9人の遺体発見。死因の究明には至らず。
当初、UPIのスポーツクラブは、探検が少し長引いているだけだと考えていました。というのは、探検隊が入った山のあたりでは大雪が降っているという報告があったからです。また、こうした探検では数日の遅れは珍しいことでは無かったからです。しかし、予定日から数日経過すると、探検に参加した者の家族がUPIと共産党地区本部に心配になって電話をしてくるようになりました。そこで2月20日に捜索が開始されました。捜索隊がいくつも組織されました。UPIの学生ボランティア、イヴデルの強制収容所の看守、マンシ族のハンター、地元の警察などの捜索隊がありました。軍も重い腰を上げ、航空機とヘリコプターも投入されました。2月25日、UPIの学生ボランティアによる捜索隊がスキーの跡がいくつもあるのを発見しました。その翌日には、9人が張ったと見られるテントが発見されました。テントがあったのは、ソビエト当局が「高度1079」と呼んだ山でした。マンシ族はホラート・シャフイル山と呼んでいましたが、ホラート・シャフイルは「死の山」という意味でした。樹木限界線の上なので木は生えていませんでした。テントの中には誰もいませんでした。
テントは部分的に崩壊し、大部分が雪に埋もれていました。雪をどかした後、捜索隊がテント内を見たところ、テントの数カ所が故意に切り裂かれているように見えました。しかし、テント内は、すべての荷物が整然としたまま残っていました。スキー用のブーツ、斧、その他の装備品が入口の両脇あたりに配置されていました。食べ物がいつでも食事を始められる状態で放置されていました。薪、衣服、カメラ、日誌なども整然と整理された状態で置き去りにされていました。
約100フィート(30メートル)ほど下ったあたりで、捜索隊が、森(1.5キロ北東に下る)に向かって続く非常に明瞭な足跡が8~9個あるのを発見しました。その足跡の歩幅等から推測すると、走ったのではなく歩いた際に出来た足跡のようでした。足跡のほとんどは靴下を履いた足跡でしたが、中には素足の足跡もありました。足跡を残した者の1人は、片足だけスキーブーツを履いていたと推測されました。捜索隊が足跡をたどっていくと、足跡は600~700ヤード(550~640メートル)ほど下りながら森に向かった地点で、雪に覆われて見えなくなりました。
翌朝、捜索隊が森が入口あたりにあるリュミドラ・ドュビニナ1本のヒマラヤスギの高木の下で駅でマンドリンを弾いた卒業生のクリボニシチェンコの遺体を発見しました。直ぐ近くに学生のドロシェンコの遺体もありました。2人は下着姿で靴も履いていませんでした。近くに焚火の跡がありました。ヒマラヤスギの高木の枝を見ると、12〜15フィート(3.6~4.6メートル)の高さまで折られたような真新しい跡がありました。また、その高木の幹には人間の皮膚の一部や衣類の破片が付着しているが確認できました(誰かが高いとこに登ってテントを探そうとしていたと推測される)。その日はその後も捜索が続けられ、捜索隊はさらに2人の遺体を発見しました。ディアトロフとコルモゴロワでした。2人の遺体はどちらも斜面をさらに上ったところにあり、森とテントの間にありました。おそらく、2人はテントの方に向かっていたのでしょう。
他の遺体の捜索が続く中、4人の遺体は検死解剖されました。検死官は、いくつかの奇妙な特徴に気づきました。クリボニシチェンコの手の指の何本かが黒く焦げていましたし、足の脛より先に火傷を負っていました。また、彼の口の中には、彼の右手から噛み切られた肉片が残っていました。また、ドロシェンコの死体では、頭の片側の髪が焦げ、片方の足の靴下も焦げていました。その時点までに見つかっていた4人の遺体は、いずれも全身傷だらけで、打撲傷、擦り傷、ひっかき傷、切り傷があちこちに付いていました。さらに数日して、遺体が1つ見つかりました。卒業生のスロボディンのものでした。見つかった遺体は5つとなりました。ディアトロフやコルモゴロワの遺体と同様に、スロボディンの遺体も森からテントに向かう斜面で発見されました。彼の遺体は片方の足に靴下、もう片方の足にはフエルトのブーツという姿でした。彼の遺体も検死解剖されましたが、頭蓋骨に小さな亀裂がありました。
30代半ばの主任捜査官レフ・イワノフが主導して死因審問が続けられました。毒物の調査も行われましたし、沢山の証人に聞き取りしたり、当時の状況を示す現場の図や地図が作成され、沢山の証拠が収集され、法医学的な分析も為されてきました。テントとその中身は現場からヘリコプターで運び出されて、警察署の中に運ばれました。そこでテントは再び組み立てられました。それによって、新たな重要な発見がありました。その時、偶然にも警察署に制服の採寸をするために来ていた仕立屋がいたのですが、テントの切り裂かれた断面を見て、テントは内側から切られていたことに気づきました。
