で従軍した経験のあるセミョーン・ゾロタリョフでした。口ひげをはやし、口元に銀歯がのぞき、タトゥーを入れていました。

 10人となった一行は、1月23日にでスヴェルドロフスクを汽車で出発しました。その内の何人かは、切符を購入しないようにするために(キセルするために)、座席の下に隠れました。彼らは非常に盛り上がって、少しはしゃぎすぎでした。汽車を乗り換える駅で、クリヴォニシェンコがマンドリンを演奏したり、物乞いのようなことをしたので、警察に一時的に拘束されました。なぜ、そんなことが分かるのかというと、一行は全員で1冊の探検日誌を書いていましたし、個人的に日誌を書いていた者もいたからです。少なくとも5人はカメラを持っていて、沢山の写真が撮られていました。写真には、スキーしたり、笑ったり、雪で戯れたりしているシーンが映っていました。探検を楽しんで、活気に満ちていて、魅力的な若者の姿が映っていました。

 汽車に乗ってから2日後、一行はスターリン時代に建てられた強制収容所のあった人里離れたイヴテリという町に到着しました。そこから、一行はバスに乗り換えて移動しました。バスに1日中乗って移動した後、木材を運ぶトラックをチャーターして荷台に乗り込んで移動しました。その後、馬が引くそりに先導してもらいスキーで移動しました。彼らはセカンド・ノーザンという集落で放置されていた木こり用の小屋で眠りました。そこでユーリー・ユーディンは持病のリウマチが悪化したため、探検から離脱することを余儀なくされました。翌日、1月28日、彼が引き返したので、残りの9人で目的地に向かって出発しました。計画では、探検隊は2月2月12日頃にヴィジャイという小さな村に到着し、探検を終えることになっていて、その際にはUPIのスポーツクラブに電報を送ることになっていました。しかし、2月12日を過ぎても電報は届きませんでした。