探検隊のメンバーたちは、真っ暗闇の中、吹雪で気温がマイナス20度まで下がっているのに、素足か靴下だけを履いて、テントを切り裂いて外に飛び出したのです。何が彼らにそうさせたのでしょうか?彼らは冬山登山の素人ではありませんでした。彼らは、そんな状況下で十分な防寒もせずにテントを飛び出したらどういうことになるか認識していたはずです。なのに、どうして飛び出したのか?このことが、この事件では謎となっていました。説明のつかない謎でした。とてもミステリアスでした。
残りの4人の遺体が見つからない状況がしばらく続きました。5月初旬、雪が溶け始めた時、マンシ族の狩人と猟犬が例のヒマラヤスギの高木から250フィート(75メートル)ほど森に分け入った先にある渓流のあたりで雪が膨らんでいる場所を発見しました。積もった雪の真ん中あたりが掘られており、そのくぼんだ底のあたりには木の枝が敷かれていました。破れた布切れや被服の断片が散らばっていました。右脚部分が無い黒のスウェットパンツや左半身部分だけになった婦人用セーターなどが落ちていました。マンシ族以外の捜索チームも到着し、そのあたりの状況の検分を続けていると、遺留物がいくつも出てきました。さらに雪をどかしていくと、4人の遺体が見つかりました。それらは渓流の川床に横たわっていましたが、その上には少なくとも10フィート(3メートル)の高さの雪が被さっていました。検死解剖で明らかになったのは、4つの遺体の内、3つは致命傷を負っていたということです。ニコライ・ブリニョーリは頭部に酷い怪我を負っており、骨片が脳内に刺さったような形になっていました。ゾロタリョフとドゥビニナは、肋骨が何本も折れて胸部が押しつぶされていました。また、検死結果を見るとドゥビニナは心臓の右心室に大量の出血があったことが分かります。検死官が言っていたのですが、ドゥビニナの怪我は自動車に激突された際にできる怪我と似ているとのことでした。しかし、ゾロタリョフとドゥビニナの遺体には目立つような大きな外傷はありませんでしたが、ゾロタリョフは両目が無くなっていて、ドゥビニーナは両目と舌と上唇の一部が欠けていました。
森の中の渓流で見つかった4遺体に残されていた衣類や散らばっていた布切れを注意深く調べて分かったのは、4人の内でも後に亡くなった者は先に亡くなった者の衣服を引き裂いて、その切れ端を自分の脚等に巻いていたということでした。また、何人かの犠牲者の衣服に、高い線量の放射能汚染が認められました。放射線の専門家によれば、遺体の線量レベルから推測すると、放射能汚染の原因は何か月も渓流の流水にさらされたことだと証言しました。
5月28日、イワノフは突然調査を打ち切りました。彼の役割は、何が起こったのかを究明することではなく、犯罪が行われたかどうかを判断することでした。9人が亡くなりましたが、殺人事件ではなく、不幸な事故によって死亡したという結論が下されていました。イワノフの調査結果報告書には、「ディアトロフの探検隊が全滅した原因は、抗いがたい自然の力によるものであると結論付けられる。」と記されていましたが、詳細な調査結果は公表されませんでした。それゆえ、それ以降もディアトロフの探検隊の悲劇を巡っては様々な憶測が飛び交うこととなりました。
この事故の事後処理は、当時のソ連の典型的な方法で行われました。つまり、この悲劇にほとんど関与していない多くの人たちが処罰され解職されました。UPIの校長、UPIのスポーツクラブの部長、地元の共産党書記、労働組合の委員長と監査役なども解職されました。イワノフの調査資料、写真類、日誌等の資料は機密文書保管庫送りとなりました。ホラート・シャフイル山(死の山)周辺は立ち入り禁止になり、何年間もスキーやキャンプやトレッキングで訪れることは出来なくなりました。テントは保管されたものの、カビが生えてしまい、捨てられました。ディアトロフらが目指したものの到達できなかったホラート・シャフイル山の鞍部は、ディアトロフ峠と呼ばれるようになりました。
犠牲者の家族は非常に不満を持っていました。彼らの多くが当局に徹底的な調査を求める嘆願書を送りました。フルシチョフに嘆願書を送った者もいました。しかし、更なる調査が行われることはありませんでした。9人の死の原因が特定されたとは言い難い状況が続くこととなりました。